はじめてのお使い
巫女や司祭の仕事は驚くほど多岐にわたる。神職と言う意味で見れば細かく棲み分けが出来ている職種ではあるが、彼等、彼女らに対して民が望むものは同一であった。それは教師であったり、医師であったり。『虚無』を狩る勇者であったり――。それを拒む巫女や司祭はまずいないだろう。
『人を導き護る』それが彼らの存在理由だったからだ。
故に行く先々で厄介事――と言ってはなんだが、巻き込まれるのは言うまでもない。そして。王都へ向かう旅もそう進んではいなかった。
――悪いけど隣町まで行って薬品もらってきてくれる?
ルナがそう雪に告げたのは村に付いてすぐだった。村に着いて盛大に迎えられたと思ったらそのまま多忙を極めるルナ。人生相談から病人の治療まで。どうやら病気は便利な魔術では治せないらしく、薬が必要となったのだが、それが無い。
そんなこんなで雪はお使いに出されていた。当然拒否権など無かったが不満には思わなかった。忙しいルナを不憫にも思った事もあるが、何より何もできない自分が唯一役立てるのが嬉しかったからだ。
嬉しいなんて死んでも口に出したくなかったけれど。
不安がないわけではなかった。
「だいたいなんて、書いてあるんだよ? コレ?」
長閑な道を歩きながら独り言ちる。渡された紙にはミミズがのたくった様な文字。多分崩した文字なのだろうけれど二重の意味で読めなかった。ため息一つ。ポケットに突っ込むと言うべき『単語』を口の中で転がした。いろいろな場面を頭で組み立てながら定型文を作っていく。
ブツブツと言葉を発している雪は周りから見れば少し異様ですれ違う者皆二度見をしていくが雪が気にすることはなかった。
「……で、こうだ――あれ?」
ふと顔を上げて見ればここはどこだろうと首を捻る。確か一本道で舗装とはいいがたいけれど轍の跡が残る道を歩いていたはずだった。遠くには目指す町も見えて、すぐたどり着ける。そう思っていたのだが、何故こんな森の中に居るのだろうか。
会話の文を何度も復唱していて集中していたことは認めるが一本道をおかしな方向に曲がるなんてあり得るだろうか。――それに絶対とルナに言い含められている。道からはみ出れば命の保証はしないと。人々が行き交うあの道は結界と言われる物によって軽い護りが掛けられているらしいのだ。なので道を外れれば。
「ろくな、事にはならない」
ポツリ雪は呟く。
眉唾であったがサラサラ道を外れる気はなかった。とっとと用事を済ませて帰る。それだけのこと。
何故それが出来ないんだ――。
鬱蒼とした森。昼のはずだが薄暗く、そこにいるだけで嫌な感じを受ける。ひんやりとした冷気とでも言うのだろうか。嫌な予感に唾を飲んで踵を返すが、すでに来た道など分からなかった。見渡せばどこの景色も同じで何の音も聞こえない。不気味な静寂だけがある。
ともかくどうすればいいのだろうか。闇雲に歩いても迷うだけだ。しかし助けが来るとも思えない。とりあえず歩こうと足を進ませれば、軽く枝の折る音が響き渡った。
「――」
足元――なにも無い。柔らかくふかふかの腐葉土がそこにあるだけだ。
さぁっと意味なく血が引いていくのを感じていた。お化けか、虚無か。――それとも気のせいか。そこには『ほかにも人が?』の選択肢は無かった。雪は無理矢理『気のせい』を選択すると大股でザクザク進む。なるべく後ろを振り返らないようにして。
だが。
なぜか足音がぶれて聞こえる。雪の足音が響けばそれに遅れて足音が響く。そんな感じに。もはや『ぶれる』ではなくそこに何かいる――しかも複数――としか言いようが無かったが雪は『森って音が反響するんだ、すげぇ。森』などとあえて馬鹿なことを無理やり呟いて平静を保とうとしていた。
当然その考えなどすぐに打ち消されるのだが。
「――つ!」
雪の足を止めるようにして炎の塊が落ちた。低く唸るように鈍い音。刹那――パチパチと軽い音と共に足元が燃え上がった。
当たっていれば消し炭だったことは間違いない。一瞬何が起こったのだろう。思考停止する中で雪はゆるゆると視線を炎が飛んできた方向に巡らせた。
暗い森――その奥から歩いて来るのは……何なのか雪には分からなかった。
「……へぇ。このちびっこいのがあのお姫様を救うって?」
