13
傍に小川があったので、フローリアは自分の服の一部を繊維方向に裂いてちぎり、水で濡らした。
荒い呼吸をする彼の顔の血を拭い、体中に出来たあざを冷やす。それだけでも、小川と彼のもとを何十往復したか分からない。
しかし、血の跡は完全にはきれいにならなかったし、あざを冷やすのなんて気休め程度にしかならなかった。
それに、後頭部を強く殴られた際に開いた傷口や全身にある傷は、今はどうすることもできなかった。
彼の指示を受けながら、左腕に添え木をした。また服の一部をちぎり、腕を吊るせるように三角状にする。
彼の方が大怪我をしていることは確かだが、早朝に牢から出られたばかりのフローリアもかなり衰弱していた。
仰向けに寝転がる彼に水を飲ませ、自分も水を飲むと、太い木の幹に背を預けた。彼と同じように横になりたかったが、二人でそうしてしまうと、周囲から近づく気配に気づけない。
ずっと会話をする余裕もなかった二人だったが、呼吸の落ち着いてきたシュツァーハイトが、おもむろに口を開いた。
「……戻らないのか?」
彼の言葉に、フローリアは寂しそうに小さく笑った。
「戻れないわよ、今更。私があなたを牢から逃がしたのなんて、きっとすぐに発覚するわ。組織は裏切る者には死を与える。あなたもよく分かってるでしょう?」
シュツァーハイトは言葉を返さなかった。
嘘みたいに澄んだ青空の下に広がる草原は、皮肉なくらい爽やかな風が吹いていて、汗ばむ彼の額を冷やしていく。
フローリアは葉が触れ合うさざなみのような音を聞きながら、彼に尋ねた。
「……ねえ、もう一度訊かせて。どうしてあなたは、あの時私を牢まで助けにきたの? そうしなかったらあなたは今頃、こんな目に遭わずに逃げられてたかもしれないのに」
彼女の静かな言葉に、彼も尋ね返す。
「お前だって、どうして俺を助けに来た。そのまま見捨ててしまえば、組織を裏切らずに済んだろう」
「……あなたを見捨ててのうのうと生きていられるか自問したら、無理だった」
フローリアはしばらく言葉を探してから、そう言った。
「家族のようだと、父親のようだと思っていたのは、私だけだったの。……私は『手段』の一つだってはっきり言われたわ。だから、王宮に潜入していた私に襲撃が近づいていることは知らされてなかった。家族なんかじゃない。私、駒の一つとして、とっくに切り捨てられてたのよ」
悲しげな笑顔をうっすら浮かべると、彼女は視線を落とし、風にそよぐ背の低い草たちをながめた。
「前に、『あなたはどうして一人きりでも頑張り続けてるの?』って訊いたでしょう? 私、あなたは一人きりだけど、自分には組織の仲間や恩人のクルデリヒがいるから頑張れてる、って勝手に思ってたの。あなたのことを心のどこかで哀れんでたんだと思うわ」
風が彼女の前髪をふわりと浮かし、フローリアは自嘲するようにつぶやいた。
「同じような立場だったのにね……」
シュツァーハイトは黙って目を閉じ、彼女が吐露するのを聴いていた。
「あなたと私が似たようなものだって分かって、私は思ったの。私一人くらい、あなたを助けてあげてもいいじゃないって。あなたを助けることで、私は自分自身も助けてあげたかったのかもしれない」
彼女の告白を聴いて、シュツァーハイトは力なく「ふ」と笑った。
「俺はお前に可哀想だと思われていたわけか……」
彼の低い声が、おかしげにセリフを吐き出す。
そして、彼は言った。
「俺はただ、行く場所も帰る場所もなかっただけだよ」
薄くまぶたを開いた彼の視界に飛び込む、まぶしい青空。風の中に緑の匂いを感じた。
今日、王宮が襲撃されたなんて、投獄されて脱獄したなんて、悪い冗談だと思えるくらいに穏やかな場所だった。
「いつかこのおかしな世界をひっくり返すとか。その時の覚悟は出来てるとか。聞こえのいいことを言っていたけれど、いざそうなったら、全然そんなことはなかった。自分がやってきたことへの責任を取る度胸もなく、ただうろたえた」
彼の目は、空より遠くを見ていた。
「意思疎通が上手くいかなかったことと、意見の不一致で組織に見放され、その後の俺は、まるで高い塔の上ではしごを外されたようだった。戻ることはできない、でも、汚い貴族たちには絶対に迎合したくない。俺はきっと、自分が、いつか国のために、志を完遂するためにと牙を磨くスパイだと思い続けることによって、手を汚す自分を弁護していただけなんだ」
