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 フローリアが目を見張ったのを見て、男は彼女から体を離した。そのまま彼女の背後の扉の錠をガチャリとかけると、何も言わず部屋の奥へ向かった。


 フローリアは何が起こったのか全く分からず、しばらく目をしばたかせたままだった。彼の今の言葉は、一体。


 ここで突っ立っていても背後の扉は施錠されているし、彼の背に続かざるをえない。


 この恐ろしい男の部屋に招かれるなど、猛獣が大きく口を開いた中に飛び込んで行くのと同じ。


 フローリアは胸元に両手を重ね、一度静かに呼吸をしてから、意を決して足を踏み出した。


 男は小さめのテーブルの上の蝋燭以外に、棚にある燭台にも火を灯した。


 真夜中の部屋は薄明るく照らされる。


 盗み見る限り、男の広い部屋から、性格やその人の色といったものは全く感じられなかった。好みや思い出も分からない、個性のない、そこに暮らす人間のことを何も語らぬ部屋だった。


 大きなベッドにはシーツに波が寄っていて、きっと彼は就寝直前だったのだろうと分かった。


 居場所なくそこに立ち尽くす彼女は、彼の姿を目で追う。ゆったりとした長いガウンに身を包んだ男は、棚から酒のボトルをつかみ出すと、ガラス製のアイスペール(氷入れ)から二つのグラスに氷を入れ、テーブルに置いた。


 男はテーブルに添えられた椅子の一つに腰掛け、酒を注いだ。


 もう一つのグラスが置かれた位置と余った椅子からして、フローリアは自分がそこに座るべきなのだろうと察した。


 彼女は遠慮がちに椅子を引くと、身を小さくしたまま浅く腰掛ける。



挿絵(By みてみん)



 男はそんな緊張した様子の彼女には目をくれず、酒を一口飲んで、部屋の壁よりもっと遠くを見つめるようにして、こうつぶやいた。


「何もかもが懐かしい。クルデリヒの奴は相変わらずなのか?」


 クルデリヒ。それは彼女を貧民街から拾い、彼女に名を与えた、組織のリーダーの名前だった。


 この男がなぜその名を知っているのか。彼女は自分の想定をはるかに超えた事態に何も喋れない。


 小さなテーブルに対しハの字に置かれた二つの椅子は、真っすぐ座ると互いの視線は交わらないのだけれど、ちらりちらりと横目に彼を見る。


「この名を口にするのも何年ぶりのことか」


 男は彼女の返事を待たず、言葉を続けた。


「お前のことは覚えてる。俺がこの王宮に入る直前のことだったから、ほんのわずかな期間だったけれど。貧民街から、読み書きも分からない、まともに話すこともできない汚い子供を拾ってきて、スパイに育て上げるなんて、クルデリヒは何を考えているんだと思っていた」


