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リアル

作者: 朝日 七尾

 昼寝から目覚めたあとのように頭の中がおぼろげだった。

 私は廊下に立っている。高校の休み時間とは、小さなお祭りだと思う。野良の子猫の如く臆して、教室に引っ込みかけたが、結局、行く道は廊下だけなのだ。昼休み以外、トイレへ出るのも憚る身にしては、随分と思い切った行動であると思う。

 三階へ続く階段の踊り場へ出ると静かだ。人影はない。一段飛ばしで階段を駆け上がった。

 屋上でようやく追いつき安心したのも束の間のことだった。なんと宮田くんはデジカメで暢気に写真を撮っていたのだ。言いたいことはない。多分、彼もない。

 足元に赤い海が広がっていた。

 彼の横顔を見た瞬間、息詰まる喉に針ほどの空気口が通った気になった。私は毒気を抜かれてその場に佇んだ。宮田くんは苦しそうな顔だ。

 どうしたの、と訊ねようとしてもやはり声は出ない。彼がそんな顔をするのは意外なのだ。鋭い眼力と声はなりを潜め、今度は悲しそうに上を見上げる宮田くんに、私は言った。大丈夫だよ、と。

 眼前に広がる校庭の向こうに聳え立つのは、この夏、初めて見る入道雲だ。それは遠くにあるのではなく、今まさに校舎を押し潰そうと、ふんぞり返って足を広げている。積乱雲の暗澹たる広がり方ではない。ただ壮大な白が迫ってくる。

 宮田くんはまた死体を見下ろして微動だにしない。

 彼が怖くない訳ではなかった。蝉の死骸よりずっと臭い死体の前に立ち、今の今まで無言を貫いている。だが今の彼の姿態をそっくり現す表現は見つからず、またどうとでも表現出来ない存在にも感ぜられた。

 宮田くんが私に一瞥を寄越した。義眼みたいな目だ。屋上に転がっている死体の目と似ていて、無言の旅立ちを決心したかのようだ。






 よし、大丈夫! フラれても悔いはない。

 美しい姿に孵化した鳥のような気持ちで、一気に書き上げた。断じて暑さに頭をやられたのではない。強いて言うなら、夏がやって来たという興奮に唆されたせいだ。

 結果は寒いものだった。

 そのラブレターを受け取ったのは先輩でなかった。最善の注意を払っていたのに、帰り支度をしている最中に手紙を落としてしまったのだ。校舎を出る前に気づいて戻ったが、願いは呆気なく砕かれる。ラブレターは、このときまだ宛名と自分の名前を書いていなかったので、その点は救われた。つまり本文も未完成で、下書き状態ならではの臭い台詞や相手の好きなところを矢継ぎ早に書き殴ったようなとんでもなく恥ずかしい代物だった。

 さらに必要以上の憂鬱に侵された。しまりのない日常で拳銃を目にしたような憂鬱だ。教室でラブレターを囲む男子の中に、あの宮田くんもいたのだ。




 ラブレターは三年生の中津先輩という人に宛てたものだ。

 ピアノに命を吹き込む人だ。同時にピアノに乗っ取られる癖があり、彼らは共依存しているといっても過言ではない。昼休みには音楽室から先輩のピアノが聞こえてくる。

 実際演奏する姿を初めて目にしたとき、頭にスパークが輝いた。

 繊細すぎる両腕と、男性らしからぬ薄い背中と、吸血鬼の好みそうな真っ白なうなじが、パワーのある演奏の間は汗を散らしながら躍動するのだ。祭りの太鼓やホールでオーケストラを聴くのと明らかに違う感動を味わった。取り留めのない日常の隅で、小さいが美しい「生」を先輩から見出してしまったのだ。ドアの前でもじもじしていたら先輩と目が合った、あの運命の鐘が鳴り響いた瞬間を忘れられない。

 あっという間に虜になった。七月、私は何処かで妙なスイッチが入る音を聞いた。この夏の炎天より息苦しい想いを先輩に晒してしまいたい! あの長い指で、拙いながらも必死に恋慕を綴った文字をなぞってくれたら!

