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前の町にはかなり長居してしまったので、二人は母国から距離をとる足を急がせた。
だが、その分落ち着いて休めたおかげか、シュツァーハイトは熱も下がり、腕と体の痛み以外はかなり回復をみせていた。
左腕はいまだ布で吊っていたけれど、一人で歩くことができるようになった。体中にあるあざや傷は、服で覆ってしまえば分からなかった。
しばらく野宿を繰り返し、前の町より大分離れた場所に着いた。
小さな村で、そこには宿屋がなかった。
フローリアは、寂れた小さな売店をその日だけ手伝わせてもらっていたのだが、店主の親切なおばあさんが、彼女が泊まるところがないというのを聞き、うちに泊まったらいいと誘ってくれた。
彼女は少し迷ってこう答えた。
「ありがとう。でも、村の外れで待たせてる、連れの男性がいるんです。彼は怪我をしているので、傍にいないわけにはいかないし……」
するとおばあさんは、
「その彼も一緒に来たらいいよ。怪我人なんだろう? かわいそうじゃないかい」
と優しくそう言ってくれた。
世の中にはこんなに親切な人もいるんだな、とフローリアはクルデリヒに拾われた時のことを重ねて、ありがたく思った。
家はお世辞にも「広い」という言葉には縁がなかったが、小ぎれいだったし、こぢんまりとしていて温かみがある、いかにも田舎の一軒家という感じだった。
ただで世話になるわけにはいかないので、フローリアは家事を手伝い、料理や掃除などをこなした。おばあさんは「店まで手伝ってもらったのに、悪いねえ」と繰り返していたが、フローリアは「いえ、ご飯までいただいたんだもの。このくらいさせて下さい」とにこやかに返していた。
おばあさんは息子夫婦を亡くしており、忘れ形見の孫息子と二人で細々暮らしているという。
その子供は利発そうな顔つきをしており、数多く揃えられた本を何度も繰り返し読んだりして、簡単な学問の心得もあるようだった。食事を終えた居間で、紙に向かって文字の練習か何かをしている。
おばあさんいわく、
「わたしなんて結局、この年になっても文字がまったく読めないからね……。この子には立派になってほしくて、お金を出して勉強の先生に見てもらったりしてるんだよ。いつか大きな学校に入れてあげられたらと思ってねぇ」
とのことだった。
フローリアが食事の片付けなどをこなしている間、シュツァーハイトは少年の勉強を見てやっていた。
「お兄ちゃん、トスリナ語も分かる?」
「分かるよ」
「僕、いつかトスリナ文学の勉強したいんだ。ヴェナビア語訳されたものを読んだんだけど、感動したから、元の言葉でも読んでみたいんだ」
「トスリナ語はこの国の言語と文法構造がほとんど変わらないから、すぐに習得できる。語尾に独特の変化がつくくらいだ」
かつて王宮で「冷酷者」と呼ばれていたあのシュツァーハイトが、田舎の村の子供相手に勉強を教えているなんて。フローリアは少し驚き、おかしく感じていた。でも、平和で微笑ましいな、とも思っていた。
そして。
おばあさんがフローリアに「狭くて悪いけど、二人でこの部屋を使ってちょうだいね」と案内している間のことだった。
シュツァーハイトの隣で紙に文字を書いていた少年が、おもむろに彼を見上げた。
ん、と思って手元を覗き込むと、そこにはつたないトスリナ語でこう書かれていた。
『賢いお兄ちゃん。どうしてこの村にいるのか知らないけれど、あのお姉ちゃんを連れて早くここを出た方がいいよ』
文字を読みきったシュツァーハイトは、顔色一つ変えず、その下にトスリナ語で『なぜ?』と書く。
『うちにはたまに、旅をしていたり、事情があったりする、きれいな外国の女の人が泊まりに来るんだ。でもいつも、僕が朝起きた時にはどこにもいないんだ』