彼女もまた、彼の言葉を静かに聴いていた。こうして二人で話していると、あの宮殿での夜を思い出す。その時とは全く、場所も、立場も、二人の状況も違うけれど。
「俺は、お前とは違う。本当にただの裏切り者なんだ。見下している汚い貴族連中と何ら変わりないんだ」
そう吐き出すと、辛そうに目を伏せた。
「情けをかけてもらえるような人間なんかじゃないのに、馬鹿だな、お前……」
フローリアのいる場所からでは彼の顔は見えなかったけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない、と思った。
言葉を返すのが相応しいとは思えなかったので、二人はただ黙っていた。考えることもなかった。ただ、黙っていた。それでも時はあっという間に過ぎてしまう。
市街の方から、ドン、ドンと大砲の音が聞こえてくる。人の発するものとは思えない悲鳴と絶叫が、遠くこだましている。
風に乗って焦げ臭い匂いがしてきた。
それらに追い立てられるように、二人はまた歩き出した。
草原を渡りきり、山岳地帯を遠く左手に、日のあるうちに林を突っ切る。
追っ手がかかっているかもしれない、という焦りと恐怖から、二人は少しでも遠く王都を離れたかった。
彼は大怪我をろくに手当ても出来ぬままだったし、左腕も負傷していたので、彼女の手を借りても早く歩くことはできなかった。小休憩を挟みながら、少しでも遠くへ。
そして、二人が遠く王都を見渡せる小高い丘に差し掛かったとき、空には星がまたたいていた。
しかし、空は明るい。
「王宮が燃えてる……」
シュツァーハイトの体を支えながら、フローリアはぽつりとつぶやいた。
燃え上がる宮殿の火が、夜空を焼いている。
闇夜に雲を作り出そうとしているかのような大量の煙が、王都を包み込んでいた。
世界はこんなに簡単に崩れ去ってしまうものなのか。二人は何も言うことができなかった。
二人があの夜を過ごした部屋も、彼の沢山の勲章も、彼女が踊った舞台も、みな、炎の中で塵と化す。
これからどうしよう、と口にすることもためらわれた。自分たちに「これから」なんて未来はない。
シュツァーハイトは考える。
今の俺は一体、何者なんだろう。
とっくの昔にスパイではなくなった。貴族でもなくなった。市民に戻ることもできなかった。帰るところも、行くところもない。
シュツァーハイトは、隣で自分の体の支えにしているフローリアに視線をやった。
フローリアは考える。
私が今までやってきたことは何だったんだろう。
全く何のためにもならなかったなんてことはないだろう。こうして革命が起き、市民のための国が作られようとしている今に至るまでには、自分の活動の結果もあるに違いない。
でも。
全てが変わろうとしているこの世界で。新しく始まろうとするこの時代で。共に生きたいと思っていた人たちを、理由はともあれ、裏切ってしまった。もう、一緒にはいられないと分かってしまったから。
私は昔、橋の下にいて、名前をもらって、人らしい暮らしを得て、化粧をして、踊りを覚えた。
これからの私は、次はどこに行ったらいいの。何をしたらいいの。
フローリアは、隣で体を支えるシュツァーハイトをちらりと見上げた。
視線が交わって、二人は何か言葉を待った。
きっと、お互い何かを許してほしいんだと思う。そして、何かをしろと、誰かに言ってほしいんだと思う。
でも、二人はもう、チリやゴミの一つさえも出てこないほどに空っぽだった。たった一片の言葉すらこぼれない。
確かなことは、もうこの国にはいられないということ。
ゆくゆくは臨時政府になるであろう組織を裏切った者。処刑されるべき旧体制の立場の者。
二人はここを離れ、当てもなくさまよい続けなければならない。どこに逃げたら終わる、なんてものはない。つかまれば、死へ続く道しかない。
この革命は一体なんのために起こったのだろう。
自分たちが起こそうとしていたこれは、自分たちに与えることなく、ただ奪っていった。新しい時代を迎える人々の中に、自分たちは含まれていなかった。
燃える母国を見つめながら、二人の流浪者は、これ以上何も言葉を交わせなかった。