「今時ラブレターかよ。白ける」

 翌日になっても三年生へのくそ真面目なラブレターが発見された、という噂は聞かなかった。名前を書く前に落として正解だった……いや、手紙を落とした時点で失敗でしかない。しかし、そう思わないとやってられない。

 私の学園生活は、私一人のために時間が過ぎていく。どれだけ暇な時間を削れるか、一日中タイムアタックを楽しむのが常日頃の過ごし方だ。要は友達がいない。

 宿題も極力、朝のHRの前にやるようにする。しかし期末試験の直前、自分に「学校での課題・勉強禁止令」を発令せざるを得ない事態が発生した。

 理由は簡単である。ラブレターを読んだ宮田くんが私の隣の席だったからだ。まさか、私のような地味な女子の筆跡なんて、知らないだろうけど……。そう思いつつ、万が一のことを考えた末に残る最悪の未来予想図だけは、捨てることが出来なかった。

 死活問題なのだ。今まで吹かれも靡きもしなかった「友達はいないけど大人しくて小さな子」というイメージを、木っ端微塵に弾け飛ばす訳にはいかない。

 集団生活で生きるのは、クラスのみんなが思う以上に大変だと思う。疎外感や寂しい気持ちと戦うのがしんどいのではない。なるべく波風立たず、目立たずやり過ごすことに命を懸ける必要がある。実はこれが、一番緊張せずに生きる手段なのだ。

 翌々日、ラブレターは私の下に戻ってきた。

 あろうことか古典的手法の愛情表現を、「白ける」と切って捨てた宮田くんの手から。

「返事書いてやった方がいいと思って」

 隠すようにして見下ろす私の目から、手紙は小刻みに震えていた。信じられなかった。

「手紙読んだら、誰かが返事してやんなきゃだろ」淡々とした言葉が降ってくる。

「あの、これ……」

「お前が書いたって気づいたの、俺だけみたいだから」

 高校に入ってから宮田くんと会話はしていない。彼のことは、少しだけ恐れていた。気遣いを知らない言葉遣いは、一部の生徒からも鬱陶しく思われていたと聞く。けれど久しぶりに彼の声を聞いて、何故だか目頭が熱くなった。

「私みたいなうんこが、私みたいな、宮田くん、きっと何かの間違いよ……」

「はあ?」

 それが、五年ぶりにした宮田くんとの会話である。夏が始まった。




 子供の頃から、夏が好きだった。あの息が苦しくなる気温や、肌をじりじり焦がす日差し、時折吹く涼風。青空や白い雲と太陽、ひまわりの黄色に、瑞々しい若草の緑、アザミの花の赤紫、照り返るアスファルトの黒……。鮮明すぎる夏の色彩が、イモくさい片田舎に溢れ返る唯一の季節がやって来た! 何処を見回しても強烈な眩しさに目を奪われる。

 冷たくておいしい食べ物もたくさんある。風鈴や祭りのお囃子が夕闇に消え入る寂寥感も味わい深い。五感と心が大忙しの夏が、私が大好きだ。

 中でも蝉の鳴き声は何よりも風情があろう。

 子供の頃、ひまわりが苦手だった。克服してくれたのはアブラゼミであった。

 私は虫と花だったら虫が好きな女である。花の何が苦手か。断然、雄しべである。特にひまわりの、見つめ合うと取って食われそうに夥しい茶色いやつと、ポピーのけむくじゃらなやつは、もう、グロテスクでしかない。今でも視界に入れば身体がぞわぞわするのだ。

 ある日、ひまわりの雄しべを前に、愕然とした。今まで怯えていたあの雄しべは、実はアブラゼミの大群でしかなかったことにやっと気づいたのだ。小学校の通学路、毎日通る民家の庭に慎ましく立っていたひまわり。目が覚めるような黄色の花弁、その奥で、居場所を取り合うようにアブラゼミがうごうごしていた。

