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またしばらくの放浪のあとたどり着いた町は大きかった。ここはこの国の首都である。
町並みはレンガ色の屋根と漆喰の白い壁で統一されていて、訪れる人々はまるで自分たちが絵画の中にいるようだとさえ思えた。
町の小路は蟻の作る巣のように細く曲がりくねり、二十歩以上まっすぐ進めば壁に当たってしまう。
中心地には歴史ある大きな城が建っていて、建物の先の方には数え切れないほど多くの尖塔が、天に向かい伸びている。故郷の建築物とは全く異なる趣向。
人々がたくさん集まる地は、情報も多く、仕事もある。
人が多いのは何かと危険ではあるが、二人はここに宿を借り、しばらくまとまった金を稼ぐことにした。
今までの道中、完全に金が尽きたことはないが、仕事が得られず、金銭面の不安でピリピリして過ごす時期は何度かあった。
この先何があるか分からないし、少しでも金を貯めておきたかった。
一人、仕事を探そうと町を歩いていたシュツァーハイトは、巨大な城をその足元から見上げた。白い雲が泳ぐ濃い青空を突き刺すようにそびえ、先のほうは高すぎてうかがえない。
晴れていて暖かいが空気は乾いていて、彼はしばらく、大きな雲の作る影の中に立っていた。
王宮にいた頃、この国の政府とも色々やりとりをしていたから、何度かこの国に宛てて書簡や文書を作成したことがある。自分がこんな城に手紙を送っていたなんて、自分の書いたものがこの城の中にあるなんて、なんとなく信じられなかった。
ふと、シュツァーハイトは自分に近づく気配に気づき、視線を戻した。
すると目の前には。
腰まであった長い髪を、ばっさり肩まで切ったフローリアがいた。
毛先が肩に触れるくらいで、首を傾けると白い首筋が少し覗いた。
彼女は自分に薄く微笑んでいる。
「……切ったのか」
シュツァーハイトがそう一言だけ言うと、フローリアは「うん」と浅くうなずいた。
「人が多いところだし、ちょっとでも見た目を変えたほうがいいかなと思って。あと、野宿する時邪魔だしね。前から切りたいと思ってたのよ」
そうペラペラと饒舌に理由を重ねる彼女は、彼に説明をしているというよりも、自分に言い聞かせているように見えた。
シュツァーハイトは「そうか」とだけ言って、二人はまた別れた。
フローリアはこの町で過ごすしばらくの期間、ある飲食店の裏方を手伝った。
彼女に仕事を求められた店主は、彼女の顔立ちと愛嬌を評価し、是非給仕として店に出てほしいと頼んだのだが、申し訳ないけれど、とそれは辞退した。
国中から沢山の人々がやってくるこの町の店では、どんな人に顔を覚えられるか分からない。
開店前や閉店後の清掃、食材の仕込みの手伝い、厨房の雑務などをやらせてもらった。飲食店だと残飯や腐りかけの食料を貰えたりするので助かった。
ある昼下がり、来客のピークをようやく越えた頃。
フローリアは空の酒瓶が入った大きな木箱を両手で抱えて、近所の酒店まで運んでいた。
町は朝から晩まで絶えず賑わっていて、こうした昼間なんかは芸人が広場や路上でパフォーマンスを披露していたりもする。
ある大通りに差し掛かった時、そこにある大きな劇場が目に付いた。飾られた看板の文字は読めなかったけれど、恐らく今夜行われる演目のタイトルだろう。
軒先には小さな野外の特設ステージが組まれていて、出演者とおぼしき華やかな女性が、道行く人々を舞台に誘うように歌っていた。
私なんかが誘われているわけじゃない、と分かっていたけれど、その明るい舞台に足が自然と止まった。
歌う女性は長い髪をふわふわと巻き、そこに鮮やかな色の花を飾っている。薄く紅が差された頬。まぶたの上にはキラキラと光る粉が塗られている。長い爪は赤く塗られ、身にまとう衣装にはオーガンジーがあしらわれて、光沢が美しい。
フローリアは胸がきゅっとなった。
音楽は好きだし、人の芸を見るのも好きだったはずなのだけれど、今はあまり見たくない。
自分のみじめな格好と、日の当たらない場所を思う。
あかぎれの多い、皮膚がザラザラして固くなった手と、白くなって欠けやすい爪。国を出てから、持っていたわずかな装飾品を売ったり、服を何度か安いものに買え変えたりした。昔から着ているものもまだあったけれど、厳しい旅路ですっかり古くなり、くたびれている。化粧なんてもうどのくらいの期間していないだろうか。
別に、踊りなんてスパイの技術の一つだったはずなのに。
もっと昔なんて、名前すら持っていなかったのに。
フローリアは思う。
持つものがない時は、持てるものがないことを悲しいと思っていた。
でも、持つものがあると、それが奪われたり汚されたりして悲しいと思ってしまう。
あってもなくても苦しい。
生きることはこんなにも難しい。心は自分の中にあるはずなのに、全然自分の思い通りになんてならない。いつも他人に手を突っ込まれて、心の中を無遠慮にかき回される。
フローリアはステージで歌う女性に、小さく歌声を重ねた。
『あなたのゆく先が悪夢だとしても、私を一緒に連れていって――』
昔、好きだった流行りの歌。今は歌うと辛さが増した。