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情報を探っていく中で、フローリアは知った。
冷たい目をしたあの男。人々に「冷酷者」と呼ばれるその男が、貧民街のスリグループの掃討作戦の指揮を執っているそうだ。
話を聞くと皆が口を揃えて言う。あの男は、指示されたことはそれが例えどんな残酷な行為でもやり遂げる、と。過去に彼が実行した計画のいくつかを聞き出せたが、それはとても信じられない、信じがたいものだった。
こんなことを指示する人間が一番おかしいのは決まっている。しかし、それを顔色一つ変えず実行に移せる人間も、十分に恐ろしいと感じる。
いつもの夜の公演を終えた彼女は、宮殿を出たと見せかけて、真夜中に再度忍び込んでいた。背の高い大きな窓から差し込む月明かりを避け、暗闇を選んで歩く。
入り口に大柄な門番が居たけれど、艶かしいウインク一つですり抜けた。
宮殿の中心部には行政に関連する執務室や会議室が多く入り、そこから色々な建物に繋がっている。彼女が踊る舞台があるホールも、サロンも、書庫も、宝物庫も。
そしてそこからまた細く枝が伸びるようにして、個人の部屋が並ぶ大きな建物がいくつも続く。千を超えるその室数は、一つの建物に入りきることは到底不可能で、階級ごと、または権力の強さや各勢力の対立関係を考慮した場所に、それぞれの部屋が割り振られていた。
フローリアが足を進めるその先は、宮殿の中心部から大分離れた場所にあった。会議室の並びを抜け、ホールを横目に見送り、細長い回廊を通る。廊下の灯はほとんど落とされていて、月光に見放された場所は不安になるほど真っ暗だった。たどり着いた建物全体に、シンと静寂がなだれこんでいる。
目的の建物の最上階。絶対に間違えぬよう階段から室数を一つ一つ数え、あの男の部屋を訪ねた。勿論、約束も予告もなく。
彼女は扉を三度、小さくノックした。
少し間があってから、扉が細く開かれる。
光の宿らぬ目をした男は、探るような視線を向けてくる。
「入れていただいてもよろしいでしょうか?」
彼女は薔薇色の口紅が引かれた唇を動かして、用意しておいたセリフをなぞる。
細められた彼女の目は、自分が部屋の入り口に立っているこんなところを誰かに見られたら、あなたが困るんじゃないの? と語っていた。
いつもは整髪油で後ろに撫で付けられた男の髪も、真夜中の今ばかりはくたりと前に落ちている。少し湿った髪の毛先が、モノクルを外した目の前をちらついていた。
何を考えているか読めない無表情で、男は彼女一人が通れるだけの隙間を開けた。
計画通り。彼女は色っぽく微笑み、部屋の中に体を滑り込ませた。
が、しかし。
男は彼女を、テーブルの上の蝋燭だけが灯った薄暗い室内に入れると、その一歩から先を進ませなかった。
背後すぐで扉が閉まりきり、前方を男の体に塞がれ、そこからわずかも身動きが取れずフローリアは体をすくめる。
予想外の展開に彼をちらと見上げると、恐ろしいとさえ思えるほど冷たい目をした男が、自分を視線だけで見下ろしていた。蝋燭のほのかな明かりも、彼が背負う形になっているから、彼女から見る彼の顔には大きく影が落ちていた。
「何が目的だ」
フローリアはイレギュラーな反応に焦りを覚えた。しかしそれを顔に出すことはない。媚びるように笑んでみせる。
「お疲れではないかと思いまして」
だが、自分のペースには全く持っていけない。
男はナイフのように尖った言葉を彼女に浴びせる。
「貴様は個人の部屋にまで舞いを見せに来るんだな。まさかそれ以上のこともして回っているのか? 下卑た女め」
彼女はスパイとして、自分の感じる感情の一切を押し殺し、微笑みを崩さない。
「……冷酷者様のご想像のままに」
その言葉に何の反応も示さず、男は彼女に詰問する。
「それで、なけなしの自分の持てるもの全てを差し出してでも、貴様は何を望もうとしている」
男が何かを手にしているわけでもないのに、下手なことを口にしたら、そのまま切り裂かれてしまいそうだとさえ思った。フローリアは、今感じているこれが「恐怖」というものなんだと理解した。
表情に微笑みを保てていたか分からない。彼女は刃物の切っ先を喉元に向けられているような気持ちで、固いつばを飲み込む。
声が強張る。これは嘘や遠回しな言葉を使ってもしょうがないだろう、と思った。
「貧民街に火を放つのは、どうかおやめください」
「……なぜ」
少し思考するような間をおいて、男は再度問うた。
彼女は自分のまつげが震えそうになるのを感じていた。思考の読めない彼の暗い目と見つめ合うのが苦しくて、目を逸らしてこう続ける。
「あんな者たちでも、いなくなれば税収が下がるかもしれませんし、貧民街から市街に汚い人々が出てきたら、市街に赴く機会のある貴族の方々もきっと不快な――」
「違う」
彼女が何とか並べようとした言葉をさえぎり、男は彼女のあごを片手で引いて強引に自分の方に向け、強制的に自分の目と見つめ合わせた。
男は自分の顔を彼女に寄せ、至近距離でこう迫る。
「貴様がなぜ、わざわざ自分の身を差し出してまでそんなことを願うのか訊いてる」
自分の流れに持っていけない、どころじゃない。圧倒的なまでの彼の流れから逃れられない。
彼女は表情をボロボロに剥がされながらも、歯が震えないように必死で噛み締めながら、
「……貧民街の人たちを、殺さないで」
とだけ、何とか声を震えさせずに言えた。
男は黙ったまま彼女の目を見ていた。そしてほんのわずかに眉をひそめる。
「踊り子。名前は」
なぜ今、そんなことを訊くのかと不思議に思いつつ、この質問に答えない権利など自分には無いのだと分かっている。
彼女は自分の大事な名前を口にした。
「……フローリア」
男は彼女の小さなあごを片手で拘束したまま、少し考えるように目を細めると、こうつぶやいた。
「フローリア……。そうか、お前、あの時の貧民街の拾われ娘か」
彼の言葉に、フローリアはすぐ目の前の彼の顔を凝視した。