 朝の風が不安げに吹くと、ひまわりは涙をたくさん零す。

「貴方が好きなものよ。学校にもおうちにも行かないで。ずっとここにいましょう」

 そうして、けたたましく蝉が鳴く。

 何でわからなかったんだろう。現実は怖いものばかりじゃないんだ。足跡のついたランドセルを川に投げ捨て、流れていくのを見送ってももう何も感じなかった。手ぶらで学校に行ったら、先生たちは、はっとした顔で私を囲んだ。

 中学生に上がった頃、ポピーの雄しべも虫であったと知る。けれどそっちはイモムシだったので、ちょっと近寄り難い。

 紅葉が散って、桜が咲いても、一年中、耳を離れないのは蝉の声だ。あれがずっと身体を揺り動かす。私に呼吸をさせる。




 放課後、みんながのろのろ帰っていく中、封筒を開けた。

 校門を出ると、私は熱く滾りながら走った。

 大変なことだ。恋焦がれる中根先輩の麗しい姿が、一瞬だけ頭から離れたことに、悲鳴を上げそうになった。先輩、何処?

 そう叫んだときには既に先輩は私の頭に戻っていた。安堵感は脱力感に変わって、地元の駅前のカフェで腰を下ろした。ブラインドに囲われた店内は薄暗い。アイスコーヒーが喉を流れ落ちても、背中の汗は上っていくようだ。

 鞄から、封筒を震える手で取り出した。

『字は上手いのに、「ん」だけ癖が取れてなかったからすぐ分かった。無用心』

 表に返せば、私を身体の芯まで貫いた写真が、そこにある。

 一体何処を写した写真か。よく目を凝らすと、うちの学校の裏庭の木立みたいだ。そこを、地面に限りなく近い位置から、空に向けて撮った写真とわかる。

 淡い橙色の斑模様が写真全体をおぼろにさせているのが幻想的だ。これはひょっとして水飛沫だろうか。木の枝には深い常盤色の葉が数珠のように連なっており、葉の隙間は茶色がかっている。夕方の曇り空だ、と勘付いた。この水飛沫は天気雨だろう。

 小人が空を見上げている視点を髣髴とさせる一枚。地面に這い蹲ってデジカメを構える宮田くんを想像して、ふふっと笑った。

 けれど微笑みは虚しく消える。何だろう、この引っかかる感じは。

 写真独特の光沢が白く光る。指先に吸い付くけれど、意外と指紋は目立たない。BGMは小気味よいピアノジャズに変わっていた。中津先輩の面影がまた色濃く佇む。

 違和感も鍋に焦げ付く汚れのようにしつこかった。




 鋭い閃きを秘めた瞳が私を映す。

「写真、ありがとう。……すごかった」

「見たんだ」

「うん」

 暫し沈黙が降りる。宮田くんは何か言いたそうにしている。夜中に悩んだのに、結局相応しい表現が見つからないままとりあえずお礼を言おうとした自分を憎たらしく思う。

「写真、好きなの?」零細な勇気をかき集めた。宮田くんは額の汗を拭って言う。

「まあな、自分のデジカメ持ってて、暇なときはそれ持ってふらふらしてる。マニアとかオタクって訳じゃねえからな、勘違いはやめろよ」

「うん」

 暫し沈黙が降りる。

 大きなトゲを掴み、それを軽々しく振り回して刺すフリをする。宮田くんの特徴的な喋り方は昔から変わらない。

「変人」

 叩きつけるような声音に私は肩を震わせる。目の前の宮田くんの口は動いていない。まさか、クラスで目立たない存在の私が言われる台詞とは思えない――。宮田くんが苦虫を噛み潰すような顔をした。うっすら存在が確認出来るそばかすや、髭を剃った痕に、汗がついている。

 今の今まで気づかなかったが、彼の、人を寄り付かせない雰囲気と誤解を招く趣味は陰口の標的にされていたのか?

