6
その日、フローリアはなんだか心が寂しくて、夜遅くに仕事を終えると、宿に帰る道を急いでいた。
一人でいると精神的にグラグラしてしまって、落ち着かなかった。なんとなく、誰でもいいから人に会いたかった。人と一緒にいたかった。
足を進める町並みには、この時間帯でもまだ人がいたというのに、彼女の人恋しさは全く紛らわせなかった。
朝から晩まで丸一日の労働でへとへとのはずだったが、早足で宿の部屋に戻る。
だが、部屋に灯りはともされておらず、シュツァーハイトの姿もなかった。
少し、ドキリとした。
最低限の彼の荷は置いてあるし、彼も仕事の終わりがとても遅くなることはままある。
それでも、心臓が跳ねた。息が苦しくなった。
彼がいなくなってしまったのかと思った。
いなくなってしまった?
フローリアは考える。
別に、彼と共に放浪する約束なんてしているわけじゃない。突然いなくなったとしても何らおかしくはない。
そう頭では分かっていても、なんだか落ち着かなくて、ベッドに腰掛けドキドキしながら彼を待っていた。
そして、彼はそのあとすぐに部屋に帰ってきた。
フローリアは戸の開く音にぱっと立ち上がって、「お疲れさま」と彼に伝えに行く。
シュツァーハイトは、自分が部屋に戻っただけなのに、彼女が珍しく駆け寄ってきたので、「何かあったのか?」と警戒した。
フローリアは「特に何もないけど」と返す。本当に、特に何かあったわけではない。
「遅かったのね」
と彼女は言う。
しかし彼は、
「そうか? いつもとそれほど変わらないと思うけどな」
と首をかしげた。
彼女の様子が何となくおかしい。変なことを言う。
それに、彼女の澄んだ瞳はわずかにかげっている。
今夜の彼女は、まるで風にあおられるか細い蝋燭の火のようだと思った。このまま風に揺らめき、身を削がれて消えてしまいそうにさえ見えた。
何かがあったのかもしれないが、彼女も自分から話さないようだし、何も訊かなかった。
彼女の問題は自分がどうこうできることではないだろうし、必要以上の余計なことに踏み込むような関係でもない。
もし何か大事な事項であれば、自分から言ってくるだろう。
彼女が持ってきた飲食店の料理の残りを食べ、寝る。
灯りを落とした部屋。暗闇にすぐ目が慣れる。木材の匂いがする。活気ある町の宿は人が多く利用するためか、少し換気したらかび臭さやほこり臭さは気にならなくなった。
今まで泊まった宿の中では、ましな方だと思う。
それでもシュツァーハイトはなかなか寝付けなかった。それはベッドの硬さや狭さのせいだけではないと分かっていた。
疲れたから、と早めに横になった彼女に視線をやる。
相変わらず二人は、安く済む一人分の部屋を借りていて、夜は小さなベッドで背を向け合って、身を小さくして眠っていた。
一瞬、彼女が呼吸をしていないように見えて、上半身を起こして彼女の寝顔を覗き込む。小さく丸まって寝息を立てている。
何を馬鹿なことを。
人はそんな簡単に、死んだり消えたりなんてしない。
彼はそう自分に言い聞かせたが、さっき確かにドクンと心臓が大きく波打って、全身を不安に包まれた感覚は、なかなか忘れられなかった。
シュツァーハイトは背中をベッドの上に戻したが、今日はなんとなく、彼女の方に体を向けて寝た。別に、反対を向いて寝ろと彼女に言われたわけじゃない。
それに、ずっと同じ方向ばかり向いて寝ていると、首も肩も痛くなる。そう考えながら、彼は目を閉じた。
翌朝、フローリアが鳥の声と共に目覚めた時。いつもより体が温かい、と感じた。
朝方は空気が冷えるので、いつも薄っぺらいデューベイ(羽毛布)を鼻先まで引き上げて耐えていたくらいなのに。
その温かさの正体がなんなのか、寝起きのぼんやりとした頭だったがすぐに分かった。
彼の片腕が、自分に覆うようにかけられている。
一瞬でまどろみも吹き飛ぶほどに驚いた。
この彼が意識的に変なことをしようとするわけはないし、今までこんなことは一度もなかったけれど、寝相なのだろうか。まさか彼が自分相手に血迷ったりするなんてありえないだろうし。
背中を向けているので、彼の顔はうかがえない。でも、耳を澄ますと小さく寝息が聞こえる。腕がここにあるのだから、こちらを向いて眠っているのだろう。
フローリアは考える。
疲れていると寝相が悪くなると聞いたことがあるし、ここ最近二人とも毎日朝から晩まで働いている。自分もすごく疲れているし、きっと彼も疲れているのかもしれない。
すぐに腕をどけるとか、ベッドを抜け出してしまってもよかった。
けれどフローリアはそのままの体勢で、朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気中のごく小さなほこりが金色に浮かび上がらされているのを、じっと見つめていた。
人の体ってこんなに温かいんだ、と思った。それと、私よりこの人の方が体温が高かったりするのかな、とも思った。
そして、男の人の腕ってこんなに重たいんだな、と考えてから、少しだけまた目を伏せた。