12
王宮からそう遠くはない場所に、レンガ造りの背の高い建物がある。外壁の表面を固める漆喰は、長きに渡る劣化で変色し、雨だれのあとが濃くしみこんでいた。
フローリアはその建物の一階に、なんでもない顔をして足を踏み入れる。
入り口の見張りに立っていたのは、顔見知りの男性だった。名前も知らないような関係だが、あちらはこちらを知っているようだ。
「おお、王宮でのスパイ活動を終えて戻ってきてたのか。お疲れ」
中枢の詳しい事情には通じていなさそうだ。フローリアは「ありがとう」と、ニコリと笑顔をみせる。
そして尋ねた。
「クルデリヒの使いで来たんだけど。この牢には宮殿でつかまえた貴族たちをとらえてるんでしょう?」
「そうだよ。お貴族様たちが俺たち民衆をぶち込んでた牢獄に、まさか自分たちが入れられるなんて。いい気味だよな」
皮肉って笑う男に、同調するように微笑んでみせる。
「ある貴族から情報を聞き出すように言われてきたの。背の高い、若い男が連れて来られた思うんだけど、どこに収監されてるかしら? 確か、頭から血を流していたはず」
そう説明すると、男はすぐに思い当たったようだ。
「ああ。腕の骨を折られてた奴だろ?」
ドキッとしたが、表情には出さずうなずいた。
「一番上の階の端だよ。下の階ほどうるせえ奴、上の階ほど静かな奴が入れられてんだ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ奴は上まで連れてくのは手間だし、気絶してたりもう死にそうな奴とかは、適当にふん縛ってぽいっと投げとくだけでいいからな」
フローリアは「へえ、そうなの」と相槌を打ってから、教えてくれたことに礼を言った。
「それにしても、君も大変だな。疲れて見えるし、そんなに声も枯れてるのに、やること続きなんだな」
「私たちの国の一番大事な時ですもの。今頑張らずにいつ頑張るのよ」
そう気丈に言ってみせると、男は「そうだよな」と同意した。
フローリアは一階からゆっくり階段をのぼる。そして男から姿が見えなくなってからは、足音を立てぬよう気をつけつつ駆け上がった。
確かにあの男の説明する通り、二階からは騒がしい声に満ちていた。
「出せ! ここから出せ! 無礼者!」
と半狂乱な声もすれば、ワンワンと子供のように声を上げて泣く声もあり、
「命だけは助けてくれ、金ならいくらでも払おう」
と懇願する悲鳴もあった。
だが、それらの声も次第に聞こえなくなる。他の階はちらほら見張りの姿もあったのだが、上の階に行くにつれ人は減っていった。そして最上階には一人も見張りの姿がなかった。
理由は簡単だ。最上階に入れられた者たちは、例え牢に鍵がかかっていなくとも逃げ出すことなんて出来ないほど、衰弱しきった怪我人ばかりだから。
フローリアは、その場に漂う死の近い空気に戦慄しつつ、カツン、と一歩通路に足を踏み出した。
鉄格子のはめられた牢にはほとんど人の姿がない、と思ったけれど、それは違った。
多くの収監者が、薄暗い牢の床にへばりつくように倒れているから、居ないように見えるだけ。
フロアに反響する彼女の足音に反応する気配も、物音も、何もない。
時折、牢の中からヒューヒューと、破れた袋に空気が吹き込まれるような呼吸音が聞こえた。助けを求める声が言葉にならず、うめくような声がする。
最上階の一番端。
男の言う通りの牢の前で、フローリアは足を止めた。黙って持ち出してきた鍵で、その部屋の扉を開ける。
光の届かぬ牢獄に、ボロ雑巾のように捨てられていた。床に四肢を投げ出した彼は、呼吸で胸が大きく上下していなければ、死んでいるように見えただろう。
「シュツァーハイト……。私よ、フローリアよ。目を覚まして」
声が響いてしまうので、なるべく小さな声で、彼の耳元に何度も話しかける。
腕が折られていると聞いたので肩を叩けず、軽く頬を打つ。
するとフローリアの手に、何かがべたついた。
暗くてよく見えないが、血の跡だろう。それでも彼女はそのままそれを繰り返し、名を呼ぶ。
シュツァーハイトは、遠く自分を呼ぶ声に、意識がこの世に戻る。