そう書くと少年は、パラパラとその下にあるいくつもの紙をめくってみせた。
そこには色んな言語で「早く逃げた方がいいよ」というような言葉が書かれている。
シュツァーハイトは理解した。これは今までここに泊まりに来た女性たちに見せられたメッセージだ。だが、文字を読めない一般女性は少なくはない。
自国の文字を読めるフローリアでさえも、他国の文字は分からないと言っていた。
この紙には、少年の届かなかった声がつづられている。
シュツァーハイトは、フローリアとおばあさんが隣の部屋の前で話しているのをちらりと一瞥する。
恐らく、連れに男がいたとしても、自分のような怪我人ならば問題ないと考えたのだろう。眠った彼女を夜中にひっ捕まえ、人買いに売る。ろくに体の動かない男など、寝込みをそのまま殺してしまえばいいのだ。
いつかの時の己のように、恐ろしいくらい冷静に思考が回る。
シュツァーハイトは『教えてくれてありがとう』と、最後につづった。少年は彼を見上げると、少し寂しそうな笑顔でうなずいた。
少年が眠りについた頃。おばあさんにおやすみを告げ、用意された部屋でシュツァーハイトと二人になったフローリアは言った。
「良かったわね、今日は屋根のあるところでゆっくり寝られるわ。優しい人もいるのね」
言葉が終わるのを待って、シュツァーハイトは彼女の腕を取り、部屋の一番奥まで連れて行く。
「な、何?」と戸惑う彼女に、しぃと唇の前に指を立ててみせ、彼女の耳元に口を寄せてささやいた。
「早くここを出る準備を。急げ」
フローリアは彼が何を言っているのかさっぱり分からなくて、いぶかしげに小首をかしげてみせる。
「あのばあさんは、お前を人買いに売るつもりでこの家に招いたんだ。あの少年が忠告してくれた」
部屋の外で聞き耳を立てられているかもしれない。シュツァーハイトは十分に用心した小声で、彼女に簡潔に説明した。
フローリアは、信じられない、という顔をしていたが、彼がこんな嘘や冗談を言う人間ではないことはよく分かっている。
それに確かに、あの寂れた小さな商店の利益のみで子供に家庭教師をつけたり、あんなに何冊も本や学問書を用意したりはできないだろうなと不思議に思っていたのだ。
動揺する彼女に「だから、早く」とうながす。
数少ない荷物の類は、シュツァーハイトがさりげなくこちらに部屋に運んでおいた。それらを手早くまとめると、極力物音を立てぬようにして窓から逃げ出した。
こんな日に限って夜中に雨が降り出して、フローリアは自分の溶けかけた心が急速に冷え固まっていくのを感じていた。
冷たい雫が肌を打つ。それだけのことなのに、立っていられなくなるくらい痛く感じた。
頬を伝う雨の筋に、涙が混じる。景色がにじむ。
せっかく、いい人だと思ったのに。人の優しさに、家族の暖かさに、触れられたと思ったのに。
思い出せば思い出すほどに、心が辛くて仕方ない。
これまでこらえていたものも重なって、流すつもりなんてなかった涙が止まらなくなる。
石畳が雨に濡れて、わずかな数の村の家屋の明かりや、軒先のランタンが鏡のように地面に映りこみ、道が明るく光っている。
しょうがない、しょうがない。
フローリアは目の前の彼の背中を追いながら、何度も自分に言い聞かせた。
昔はもっと過酷な生活をしていたはずなのに。人に出し抜かれること、裏切られることなんて当たり前だったはずなのに。こんなこと、なんとも思わなかったはずなのに。
フローリアは思った。
人は、心の痛みに慣れたりなんてできないのね。何度も傷ついてそれを学んできたはずなのに、いつも忘れちゃうんだから、不思議ね。
雨音に混じる、背後から聞こえる抑えたすすり泣きの声に、シュツァーハイトは彼女の手首を引いた。泣いてもわめいても、今はここから離れるために歩くしかない。