 宮田くんは目尻を歪ませて言った。

「へえ、いいと思うんだ。あの写真が」

 音を立てず飴玉を噛み砕くような口の動かし方だ。




 宮田くんについて一つ確実にわかることは、小学生の頃から写真を趣味にしているということ。彼は五年生のときに県の写真展で賞を取った経歴がある。人物写真だった。担任の先生から賞賛されていたはずだ。

 その写真の感想を言うなら――「斬新」「だけど日常」。廊下で頭を寄せ合って話していた低学年の子たちの、膝から下を、撮ったものだった。

 カメラってこんなに綺麗に残せるんだ、と当時は驚いた。多分、光の当て具合なんかも計算されていたと思う。そのあとで林間学校のカメラマンが撮った写真にげんなりした。子供の顔ばかりの写真では物足りなく感じるようになったのだ。

 大好きだった。写真も、宮田くんも。入賞した写真が、宮田くんが、幼児愛好や足フェチなどと言われようとも。だから今になって写真の返信をもらったとき、涙が出たのだ。彼の好きな写真は「洗練された美しさ」と少し離れている。身近な世界のちっぽけなものが隠し持つ綺麗なところ、たとえば裸足で上履きを履き潰す男の子の足。小麦色に焼けたふくらはぎ。まだ夏を浴びる前の初心な膝。白いソックス。よく磨かれた廊下をバックに、足、足。煌いていた。

 私も宮田くんが惹かれる存在になれるんじゃないかと夢を見たのも、今でもいい思い出だ。

 同じく五年生の夏、県の写真コンテストの入賞が発表される前。宮田くんが女の子のシャツに手を入れて泣かれた光景を見たことがある。

 どうしてそんなことをしたのか、当時はさっぱりだった。何せ宮田くんは当時から謎の多い子だったから。

 被害者の女の子は神原さんといって、確か北川くんという苗字のクラス委員長に目をつけられたのだ。両親が海外出張でほとんど家にいないという北川くんは、寂しさから学校では子分を従えて、宮田くんをいじめるための新たな独裁政治を始めようとしたのだ。こんなの、みんながつらいだけだ……。私以外でもそう感じていた子が結構多かったと思う。

 だが、宮田くんは不登校になる兆しも見せず、毎日学校に来た。涼しくなる頃には、元々仲がよかったグループといつも通りカードゲームでデュエルしていたし、大したいじめではなかったのだと私は安堵した。

 けれどその直後、噂を聞いた。

 宮田くんは、北川くんをトイレに追い詰めて裸に剥いた――。

 その写真は北川くんの下駄箱に、印刷したものが何枚も入っていて、北川くんの両親が学校に連絡して放課後の職員室で大論争が起きたそうだ。さすがの宮田くんも、一週間学校に来なかった。多分、宮田くんの両親が息子の仕返しを認めたのだと思う。

 みんなは半信半疑で、北川家が大袈裟に騒ぎ立てただけではないかと口々に言い合っていたが――何となく私は、北川くんの話も宮田くんの話も事実だと思っていた。本当に、何となくだが。

 そして宮田くんが神原さんのシャツに手を入れたのは、セクハラじゃない。多分、スカートの丈を上げたかったんだと思う。新体操をやっていた神原さんの足は長くて、マネキンみたいに透明だった。カモシカの足とは言い得て妙である。

 しかも神原さんは、一度だって宮田くんを責めるような発言をしていない、目撃者が勝手に騒いだまでだ。

 あの二人は、互いに了承を得た上だったのだ。神原さんが宮田くんの写真のモデルだった……そう考えたのは本当に私だけだったのか? 校内に潜む生徒専属フリーカメラマンとは、彼のことだ。




 お母さんと過ごす夏休みが、毎年楽しみだった。

 よく遊んだのは、木立が多く、夏は虫の宝庫だった近くの雑木林である。五年前にその一部が、何かいかがわしい店が入ったビルに変わってしまったのが非常に残念だ。

 アザミの花が咲き誇る道路を横切ると、佐々木さんというおじいさんの家があり、その裏庭に雑木林はあった。佐々木さんは耳が遠かったけど優しかった。私たちが遊び疲れて歩いているとスイカやプラムを出してくれた。葬儀に参列して、もう二年経つ。

 あの日々を脳裏に浮かべると、日没を知らせるミンミンゼミの声や、意味もなくほじくった土の匂いまで蘇ってくるようだ。たまにクワガタや、涼しい曇りの日はクロアゲハを見た。

