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シュツァーハイトは、現在自分の補佐する有力貴族の男が、ここ数日妙に気を落としていることに気がついていた。
自分から何かを問うことは絶対にしないが、周囲との会話に聞き耳を立てておく。
会議室を出た男に付き従い、共に廊下を進む。その時一組の貴族夫婦とすれ違った。
「やあ、浮かない顔をしてどうしたんだ」
夫婦の夫の方が、男に労わるように声をかける。
男は辛そうに首を振り、深くため息をついてみせた。
「昨日も、一昨日も、いつもの舞台が公演されなかったんだ……。それは暗くもなるよ。あの美しい舞いを見るのが、私の数少ない生きがいだったのに。今日もやらないっていうんだから、踊り子は怪我か病気でもしたのだろうか。心配だ……」
そう苦しげに、うなるように男は言った。
シュツァーハイトは彼女が舞台を休んでいることなど知りもしなかった。一昨日からということは、今日で三日目。もしや、スパイ活動を引き上げ組織に帰ったのだろうか。
無表情の仮面の下でそんなことを淡々と考えていたが、夫婦の妻の方が口にした言葉に、思考は止まった。
「あら、ご存知なくって? あの踊り子の女、スパイの疑いで捕まりましたのよ。今頃は王宮の地下牢ですわ」
男は「そんな馬鹿な!」と、役者も顔負けの身振り手振りで信じられない気持ちを表現していたが、口元を大きな扇で隠した貴族の妻は、なぜか視線をシュツァーハイトにやっていた。
この女がなぜ執拗に自分を見つめてくるのか分からなかったが、シュツァーハイトはこの情報を自分の中に入れないように努めた。
もし彼女がスパイとしてこのまま殺されるようなことになったとしても、自分は決して関わってはならない。これまで気が遠くなるほどの長きをかけて築き上げた全てのものが、水の泡になってしまう。
互いの志を遂げるために。そのために二人は他人になった。
しかし、貴族の女はいやらしくその蛇のような目を細め、シュツァーハイトにとんでもないことを訊く。
「……ご自分には関係ないような顔をされているけれど、冷酷者様はいつかの晩、あの女めとお楽しみだったのではないの? 随分冷たいんですのね」
シュツァーハイトはちらりと貴族の女に視線をやる。
その夫はおかしげに笑ってみせた。
「この冷酷者が? 女と? はは、そんなわけがないだろう。この男はきっと、どれだけの美女にどんな手段を使って迫られようと、全くなびかない堅物だからな」
それを聞く貴族の女の目は、蛇のようにシュツァーハイトをとらえている。何かを匂わせるようにこう言った。
「そう……。じゃあ、長いことお部屋で、二人で何のお話をしていたんでしょうね」
そうだ、覚えている。この女は、以前自分の誘いを断り恥をかかせたシュツァーハイトのことを恨んでいるのだ。夫のいる身でなんという逆恨みを。
以前、中庭でフローリアのことを隠れて観察していたのを見かけたこともある。王宮中の男たちを虜にする、若い女の踊り子を妬ましく思うがゆえだろうが、恐らくフローリアを投獄したのもこの女の差し金だろう。
注意深く行動していたであろうフローリアをスパイだと見抜いたのは凄まじい観察力だとは思うが、どれだけ彼女を付け回していたのか考えると、その執念は恐ろしい。
スパイ容疑でとらえられた女。その女と密会していた男。自分が周囲にどのように疑われるか、相当な馬鹿でない限りすぐに分かるだろう。
「もし本当に踊り子がこの男の部屋に行っていたとしたら、二人で一晩中トランプでもしていたんじゃないか」
まぁおかしい、と貴族の女は夫の下らない冗談に大げさに肩を揺らしてみせる。
彼女の投獄にひどくショックを受けていた有力貴族の男は、今度はシュツァーハイトを「信じられない」という目で凝視してくる。
「冷酷者……まさか本当に?!」
シュツァーハイトは、普段から自分の感情が顔に出にくいことをこれほど感謝したことはない。
意図しない表情が浮かんでしまうから、ではなく。どんな顔をしてこの言葉を言えばいいか分からなかったから。
「私も、男ですから」
そう口にしてみたけれど、事態が好転するような説得力はほとんど得られなかった。
それからしばらく。
彼の立場は次第に悪くなっていった。
あの貴族の女があることないことを、サロンや大食堂、いたるところで喋るものだから、あらぬ噂が様々な尾ひれをつけて一人歩きしていた。
立場のある貴族の妻だ。周りもそう適当には扱えない。
シュツァーハイトはいらだっていたが、怒っても仕方がないと自分に言い聞かせていた。そんなことをしたって冷静さを欠くだけ。怒って事態が解決するのなら、状況が良い方向に向かうなら、いくらでも怒る。
それに、自分に隙や落ち度があったのも事実、と考えたが、自分の正体を知らなかったとはいえ、フローリアが軽率な行動をしさえしなければ良かったのでは、とも思う。
でも不思議と、フローリアが訪ねてこなかったら良かったのに、とは思わなかった。
もう他人となった関係だけれど、あの夜はもう何年も久しぶりに、まともに人と話した気がしたから。その記憶もなかったことにしたいとは思わなかった。
牢につながれる彼女のことを少しだけ考えて、すぐに頭から消した。
他人に構う余裕はない。自分のことを第一に考えるべきだ。
しかし、彼のそんな懸念も、些細な杞憂と化すこととなった。
歴史の波は、ちっぽけな人間ひとりなど個体差もつかぬほど、あっという間に飲み込む。
革命の時は来た。