「冷酷者」じゃない。子供の頃のように、自分の本当の名前が何度も何度も呼ばれている。
薄くまぶたを開けた時、暗くて何も見えなかった。
でも、ああ、生きてる、と思った。そして、人はそんなに簡単に死なないし、死ねることもないのだなと、他人事のようにそう思った。
「シュツァーハイト、分かる? 私よ」
聞こえてくる声に、分かる、と答えようとしたが、殴られた衝撃で口の中が腫れていて、すぐにはうまく動かせなかった。血の味も感じる。歯で切った箇所もあるのだろう。
言葉にならない声が漏れ、それからかすれたたどたどしい声で「フロ……リア」と彼女の名前をなぞった。
意識が浮かび上がってきたせいで、体中にズキズキと痛みをひどく感じる。呼吸をするだけで全身がきしむように痛い。まるで立ちくらみがずっと続いているかのように、頭がぐるぐる回っているような感じがして、気持ち悪い。
皮膚表面も火で炙られているかのような、焼けるような痛みを感じる。特に左腕は、この痛みが収まるのならば切り捨ててしまいたいと思えるほどだった。
苦しい、助けてくれ、と大声が出たのならば叫んでいただろう。
そして、痛みで覚醒してきた意識の中ぼんやり思う。どうして彼女がここにいるのだろう。
フローリアはシュツァーハイトの意識が戻ったことを確認すると、彼を急かす。
「ゆっくりしてはいられないの。立てる?」
互いの顔がほとんど見えないほど暗いため、彼女の表情は分からない。それでも彼女の声から焦りを感じる。
立って歩くなんてとても出来ない、と思ったが、出来なければここでゴミのように死ぬだけだ。
シュツァーハイトは、今頑張ってくれたならもう一生頑張らなくてもいいから、と自分の体に無茶な注文をつけ、彼女の手を借りてなんとか体を起こす。ドッドッと、体全体に血が巡っていくのを感じる。
かすれた吐息まじりの声をあげ、彼女の肩を支えにかろうじて立ち上がれた。
全身の打撲や傷で、身体が思うように動かせない。それでも、左腕に震動が伝わらぬよう努めながら牢を出、足を引きずるように通路を進む。
格子のはめられた通路の窓から、光が入ってくる。
フローリアは明るい場所で彼の姿を見て、
「ひどい……」
と一言だけ漏らし、辛そうに顔をゆがませた。
このまま階段を下ると、途中の見張りの人間に気づかれてしまうかもしれない。それに、一階出入り口にはあの男がいる。自分が男性一人を力ずくで抑え込めるとは到底思えなかったし、大怪我を負っている彼と共に走り抜けるなんて絶対に無理だと思った。
どうしよう、と悩んでいると、それを察したシュツァーハイトは切れ切れになりつつこう言った。
「この牢獄には、抜け道に通じる、隠し通路がある」
そして彼女に支えられながらなんとか一つ階を下り、次の階へ向かう途中のある場所で壁を強く押すよう指示した。
言われるがままフローリアがそうすると、壁は一つ分奥へ行き、脇にスライドさせられた。かなり古い作りだったし、とても重かったので、疲弊しきっている彼女が一人で行うのはかなり大変だった。けれど、弱音を吐いたとて、今の自分を助けられるのは自分しかいない。
現れた隠し通路から続く螺旋階段を下る。狭い道だったので彼の体を支えようもなく、小さな声で「あともう少し頑張って」と繰り返した。
急かしたくはなかったけれど、もし見張りが気づき追っ手がきたら、二人は終わりだ。
シュツァーハイトは歯を食いしばり階段を下っていった。
痛みが行き過ぎて朦朧としてくる中、彼女の言葉にこう思う。あともう少し、でどうなるというんだろう、と。
行く当てなどない。安全な場所などない。全ての行動に「とりあえず」がつく。
螺旋階段を下りきった先、地下通路を歩き、王宮の裏出口に出る。人目に気をつけながら、二人はその場を出来るだけ早く離れるよう歩いた。
そして、彼がもう歩けないと倒れた場所で、わずかばかりの休憩をとることにした。
そこは開けた原っぱで、市街地や王宮方面には背の高い雑草や木々が生い茂っていたので、頭を低くするよう気をつけていれば、とりあえず遠目から発見されることはなさそうだった。