一言で言うと美しい生き物だった。カラスのような艶やかな黒い羽根。山羊のような大きく曲がりくねった角。緩やかな美しい弧を描く艶めかしい姿態。銀色の髪と同色の眼。まるで宗教画で見た悪魔のようだった。
どう見てもコスプレとは思えない派手なその姿に目を奪われていると、彼女は薄い口許を軽く歪めて笑う。
「聞こえてんだろ? 『勇者』さま。何とかいいな? それとも聞こえないのか?」
すっと伸びる手は気付くと雪の首に掛かっていた。マニキュアを塗っているのだろう。長く黒い爪だ。皮膚を引っ掻く様に滑る爪。切り裂きはしないが赤く後を残した。
見つめる先には銀の双眸。その目には光が灯っていないようにも見えた。どこまでも昏く、底の見えない闇が広がっているように感じた。息を詰まるような威圧感。それは今まで生きてきた中で雪が感じたものの無いものだった。
故に底知れない恐怖を感じる。ジワリと広がる額の汗。雪はごくりと喉に唾を流し込んでいいた。
「知ってたか?」
問いに答えるようにして思わず息を飲みこむ。それを確認するようにして彼女はどこか馬鹿にしたように鼻で笑って見せる。
ただその笑みもすぐに消えて冷たい刺すような視線が残ったのだけれど。一拍置いてから、彼女は静かに、ゆったりと口を開いた。
「ここでお前が死ねばかすべてが終わると言う事を」
「――!」
ざわり。雪の不安を映すようにして木々が揺れた気がした。一気に緊迫感を増していく空気。叩きつけられるような殺気に心臓は潰されるように収縮し、カタカタと奥歯が震える。それを抑えるように噛み締めた後で、雪は『万が一に』とルナが言っていた言葉を思い出していた。
――第一に。落ち着いて。落ち着かないと何もできないわ。曇った目では逃げれもしないもの。
落ち着け。落ち着け――何度も呪文のように心の中で呟いてから、息を吐く。そして大きく吸った。肺の中に入って来る空気は冷たく痺れた脳を冷やしていく。
「へぇ、素直に殺されるとか?」
――第二に。すぐ逃げられるのなら、すぐ逃げなさい。
「……ち」
なんだか、その言葉の実行は出来そうにも無かった。雪は自分のふがいなさに顔を強く歪めて見せる。
本当はやってみなければ分からないことだったが逃げ切れる自信が無かったのだ。ある意味それも自信ではあったが、今まで喧嘩すら――認めたくはないことだが――どちらかと言えばいじめの対象となってきた雪はそれを容易に感じることが出来た。かといって『生きる』事を諦める気もさらさらない。雪はぐっと口許を結ぶと持っていた剣をすらりと抜いた。司祭から貰った餞別の剣は女の髪とは違い、輝くような――まるで破魔のような――銀の輝きを見せていた。
意外そうに眉を跳ねると、女は厚ぼったい唇を歪めて見せる。
――第三に。それがだめなら。
「なら――持ちこたえるだけだ」
ぽつりと雪は零す。言い聞かせるようにして。
勝つとは絶対に言えない。そんな自信なんて練習をさぼって来た雪には、どこからも湧かなかったし負けることは分かり切っていたことだった。
けれど持ちこたえることならできるかもしれない。いや、持ちこたえなければ死ぬばかりだろう。素直にそれを受け入れるつもりなどさらさらなかった。
雪はすらりとした銀の刀身に目を向ける。そこには薄く光の文字が浮いていた。なんて書いてあるのかはもちろん読み取れなどしなかったが、ルナが万が一にと『術』をかけたと言っていた。
――この剣を抜けば駆けつけるから。どんなところに居ても。何があっても。
来ないかも――知れない。そう過ぎる。その心を考え無いようにして雪は顔を上げていた。そうしなければ立っていられない。震える足を制御できなかった。
(大丈夫。俺は、やれる。)
雪は心の中で言い聞かせるように独り言ちる。落ち着けれと言わんばかりに無理矢理肺に空気を押し込んでから、すっと女を見据えた。
「そう、か。では。私でなく違う者が相手の方がいいだろうな」
何が『そう』なのかは分からない。女は楽しそうに笑い、勝手に納得するとぱちんと手を鳴らした。
刹那――ぽつぽつと光が宙に現れ始める。一つ、二つ。以前ルナが出したような淡く優しい光ではなく、強い輝きを放つ金色の光――。それは刺すような殺気を放ち雪を見つめていた。