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彼女は王宮の裏出口で、痩せた少年に小さなメモ書きを預けた。
緑の茂るこの小さな中庭には、いつも人気がない。
背の高い木々が城壁に落とす濃い影の中で、気をつけて帰るように言う。
その時。
「貧民街のガキに食い残しをくれてやるな」
遠くから急に男の声がして、彼女は立ち上がって宮殿の方を振り返った。
かなり上背のある若い貴族の男が、宮殿の回廊からこちらに鋭い視線を向けている。
整髪油で後ろに撫で付けられた、白みがかったシルバーブロンドの髪に、右目の眼窩には鎖のついた銀のモノクル(片眼鏡)がはめられている。その奥には青みがかった灰色の瞳が。
職務中なのか、白い手袋をはめた手には大量の書類が抱えられていた。
「この王宮から出るものは、ゴミの一つであろうと全て貴族のものだ。王宮の周りで乞食をされても迷惑だ」
温度を持たない声。
とらえられたら凍り付いてしまいそうな冷酷な眼差し。人を上から見下すことに慣れている目だ。
その男の態度は、逆らう者には容赦しない、と物語っていた。
男に声をかけられたのとほぼ同時に、彼女が手紙を託した少年は風のように走り去った。勿論、男を睨みつけることを忘れずに。その信じられない足の速さは、捕まれば命を取られるまでタコ殴りにされるスリの恐怖から培われたものだ。
別に、宮殿の残飯を分け与えていたわけではない。
しかし、身分が絶対のこの場所で、そんな言い訳を出来る相手でもないだろう。
がたいの良い男の身体を覆う立派な上着の左胸部分には、歩くと音がするほど多くの勲章が飾られていた。ここではその種類と数がものを言うのだ。
彼女は深く一礼をする。
「大変失礼いたしました」
彼女は大人だから、あの少年のように睨みつけたりなんてしない。
どんなに不愉快な相手にだって、腹の立つ相手にだって、頭を下げたり微笑んでみせたりできる。
男はなんの言葉も返さぬまま、言いたいことだけ言い、足早にその場を去った。彼の革靴が奏でる足音は、時を知らせる鐘の音のように狂いがない。
彼女は頭を上げて彼の背を見た。
彼女は自分の舞台を見に来る貴族の顔のほとんどを記憶していたが、あの男の顔は覚えがない。
ろくに手もつけずに棄ててしまわれる宮殿のごちそう。ゴミと認識しているものでさえも、人に分け与えるつもりはないのか。お偉い貴族様の考えていることは分からないし、分かりたくもない。胸糞が悪い。
彼女は本音が表情に出てしまわぬよう気をつけつつ、気持ちを静めようと一度深く呼吸した。
木々の葉の隙間からこぼされる光をちらりちらりとその身に受けながら、彼女は自分の子供の頃を思い出す。
両手からはいつもゴミの匂いがしていた。何度洗ったって落ちやしない、しみついた匂い。
ゴミをあさって手に入れたわずかな食べ物も、持っていると襲われ奪われた。だから、得たものはその場で貪り食った。
貧民街の暗い路地裏では、服を二枚持つものが、服を一枚しか持たない者に殴り殺されていた。
犬猫と食料を争う。
馬車が荷崩れして転がった作物に無我夢中で群がって、馬車を引く御者に靴の先で頭を蹴られたことがあった。その時頭皮がめくれた傷は、髪で隠れた中に今も痛々しく残っている。
彼女に転機が訪れたのは、いつものように市街の細い路地でゴミあさりをしていた、ある時。
見知らぬ大人の男性に声をかけられた。
「おい、そこの残飯あさりの子供。私に笑ってみせろ。そうしたら飯をやる」
貴族ではない。けれど確かな威圧感のある壮年の男性に、彼女の周りにいた子供たちは転がるように駆けて逃げ出した。
しかし、彼女は逃げなかった。
凍りついた表情筋をありったけの力で動かして、男を見て笑ってみせた。
それはとても笑顔と呼べるような代物ではなかったが、男は満足したのか彼女にこう言った。
「そうだ、それでいい。プライドなんてものがいくらあったって、腹は膨らまない。どんなに憎い相手にだって、媚びへつらって見せろ。自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ」
当時、彼女は満足に人と会話ができるほど言葉を理解できていなかったのだが、その男の存在感に、差し出された手を吸い込まれるように取っていた。
それから彼女はスパイとして育てられた。
男は、理不尽な貴族政治の打倒を画策する市民組織のリーダーだった。
市民階級であっても、一部上位の知識階級でなければ、貴族と渡り合えるような十分な読み書きの能力を持ってはいなかった。
貧民街の子供ならばその無学さは尚更だった。教育を受けるどころか生まれた頃から家族を持たず、最低限の言葉以外満足に話すことが出来ない者も多かったし、彼女もそんな一人だった。
彼女に人間らしい生活を与え、化粧を施し、香水をふり、髪を整え、綺麗な服に身を包ませると、花のように可憐な美しさを持っていることが分かった。
リーダーは彼女に、貴族と話せるだけの言葉と知識、礼儀と教養を教え込み、文字を教え、踊り子としての技術を身につけさせた。
彼女は組織の大人たちとの関わりの中で、優雅に微笑む練習もした。一つ笑顔ととっても色々な種類があって、無邪気に笑うだけでなく、誘うように妖しく笑めるようにもなった。
彼女は飲み込みが早く、身体能力にも優れており、演技の才能もあった。だんだん町で有名になり、その評判を耳にした貴族らにより、公演のため王宮に出入りすることが特例で許された。
彼女が知る限り、それまで組織には彼女のような少女はおらず、年若い者といえば使い走りの少年が数人いたくらい。
貧民街の少女を拾ってみたのも、きっと試しにだったか、もしくは気まぐれだったのかもしれない。
彼女を拾ったリーダーは、流行り病で妻と娘を若くして亡くしていたし、組織には事情のある大人が多かった。だからか皆、彼女に何かを重ねていたのか、それなりに優しくしてくれていた。
そして彼女も、もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはリーダーのような存在だったのかな、とこっそり思っていた。
だからこそ、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。
物心ついた頃から独りきりだった彼女には名前がなかった。
貧民街の裏路地では、他の子供らから「橋の下」と呼ばれていた。いつも、ドブ川に架かる橋の下で眠るからだ。
リーダーは彼女に相応しい名前をつけた。
フローリア。
私は、フローリア。
そして彼女は、宮殿の回廊に足を進めた自分を怪しげに観察する存在に、まだ気がついていなかった。