11
日が天頂に昇った昼頃。
騒ぎの中、フローリアはなんとか組織の元に戻った。
市街の中心の広場に、作戦司令本部にあたる場所が臨時に設営されている。人は忙しなく出入りし、興奮した一般民衆と、緊張で額に汗を浮かべている首脳陣の対比が印象的だった。
これから一体どうなってしまうのだろう、と不安げに、家の中や広場の隅から遠巻きに見守る女子供の姿もあった。
フローリアの体には、もう市街の石畳を蹴って走れるような力は残されていなかった。でも、休んでいる暇などない。ふらりふらりとよたつきながら、なんとかたどりつく。
この襲撃の指揮を執る、組織のリーダーであるクルデリヒは、彼女が姿を現した時、少し驚いたような表情をみせた。
だが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。
彼女は必死に訴えた。
民衆に捕らえられたシュツァーハイトを解放して、と。
最高指令席に座するクルデリヒは、髭に覆われた輪郭を指先でなぞると、低い声でその名を懐かしそうに呼んだ。
「シュツァーハイト……。あれに会ったのか」
しかし、クルデリヒの目は厳しくフローリアをとらえる。
「あれはもう、何年も前から我々と連絡を取らなくなった。奴は拾われた恩を踏みにじり、王宮の生活に浸かる中で、貴族に迎合してしまったのだ。もう我々の組織の人間ではない」
クルデリヒの言葉は、フローリアが初めて出会った時と同じように威圧感があり、恩人として慕っているとはいえ「怖い」と思ってしまう。
それでもフローリアは、両手に小さな拳を作って食い下がる。
「彼はずっと機会をうかがっていたのよ。『自分を殺して残忍に、目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても、耐え忍び、虎視眈々と準備して牙を磨き、最後に寝首をかき切った者の勝利だ』って、クルデリヒもいつも言っているじゃない」
そう言う彼女にクルデリヒはギロリと視線をやった。
周りは騒がしく、出入りする人々も多いというのに、まるでここには二人しか居ないような感覚さえ覚えた。
「では、この長い年月、あれは我々組織に一体何をしてくれたというんだ?」
フローリアは言葉を返せない。彼が一人でどれだけ活動していたとしても、組織に直接の利益になるようなものではない。
「あれが今まで数々の残酷な計画を実行してきたことはよく知っている。罪なき庶民から財産を巻き上げ、都合の悪い者の家に火を放ち、国に異を唱えた者は投獄する……」
クルデリヒが続ける言葉に間違いはなく、それらは自分が王宮にスパイとして忍び込んで知ったことでもある。
指示されたこととはいえ、計画し実行したのは確かに彼。なんと弁護しても、例え程度の軽いものにしようと努力していたと言っても、それを証明できるものは何もない。
それに程度はどうあれ、彼が実行したという事実は変えることは出来ない。
「どうせ、この襲撃が起きて、我が身の可愛さに安全を保障して欲しくて、『自分は裏切ってはなかったんだ』と都合よく詭弁を弄しているだけだろう」
確かにクルデリヒの言う通りで、反論の余地は一つもない。普通に考えたらそういう風になる。
でも。
「クルデリヒ……。私がこの数日間、連絡が取れなかったことは知っているわよね? スパイの嫌疑をかけられて地下牢に捕らえられていたのよ」
フローリアはぎゅっと胸の前で拳を握った。
「私は襲撃が行われるなんてこと知らなかった。この大規模な行動、二日三日前に決まるようなことじゃないでしょう? 今日の早朝に王宮が襲撃されて、私は貴族たちを楽しませていた踊り子として殺されそうになった。牢にそのまま捕らえられていたなら、間違いなくその場で殺されていたわ」
言葉が責めるような響きを持ってしまう。フローリアは震えそうになる瞳をまっすぐクルデリヒに向けた。
「あの時、わざわざ牢から出しにきてくれたのも、機転を利かせて私を逃がしてくれたのも、全部シュツァーハイトが一人でしてくれたことなのよ? それでも彼は裏切り者だというの? 彼を見捨てろというの?」
そう言いきると、クルデリヒの返事を待った。
けれど、彼の口から出てきたのはこの質問への答えではなかった。
「フローリア。名も持たぬ『橋の下』だったお前を拾ってここまで育てた。私の言うことならなんでもやると、組織の恩に報いると言っていただろう。いつからそんな反抗的なことが言えるようになったんだ」
他人以下のように冷めた視線がフローリアを圧倒し、とんでもない言葉が吐き出される。
「『目的の為には手段を選ばず狡猾に。いかなる犠牲を払っても』。そうだ、私はいつもこう言っている。襲撃直前まで王宮の情報を得られるようにするため、この襲撃前にお前を呼び戻すつもりはなかったし、知らせるつもりもなかった。私はお前という『手段』を使い、お前という『犠牲』を払ったのだ」
頼りなく開いた口から「え……?」とこぼれる。
彼の言葉に、めまいがするような感覚がした。平衡感覚がおかしくなって、一歩後ろに足を出す。
私は、クルデリヒにとっての、手段?
