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二人はまたひたすら歩いた。
あの革命の日から大分経った。早いところ、この隣国を抜けてしまいたかった。
大小いくつもの町を、東に向かい転々とする。
シュツァーハイトの腕は問題なく動かせるほどに回復し、力仕事でなければそれなりに働くこともできた。
たまに仕事のつてやちょっとした縁で、外国語の簡単な翻訳や、正式な書面を作成する依頼をされることがあって、その時は結構な金になった。
周りは、これだけの語学や知識に精通している彼が一体何者なのかと驚いていたが、亡くなった両親が知識階級だったので、とだけ言った。余計なことは話したくなかったし、話せなかった。
そういう依頼をこなすと、よく、金は相応に支払うのでこのままうちで働いてくれないだろうか、と言われることがあった。
彼だって落ち着けるのならそれが一番だと思ったが、ひとところに長く留まることができない、人には言えない理由がある。それに、きちんと仕事としてこういうことをやっては、目立ってしまう危険性もある。
そう言ってもらえて嬉しいけれど、行かなければならない場所があるので、と毎回丁重に誘いを断る。
行かなければならない場所なんてない。むしろ、それがあってくれたならどれだけありがたいことか。
目的地もなく、どこまで行ったらこの当てのない旅が終わるということもなく。働いても働いても、逃げても逃げても、穴のあいた袋に水を入れ続けているような終わりのない疲労感と、自分がすり減らされていくような磨耗感がする。
体はまともに動くようになったが、シュツァーハイトはまだフローリアと、この当てのない旅路を共にしていた。
なけなしの身銭を切り、自分の面倒を見てくれたのは、彼女が勝手にやったこと。だが、それに見合うくらいの返礼をしてから離れてもいいだろう。その方がなんとなく後腐れがないように思えた。
それに彼女も、これからの道中について特に何も言い出さなかった。
また早々に旅立った二人は、小さな林の中で、もう何度目か知れない野宿をしていた。
焚いた火を挟んで向かい合う二人は黙っている。安定のない日々に疲れ、少しやつれているようにさえ見える。パチパチ音を立てる焚き火の方がよっぽどお喋りだった。
シュツァーハイトは大怪我から回復するまでに大分体重が落ちたし、元々細いフローリアももう少しやせたようだった。
夜空には無数の星たちがきらめいていたけれど、天を仰ぐ気力のない二人には関係ないこと。林の木々の奥の暗闇が、二人を四方から取り囲んでいる。
長い沈黙のあと、ふと、シュツァーハイトが口を開いた。
「お前は、歌はやらなかったのか?」
突然何を言い出すのかと思い、フローリアはきょとんとしてしまう。
そして、ああ、踊り子だった頃の話か、と理解した。
「踊りはできたけど、歌はあんまり上手くなかったのよ」
小さな吐息まじりにそう言う。
あれだけ素晴らしい舞いを披露できる彼女が、歌は下手だなんてにわかには信じがたくて、シュツァーハイトは言った。
「試しに何か」
フローリアは、「え、えぇ~」と恥ずかしさをにじませて戸惑っていたが、少しためらったあとに小さく口ずさんだ。
『……全てを差し出しても――あなたをなくすことだけが怖いのよ――』
城下で流行っていた、チープな歌詞の恋の歌。
シュツァーハイトはこの曲を知らなかったが、不意に思い出した。
このメロディは、以前聞いたことがある。
王宮にいた頃、宮殿の最上階の執務室で、ホールから流れてくるこの曲を聴いた。窓を開けると、薄暗い部屋に、ゆるやかな夜風と共にこの音楽が入ってきた。
今もその時と同じく夜風が吹いているけれど、感じるものは全く違っていた。
これまで職務中はずっと手袋をしていたが、この放浪生活で手の白さは大分失われたと思う。
文字を読む時、何かを書く時、つい癖でモノクルをはめようとしてしまう。そんな高価なものを今の自分が持っているわけがないのに。
彼女の歌声に耳を澄ます。
別に下手だとは思わなかった。きっと、歌に比べて踊りの腕が秀ですぎていたんだろうな、と察した。
踊りの舞台など、彼女の以外はほとんどまともに見たことはなかったし、彼女の舞台でさえ遠くから少し見た程度だ。でも、彼女の舞いがあれだけ多くの人々の心をとらえるわけはすぐに理解できたし、そういったものの心得がない自分にも、彼女の持つ踊りの才能はよく伝わってきた。
彼女はもう、踊りの類は全てやめたと言っていた。
どうして、と尋ねたら、「舞いを披露すればお金になるかもしれないけど、噂が広まったりしたら逃げてる意味がないでしょう?」と述べた。
彼女の言う通りだった。
踊りたいと思わないんだろうか。あの夜彼女は、舞いはスパイ活動のためだけでなく、こういうのが好きなんだと言っていた。
彼女から一番輝ける場所を、舞台を奪ったのは、組織なのか、国なのか、民衆なのか、それとも、自分なのか。
シュツァーハイトは傍にあった木の枝で、彼女には分からない外国語で地面に「悪くない」と歌の所感を書いてから、すぐに足で消して、先に眠った。
目を閉じると、まぶたの裏に、いつかの彼女の舞台が浮かび上がった。
磨り減っていく体と心の中に、彼女の歌声の響きが残っていた。