 雑木林の奥までは行かなかった。スズメバチが時折飛んでいたからだ。

 一度、スズメバチがこちらを見上げてカチカチ言いながら「こっち、こっちよ」と蜜を絡ませた声で言うからついて行こうとした。

 後ろから追いかけてきた母の形相に、私はびっくりして立ち竦んでしまった。

 抱きつかれ、強引に腕を引かれて佐々木さん家に戻った。男の子みたいに力が強くて、母は怒ってるんだろうと予測するのは容易かった。

「ハチと、何を喋ってたの?」

「こっちおいでって言われたから、うん、って」

「そっか」

 あとに聞いた話だが、スズメバチが私に取った動作は、刺すぞ、という警告だったそうだ。そしてあれ以来、私が虫や植物を会話しても彼女は何も聞かなくなったし、見ないフリもした。

「こっちを見るな」

 家に帰ると、母は必ず私を睨む。彼女の目は、敵討ちを目論む武士のそれである。

 どうしてこうなってしまったんだろう。

「あんたのせいでこうなったのよ」

 低く言う母の端正な顔が、痣まみれなのに気づいた。私は自室に逃げ帰った。




 地下鉄のホームは、むんとした熱気が篭っていた。階段を上がれば、ぽっかり眩しい穴を仰げる。地上は角ばったものばかりが立ち並ぶ。風の吹く音に流麗な響きはないし、雲は千切れて姿を変えていく。ただ蝉の声が、気温三十二度の街をするする這っていく私を急かした。

 もう十二時を回っている。制服の第一ボタンを外しても暑い。

 夏休みに入ったら、中津先輩としばらく会えなくなる。終業式にアドレスか、番号を聞こうと思った。

 校門を通ると、何処かの運動部が練習している声が聞こえる。いつも校舎の中には生徒がたくさんいるのに、こうも学校全体ががらんとしているなんて、変な気分だ。物は多いがうるさくない色彩が学校に溢れている。吹奏楽部の部活棟の開けっ広げの窓から見える、楽器ケースがより集まって壁に立ててあるのとか、窓に照り返った、築三十年の白い校舎や恐ろしいほど真っ青な空。そんな程度のものが、今日は驚くほど目につく。

 足を止める。

 目の前で花開くひまわりが、早く、と可愛らしい声で言った。私は汗を拭って笑いかけた。

 昨日の当番がそのままにしていったジョウロが水道に置きっぱなしだった。いや、もっと前かもしれない。植物の命を軽んじた同じ環境委員の連中がサボるせいで、早くも瑞々しいハリを失いかけている花弁を私は優しく撫でた。よく笑うひまわりだ。

 隙間の大きい簡素な竹柵が、低い花壇を囲ってひまわりを守っている。

 ジョウロで水を降らすと、ひまわりは気持ちよさそうに小さく左右に震えた。そして首をもたげると、私に雄しべを満遍なく見せた。お礼と言わんばかりに。

 雄しべを覆うアブラゼミがジージー鳴いている。

 十回目の夏を思い出す。人物写真が得意だった宮田くん。だからこそ、もらったあの写真が引っかかる。あれは風景の写真だった……。

 茹だる頭をもたげ、鞄のチャックを開ける。少し動くと立ち眩みしかけた。尋常じゃない汗がぼたぼた額から落ちて、写真の風景を覆うおぼろの水飛沫と重なった。

 うなじを炙る日差しが痛い。ぼつぼつ、ぼつぼつ、汗が垂れる。悪寒が背中をすっとなぞった。何か、浮かび上がってくる。

 重なった雫の中心から円状に、汚れが引いていくように鮮やかな色彩が現れていく。私の目はどうなっているのだろうと思った。白く染まっていく。信じられないものを見ているという自覚さえ、おぼろな白に、染まっていく。

 私は、口を押さえて悲鳴を押し殺す他なかった。

「原田さん」

 そのとき耳を蕩かす声が電流をもたらした。

 顔を上げると、日傘を差した中根先輩が不思議そうに私を見ている。どうして、ここに? まさか私に会いに?