あの宮殿の夜の会話が思い出された。
――お前こそ、どうしてそこまで身を尽くす? 組織から離れ、こんな身を削るような真似を続けなくてもいいはずだ。
――貧民街から拾ってくれたクルデリヒや、私をまともな人間にしてくれた組織の人たちのためよ。
家族のように思っていた。組織が何かを望むのなら、みんなのために、みんなの力になりたいと思っていた。
もし家族というものを自分が持っていたのなら、きっと父親というのはクルデリヒのような存在だったのかな、とこっそりそう思っていた。
だから、例え身や心を削られるような任務であろうと、与えてもらった様々なことに報いれるのならば何でもする。そう固く心に決めていた。
でも、クルデルヒたちは、そうは思っていなかった。
フローリアは想起する。
組織に見放されたシュツァーハイトが、それでも志を貫き通すと言った時。
それでいいの? と思った。
あなたが志を全うした時、全てが終わった時、新しい世界には、新しい時代には、あなたを笑顔で迎えてくれる人たちはいないのに。それでもいいというの? と。
彼を上から心配できるような立場などでは、全然なかったというのに。
新しく迎えようとしている時代に、自分を笑顔で迎えてくれる人など、私にだって居なかった。全部、自分の勘違いだった。
言葉が発せられないまま立ち尽くすフローリアに、クルデリヒは静かに言った。
「……でも、お前が無事に帰ってこられたことは良かったと思っているよ。これは本当だ」
きっと、その言葉には嘘はないんだと思う。本当に。
だけど、その前に言葉にだって、嘘なんて一つもないんだと思う。
フローリアは、ギリギリのところで声を震わせず、「はい」とうなずいてみせた。
微笑む練習を沢山してきて本当に良かった。さもなくば、涙をこぼしてしまいそうだったから。
周りの者たちに次々話しかけられ、あちらこちらに指示を出すクルデリヒをじっと見つめる。
フローリアは色々なことを考えていた。
拾われた時のこと。名前をもらった時のこと。読み書きを教えてもらった時のこと。
言葉を覚えて、自分の思う気持ちや感情に名前がつけられるようになった。思考が整理できるようになった。もやもやした不安にも立ち向かえるようになった。何より、人と深く意思疎通ができるようになった。自分の名前を呼んでもらえることがこんなに嬉しいなんて思いもしなかった。
踊りを覚えた時のこと。スパイとして王宮に入り込んだ時のこと。
練習はもちろんとても厳しかったけれど、できないことができていくのは達成感があり、それが評価されることは嬉しかった。それまで全然知らなかった音楽も沢山覚えて、好きな曲もいっぱいできた。
組織のスパイとして、大変なことや辛いこと、やりたくないけれどやらなければならないことだって思い出せばきりがないくらいあったけれど、これまでの生き方を後悔したことはない。
それから、これからのことを考える。
そして。
フローリアはその場で深くおじぎをした。
クルデリヒは、会話はもう終わり、という合図だと思っただろう。
違う。
これは、これまでの感謝と、別れの挨拶と、これからやろうとしている行為への謝罪。
ありがとう。さようなら。ごめんなさい。
本当の父親のように思っていました。
自分に全てを与えてくれた人の顔を名残惜しく眺めたあと、背を向け、司令本部を出た。
その眼差しには強く光が宿り、足は目的のために進んでいた。
私一人でも、シュツァーハイトを助けに行く。