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昼の宮殿は人が少ない。
腰まである長さの、色素の薄いブラウンの髪を背中に流した女は、辺りをさりげなく見回しながら歩き、そう思った。
夜の舞台上とはすっかり姿を変え、何層もフレアが重なったスカートに襟ぐりの広いトップスをあわせている。
深い碧色をした彼女の瞳が左右をうかがう。
ここで暮らす多くの者たちは、まだそれぞれの部屋で過ごしているのだろう。
貴族様たちは毎晩酒宴で忙しいものね、と女は心の中で毒づく。
この国では、形骸的な頂点である王の地位を血縁者が代々世襲し、生まれで区分された身分である「貴族」らが、王の委任を受けるという形で政治の全てを行う。
王宮の敷地内にあるこの一番豪華で大きな宮殿は、貴族たちが暮らし、政治を行う場所。政の中心地。
一応、そのようなていになっているが、多くの国民たちはこの宮殿をそのようなものとして見ていない。
堕落と怠惰の園。
自分たちの裁量で国民たちから巻き上げた税金で、食い飲み遊ぶ貴族たち。総国民の五パーセントにも満たない者たちが、伝統ある血筋とやらを武器に、多くの人々にその暮らしを支えさせている。
重税に苦しむ国民たちにとって、この宮殿はそんな貴族たちの奢侈の象徴だった。
周りの外壁を一周するのに半日かかりそうな広さ。贅を尽くした重厚なデザインと、華美な装飾品。天井や壁面などあらゆる場所に描かれた華やかな壁画。いくつも吊るされたガラスのシャンデリア。
国民一人が一生に稼ぐ全ての金をかけても買えないような宝石が、絵画が、調度品が、あらゆる場所に当たり前のように置かれている。
女の歩く廊下に敷き詰められた絨毯は分厚く、足音を吸い込む。
大人の背丈の三倍の高さはありそうな大きな窓ガラスからは、一つの葉の自由も許さず整形され、刈り込まれている木々が見える。窓ガラスの縁に沿う緩やかな金の曲線が、昼の高い日差しを浴びてキラリと光っていた。
珍しく、宮殿の召使以外の姿を見つけた。
丁度こちらの方向に歩いてくるもじゃもじゃした髪の毛のその男は、魔法の下手くそな魔女が、練習で熊を人間に変えてみたような容姿をしていた。
その大柄な中年男性貴族は彼女の傍までくると、じぃと顔を見た。
「見ない顔だなぁ。召使ではないし……。一体何者だ?」
いぶかしげなその言葉に、彼女は目を細め、薔薇色の唇を緩やかに曲げて微笑んでみせる。
「宮殿への出入りを特別に許されております、町の踊り子でございます」
夜の舞台でのように、しなやかな腕と指先の動きで優雅に一礼した。
スカートのすそを摘まみ、細く長い脚を覆うブーツの爪先を床に滑らせる。
男は「ああ!」と、彼女の動きですぐにピンときたようだ。
そしてその毛むくじゃらの手で彼女の白い手を取ると、指先にじゅっと口付けた。
手を離さぬまま、視線は彼女を見上げ、熱く語る。
「毎晩、ホールに君の舞台を見に行っているよ。ベールの下はそんなに美しい顔をしていたんだね」
そして男は彼女にこう耳打ちする。
「今夜、舞台が終わったら私の部屋に来ないかい。君の踊りの感想をたっぷり伝えたいんだ」
彼女は黙ったまま、ずっと変わらぬ微笑を口元にたたえ、はいともいいえともつかない妖艶な眼差しを向けていた。
ここで強引に迫るような真似は、男女の駆け引きでは無粋だ。
男もニヤリと微笑んでみせると、手を離し、彼女に熱い視線を送ってその場を去った。
女は去り行く男の背中に、また優雅に深く頭を下げてみせたが、その下を向いた顔は微塵も笑ってはいなかった。
舌打ちが出そうになるのを何とかこらえ、男がキスした指先を服で何度も拭う。
彼女は先を急いだ。
向かう先は、ある重要な役職に就く有力貴族の執務室。
人目がないか注意を払いつつ、密かに入手した合鍵で扉を開ける。
室内に入り込むと彼女はすぐに机や棚をあさり、中の書類や書簡を探し出す。
しなやかな指先が素早く紙をめくる。視線が文字列をなめらかになぞり、すぐに行を移る。
この部屋には彼女しかいないけれど、誰かが見ていたのならば、彼女がただの踊り子ではないことは一目で分かっただろう。
彼女が沢山の書類を見ていると、最新の政治計画のひとつのある項目が目に留まった。
どうやら貴族たちはまた、国民の税負担を増やすつもりらしい。
この王宮を中心とする「王都」。それを取り囲む城下の「市街」。そしてその華やかな周りに、カビが生えるように暗く広がる「貧民街」。
王都に住まうは貴族。市街に住まうは、規定の税を納められる市民階級。そして貧民街には、税など納められるわけもない貧乏人、病人、孤児らがいた。
更に書類を読み進めると、とんでもない計画が提案されていた。
貧民街のスリグループの掃討作戦。誰かが貴族の財布に手を出したか何かで、それを名目に、なんと貧民街に火を放つというのだ。
あそこに住まざるをえない人々の多くは、国の失政により家族を失った子供たちだ。
火をつけるなどとんでもないことをする前に、やるべきことはもっとあるはず。
それに、貧民街の奥深くでは、寝たきりの病人や老人たちも暮らしている。
ただひっそりと死を待つだけの彼らさえも、燃やし尽くしてしまおうというのか。
彼女の表情は険しい。
教えないと。そして、阻止しないと。
そう思った刹那、扉の外に気配を感じ、彼女は机の下に身を隠した。ドクンと跳ねる鼓動を抑えて息をひそめ、まるで自分の耳が扉についているかのごとく、全神経を廊下の方にやる。
分厚い絨毯が足音を吸収していてほとんど聞こえないが、彼女の今までの経験と鋭い勘で、扉の傍から気配が去ったことを察知する。
時間的に、そろそろ貴族たちが活動しはじめているのかもしれない。
彼女は書類を元に戻し、十分に注意した上で部屋を抜け出した。
何事もなかったかのように、先ほどと同じ微笑みをたたえ、しなやかに足を進める。
向かいから貴族の女性がやってきたので、彼女はまた深く一礼した。
貴族の女性は、関わりたくもない卑しいものを見下す目で彼女を一瞥する。分厚い羽の扇で隠した口元で、どんな聞くに堪えない暴言をこぼしているかは、聞き取りたくもなかった。
彼女は心底不快に感じたが、同時に仕方のないことだとも思う。
本来なら自分は、この王宮に立ち入ることのできるような立場の者ではないのだから。
この王宮において、貴族以外は人間ではない。愛玩用の犬猫や、畜生と同じだ。
そして彼女は、貧民街の生まれである。