仕方のないこと
暫く説明が続く……。
嘘なら――夢なら目覚めろ。
何度も何度も繰り返した言葉に意味がない事を知ったのはつい最近だった。幾度の夜を超え、朝を迎えてもなおかつそう思いたかった。けれど夜を超える度、朝を超える度に現実が雪の肩に大きくのしかかり、諦めろと頭の中で誰かが言う。これは現実なのだと。
そして生きて行かなければならないのだと。
(フザケンナ)
雪――『伊予 雪』は心の中で毒づいて街の大通りを走っていた。手に持っているのは赤い果実。柑橘系の香がするが、見た目はどう見ても林檎のそれ。それを持ちながら未だかつてないほど、人生で初めてと言っていいほど死に物狂いで走っていた。
振り返れば、追いかけてくる大柄の男。男は白い顔を真っ赤にしながら雪を追いかけてくる。それは明らかに『怒っている』そんな表情だった。
「ml;npoibunyoum3:……!? lk;fl;djsokl……!!」
何を言っているのか全く分からない。子供の頃から英語を習い始め、外国人とはそれなりに会話ができる雪であったけれど、その言葉はまったく理解できなかった。
言語的にはラテンみたいな響きだが――違う。だが、言いたい事は分かる。
『泥棒!』だろうか。そう。手に持っている果実は露店の亭主から拝借した物だ。雪だってこんな事はしたくない。働けるものなら働らいてこの果実を飼いたかったのだ。――ただ、そんな余裕などどこにも無かった。
「ちくしょう。俺だってこんな事したくねぇよ!」
見たことも無い、知らない街に居たのは数日前。これは夢だと思い込みしばらく寝て過ごしたが空腹だけはどうにもならなかった。言葉も違い金もない。必死に身振り手振りで労働と交換交渉をしようとしたのだが門前払いを喰らっただけだった。
――そうして今に至る。
雪はぐっと唇を結ぶと小さな、人が一人通れるか。と言いたいほどの小さな脇道に入る。少女と間違えられるほど小柄な雪がかろうじて入ることができるそのだろうその脇道。
きっと入れないのだろう。後ろで大柄な男が怒鳴っているのが聞こえたが無視して先を進んだ。
「ちくしょう」
脇道は街の裏側に繋がっている様だった。抜けると大きな川があり、雪はその脇に腰をかけた。
手に持っていた『それ』を齧ればこんな事をしている悔しくて情けなくて。でも美味しくて――涙がでる。ずっとこんなところでこんな風に生きていくのだろうか。帰れないのだろうか。――日本に。
あの世界と別れたのは何でもない一日だった。苦手な体育が嫌だな。そう思っていただけで、世界を抜け出したいとか英雄になりたいとかなんて一度だって思ったことはない。そんな事より勉強して某大学に入り医者になることの方が重要だった。その為に――子供の頃から友達とも遊ばず、変人と呼ばれ続けても勉強をして来たのに。
考えれば考えるほど人生を否定されたような気分になって来る。
雪は食べた芯を川に投げ捨てるとゆっくりと立った。ともかくこのまま座っていてもらちが明かない。未だ雪の衣服は校章が入った白いシャツと黒いズボン。つまりは制服のままだった。この街の人間はどこかのファンタジー漫画――表紙しか見たことないけれど――の物によく似ていた。どこの民族衣装とも違う不思議な衣装をまとい色素も薄い。辛うじて言えば――昔のヨーロッパに似ているだろうか。異質な衣服。だけれど異質なのは制服と黒髪黒目の雪の方で、このままだとすぐに捕まることは間違いなかった。一瞬捕まってもいいかもしれないと脳裏を過ぎったが――何となくそれは憚られた。
視界をぐるりと見回すと、近くでハタハタと揺れる洗濯物。衣服らしいものは無かったが、シーツのようなものが干されている。雪は誰もいないのを確認するとそれを手に取って頭からすっぽりと身体に巻いた。この上なく怪しいが、今のままよりはいいと思ったのだ。
「なんとか、しないと」
のろのろと頭を動かしながら雪は呟く。もちろん何の計画も無い。分かっている事はまず言葉をどうにかしなければならないと言う事だった。このままでは又盗んでしまう。そんな連鎖は嫌だった。何とかして――生きないと。
帰らないと。
口許に決意を乗せながら雪はゆっくりと歩き始めていた。