 スパイ、という単語にドキッとする。


 彼女は今、自分がどんな表情を浮かべたらいいのか、どんな態度をしていたらいいのか全く判断がつかないままだった。


 男は彼女に視線をやった。それは優しいものでも暖かいものでもなかったけれど、先程よりは余程柔らかいものだった。


「ただ、まあ……今のお前を見ていると、クルデリヒの考えもそう間違ってはいなかったんだろうと思う」


 男はもう一度酒を口にした。


 フローリアは決心して、まごつきながらも彼にこう質問した。


「どうしてそんなことを知ってるの? 私のこととか、クルデリヒのこととか……。上の方の貴族の人たちは、そんなことまで全部知ってるの?」


 敬語はやめた。何となく、今の彼に対して使うのがおかしいような気がしたから。男もそれを特に指摘したりしなかった。


 その代わり返ってきた一言は、驚きの色がほとんどにじんでいない「まさか」だった。


「そんなことあるわけがない。俺がそれを知っているのは、俺もお前と同じ立場の人間だからだ」


 フローリアの口から漏れるはずだった「え?」が、彼の眼差しに押し戻される。


 彼がじっと自分を見ている。さっきと違って怖いとは思わなかったけれど、その瞳は底のない泉のように深かった。


「俺は、今のお前よりももっともっと若い頃からこの王宮に入り込み、ずっと長いことここにいる」


 彼女が視線を逸らした先に、いつもの職務中の彼の上着がかかっているのが目に入った。胸元に数々の立派な勲章が飾られている。ここでの立場はこれがものを言う。


 彼女は彼に、恐る恐るこう訊いた。


「でも、私、ここに同じようなスパイの人がいるなんて知らされてなかったわ。クルデリヒも言ってなかった」


 男がグラスを軽く傾けて、氷が音を立てる。


「それは……俺が組織を裏切ったと思われているから、だろうな」


「裏切った……?」


 不穏な言葉に反射的に身構えてしまう。


「俺は裏切ったつもりなんてない。俺の志は、この王宮に初めて足を踏み入れた時から何ら変わってない。この理不尽でおかしな政治体制を打ち倒し、市民のための国を作る」


 彼が嘘をついているようには全く思えなかったのだが、腑に落ちないことがあって、フローリアは尋ねた。


「でも、あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ」


 男は少し間を置き、うなずく。


「その通りだ。ただ、目先の小さな事象を阻止したとて、根本はどうにもならない。この先にもっと酷い政策が行われると分かっているのに、そこで正体が露見してしまったり、姿をくらまさなければならない状況になるわけにはいかない」


 闇を見据える男の顔つきは険しい。


「俺はのし上がるだけのし上がって、いつか政治そのものをひっくり返す。本当に止めなければならない、とんでもない計画の実行を阻止できるように」


 彼の言葉を聞いても、彼女は安易にうなずくことはできなかった。責めるような言葉が口をついてしまう。


「だからといって……。あなたの実行した計画のせいで被害を受けた人たちは、確かにいるのよ」


「じゃあ、その人々だけを助けて、後からもっと被害を受けるであろう別の人々は見捨てたらよかったのか? 今だって、指示される数々の酷い計画を、より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。俺がここから居なくなれば、暴走した政治はもっと酷いことになる」


 フローリアは視線を太股の上の小さな拳にやって、黙っている。


 男は、目力で気圧せば、彼女を無理にうなずかせることもできた。


 だが、男は口に酒を含み、喉に押し流すと、静かにこう言った。


「……まあ、クルデリヒも納得しなかったからな。お前が不満に思うのは、予想の範囲内だ」


 彼の言葉ににじんだほんのわずかな寂しさに、彼女は質問を変えた。


「……あなたはクルデリヒや組織のみんなに裏切ったと思われてる。それでもあなたがスパイとして頑張り続けるのはどうしてなの?」


 彼は問い返す。


「お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 読み、話せ、人並みの生活が出来る人間になった。組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ」


 彼の問いに、彼女は真っすぐな瞳で答えた。


「貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。国を倒すとか市民の政治を行うとか、難しいことは正直あまりよく分からないの。でも私は、少なくとも私の周りの人たちに、不幸せな気持ちになってほしいとは思わない」


 口には出さないけれど、家族のように思っている集団。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたい。


 男は彼女の言葉を聞いて、こう返した。


「じゃあ、俺もそうだ。会ったことも見たこともない人々のために、曖昧な正義感や義務感で動けるほど俺は出来た人間じゃない。顔を思い出せる全ての人々のために。例え相手がこちらを見切っていようとも、最後まで志を貫く。俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟も決めている」


 彼の言葉に迷いはない。


 でも。


 フローリアは、それでいいの? とも思う。


 あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。


 その時ふと、彼の口から、彼女の聞き覚えのある言葉がこぼれてきた。


「……『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』」


「クルデリヒの口癖ね?」


 男はうなずく。


 これをそらで言えるなんて、ここまで話していて別に疑っていたわけではないけれど、彼は本当に組織の人間だったんだなと思う。


「ねえ。あなたはどうして組織にいた……組織にいるの?」


 自分は裏切ったつもりはない、と言う彼に気を遣って、言葉の終わりを訂正する。


 男は特に気にするような様子も見せず淡々と答えた。


「よくある話だ。元々市民階級だったが、子供の頃に流行り病で両親が亡くなり、路頭に迷っていたところを組織に拾われた。両親が知識階級だったから、俺は昔から人並み以上の読み書きや、学問の基本的なことは出来た。それからスパイとして事務手伝いから王宮に入り、ここまできた」


 事務手伝いからここまでのし上がった結果得た、この広い部屋で、同じく得た酒を囲む二人。


 フローリアはまた尋ねた。


「どうして裏切ったと思われてしまったの? それと、どうして裏切ったと思われたことが分かったの?」


「俺が酷い計画を進んで実行していると思われているからだろう。クルデリヒが阻止して欲しかった計画も、俺は阻止をしなかった。俺は細かいことを組織の連中に説明したかったが、この立場を危ぶませず伝える手段がなかった。短時間の密会で簡潔に伝えることは難しいし、使いの子供に細かいことを書いた書簡を持たせるのは危険が大きい」


