ルシエル
次回から雪に戻ります。
その青年は窓から空を見上げていた。藍色がかった黒い髪。鮮やかな新緑を思わせる双眸。褐色の肌を持つこの世界でも特異な容姿を持つ青年は低く垂れこめた空を見上げ僅かに整った顔を顰めて見せる。
「――どうされましたか? ルシエル様」
そう拉げた声で彼に問いかけたのは頭からすっぽりとローブを纏った人間だった。男か女か老いているのか子供であることすら分からない。小さなそれは音もなくルシエルの横に立った。ルシエルはちらりと横目にそれを見、小さく喉を鳴らした。
「ままならないよな。ほんと」
「何が、でございますか?」
「ま。それも面白いんだけど。ハッグ。留守は任せた。どうやら俺は見届けないといけないらしいから――最後まで行けたらそれも一興だろ?」
青年はハッグと呼ばれたそれの質問には答えることはない。そして彼自身がした質問にも答えは望んでいないようだった。軽く踵を返すと壁に掛けてあった重々しい剣を手に取って見せる。鞘から滑るように引き抜いてみれば、銀にも虹色にも見える美しい刀身が現れた。不思議なことにそれは自ら淡く輝いている様にも見える。
ルシエルはそれに満足したようにして口許を歪めると手慣れた手つきで鞘に納め、ベルトに剣を固定させた。
「んじゃ、ま。行くわ」
「はっ。行ってらっしゃいませ。ここから我が主のご帰還を切に願っております」
不覚頭を垂れるハッグにルシエルは鼻を鳴らしてみせ、顎を軽くしゃくった。この時殺気も侮蔑も特には感じられずそこにはただの『子供』にしか見えない青年がいたのだが、ハッグはそう感じなかったらしい。
「ククッ――当たり前だろ? 俺を誰だと思ってる?」
どこか愉快に履かれる声に、ハッグはその小さな身体を軽く縮こまらせた。良くは分からないけれど顔が地面に埋まるかと思う程下がっている気さえする。
「は――申し訳ありません」
ため息一つ。ルシエルにしてみればそちらの方がよほど不快で、苛立つのだが
ハッグに当たってもさらに怖がらせるだけだと知っている。
だいたい何を持ってしてもルシエルの方が上なのだ。ハッグの命など命令一つ、指一つで簡単に散らせるのだから。
尤もハッグにしろなんにしろルシエルよりも上を探すのは難しかしいのだが。
「……ったく。ツマンネ。じゃあな」
本当につまらなそうにしてルシエルは口許を尖らせて見せた。ただしそれをハッグを含めて誰一人見ることは無かったけれど。
足元に現れるのは淡く輝く幾何学模様の魔法陣。その幾何学模様一つ一つが意味をなし、組み合わせで効果も違う。恐らく現状人が知ることができるすべてを知っているのは世界に僅かしかいないだろう。若輩ではあるがルシエルもその一人だった。
ちなみに今、展開しているのは『転移』の魔法陣。本来、遠くなければルシエルは魔法陣など必要としなかったが今回はさすがに必要だったようだ。
「我が行く方向へ導け」
低く命令するように言うと、まるで地面の奥から光を当てられているみたいに魔法陣の輝きが増した。
青から白へ。
輝きは増し続けてやがて部屋すべてを包んでいく。
眼も開けられない輝き。そのすべてが収縮するように消えていくとそこにはハッグだけが取り残されていた。まるで初めから人などいなかったかのように。
「……」
細く肉など削ぎ落ちた皮と骨だけの手がローブを掴む。ぐっと握りしめてそれをはぎ取るとそこには紛れも無いルシエルの姿があった。
どうしたら一瞬でそうなるのだろうか。身長も高くなり、しっかりした体躯も何一つ変わらない。艶やかに伸びる髪の色も、肌の色もまるで双子のような姿だった。
しかしながら拉げた声だけは別人であったが。
「このハッグ滞りなく代わりを務めて見せましょう」
そう言うとここに居た主を思い出しハッグは窓際に立ち空を眺め、深く頭を垂れるのであった。