 男は酒をあおる。


「そのうち使いが来なくなり、代わりに俺を殺そうとするスパイが王宮に送り込まれた」


 驚いて目を丸くするフローリアに、男はその暗い瞳を向ける。


 フローリアは思わずどもってしまいながら、慌てて胸の前で両手を振った。


「わっ、私はそんなことするようになんて言われてないわよ。そもそも、あなたみたいな人がここにいるなんてことも、全然知らなかったんだもの」


 言葉を重ねるほどになぜか嘘っぽさが増してしまい、フローリアはこの状況を打開できるような言葉を必死で探した。


 だが。


 男は「ふ」と少しだけ小さく笑い、皮肉めいた表情を見せた。


「お前のような小娘に殺せると思われるほど、俺が過小評価されているとは思いたくないな」


 フローリアが初めて見た、男の表情らしい表情だった。


 でも、よく考えたら自分がバカにされたのだと分かって、ちょっとだけムッとした。さっきまでとは事情が違う。立場が同じだと分かったのだから、遠慮する必要はない。


「あなた、いくつ?」


 今まで聞いた話から察するに、自分より年上であることは間違いなさそうだが、見た目を観察するとそう大きく年が離れているようには思えない。


 大体五、六歳くらい上だろうか、と当たりをつけつつ尋ねてみた。


 男はあごに手をやり宙を見やると、さらりととんでもないことを言い出した。


「実年齢はいくつだったかな。子供の頃から体がでかかったし、ここに入る時に年齢を大分上にごまかして、以来ずっとそれで過ごすように心がけていたら、忘れた」


 驚くのを通り越して、フローリアは引いてしまう。自分の年齢を忘れてしまう人がいるなんて、頓着がないにしてもほどがある。


 ぎょっとする彼女に構わず、男は突然、こんなことを口にした。


「……お前の舞台、少しだけだが、見たよ。スパイとして忍び込むためだけにあそこまで仕上げたのなら、大した技術力と表現力だ」


 一応、見ていたのか。フローリアは何となく気恥ずかしくて、自然と視線を逸らしてしまう。声が少しこもり、小さくなる。


「……割と好きなのよ、ああいうの」


 いつもは下心丸出しで大げさに褒め称えられるか、極端にけなされるかで、こういう風に自然に褒められることはほとんどなかった。


 しかも、この男がまさかこんな風に言うとは全く予想しておらず、どうしたらいいか分からなくて、目の前の酒の入ったグラスを初めて手に取った。


 そして、カハッ、と盛大にむせる。


「つ、強いわ、これ……」


 喉が焼けるよう。一体何が入っているの、とでも言いたげな視線をグラスに向ける。


 男は呆れたように、


「そんなに一気に飲むからだろ……」


 と口にした。


 テーブルの上の蝋燭はだらだら汗をかき、随分とその背丈を縮めていた。


 薄く細かい模様の入った壁紙に、二人の影が映し出されている。


 星も眠る真夜中。この部屋だけが時間の流れから切り取られたかのような、静かで、不思議と穏やかな時間は過ぎる。


 そして。


 火は消される。


 彼女を部屋から送り出す時、男は扉を開ける前に、最後に壁際でこう言った。


「もう二度と、俺に接触するんじゃない」


 彼女は男の顔を見上げ、その言葉の意味を少し考えてから、間を置いてゆっくりうなずいた。


 窓から部屋に注がれる強い月光で、互いの表情が分かるくらいには明るい。


 そして、彼女も彼に最後の質問をする。


「最後に、冷酷者ルシュレヒタなんて通り名じゃなくて、あなたの本当の名前を教えて。それまで忘れたなんてことはないでしょう?」


 彼を見上げる、月明かりの溶け込んだ丸い二つの瞳。


 まあ、自分以外に一人くらい、本当の名を覚えている奴がいてもいいか。そう思って彼は、もう何年も口にしていなかった名前を口にする。


「シュツァーハイト、だ」


 彼女はいつものようなよそ行きの笑顔でなく、うっすらとだけ微笑みをたたえた。


「そう。おやすみ、シュツァーハイト。お酒をごちそうさま」


 別れの言葉の代わりにそう残して、彼女は扉を開け、暗闇に姿を消した。


 自分の本当の名前が呼ばれるのを久々に聞いて、シュツァーハイトはとても自分のことのようには思えず、まるで他人の会話をどこかで聞いているようだと思った。

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