「顔、真っ赤。倒れそう」

 写真のこと一旦忘れよう。外で先輩に会えるなんてそうそうあることではない。

「しっかり」

 彼は水道でハンカチを濡らして私に手渡してくれた。昇降口の前に連れられ、日陰に入ったが、熱中症寸前の火照った身体には些細な気温差も身体に毒で、気分が悪くなる。

 ハンカチを額に押し当てぼうっと座っていたら、先輩は行ってしまわれた。ありがとうございます、と頭を下げると同じ動作を返してきて、可愛らしい。ご友人と思しき男子の背中へ慌てて走っていく……。

 何だ。この、無感動。

 先輩と目を合わせる度に頭まで浸かっていたはずの、甘く痺れる泉が、枯れていくのを感じていた。先輩と話すだけで歓喜に打ち震えた私は何処へ? 恐れ多い気持ちも捨てられず、感極まった瞬間にパンツの中をぐしょぐしょにさせる甘い背徳感は?

「お母さんが優しくなくなっても、私には中津先輩がいてくれる。そうだったはずだよね?」

 ひまわりは少しうな垂れて、もう蝉の声を響かせることはなかった。

 何故って、私はもうひまわりの前にはいなかったのだから。

 鋭い光の刃が目の前に散る。見上げてわかった、その光は割れた太陽の破片であった。青空がぼろぼろ剥がれていく。アブラゼミの声が耳に迫った。耳の中に蝉がいるみたい。耳を塞ぐと、ジジジ、と鳴いてあの虫の軟体の感触が両手を襲う。

 何処からが幻想で、何処からが現実?

「お前、今まで何見てきたんだよ」

 顔を上げると、宮田くんと視線がかち合った。銃を突きつけられたようだった。




 私が蝉を触っても、かつての母は怪訝な顔一つしなかった。

 蝉を上手く積めるかは運と、蝉次第である。二段積んだだけで飛び散ってしまうのもあれば、三段重ねが成功したこともある。鳴きもせず、じっと互いの背中にしがみ付くのが可愛いのであった。

 蝉の羽と胴体はまるで模型みたいに脆い。血が通っているかいないかでああも違う。それを母に話すと、おかしそうに笑ったあと、頭を撫でてくれるのが常であった。

「あたしといるより、蝉と触れ合ってるときが、あんたは目を輝かせるね」

「変かな」

「いや。他の女の子と違うってことはね、個性が際立つんだよ。とりとめのない人間より、クセで他人を惹きな。楽しい世界が寄ってくるよ」

 オシャレと私のことばかりにお金を使う人だった。小学校の入学式でマゼンダのスーツを着てきたときは周りの親の視線を浴びて恥ずかしかったが、苦手な運動会や授業参観では必ず名前を呼んで、手を振ってくれたのである。

 だけど数年後、踏んでしまった蝉の死骸を庭に埋めたら、母は私を蔑んだ。

 うるさいだけの虫の何処が可愛いの? あれと、あんたのせいで、あたしはイライラしっぱなしなの。イライラしすぎて死んでしまうわ。

 ――じゃあ、死んじまえ!

 三日前、母は家の周りの至る木や公園に殺虫剤を振り撒き、蝉の死骸の雨を降らした。だから二十回ほど踏んでやった。でも母は死ななくて、私は暫し喉が酸っぱいのを堪えながら過ごすはめになった。

 父はいつのまにか帰ってこなくなった。私の逆襲がエスカレートし始めた頃だ。母はますますヒステリーを拗らせ、娘がそれをねじ伏せる繰り返しだ。




 日差しは強いのに薄ら寒い。

 校舎の屋上に私と宮田くんはいた。大体どうして彼がここに――。さっきまでひまわりの前にいて、蝉の音を聞きながら中津先輩に好きだよと告白されて抱き合っていた至福の時間は何処へ。――何それ?

 フェンスの隙間を覗くと、夏服を着た生徒が登校してきているのが見えた。止まない朝の風が、不恰好に宮田くんの額を晒す。首からカメラを下げている。

「変人って言われてる被害者は俺だって、本気で思ってるのか」

「何のこと……?」

「ラブレターの返事にって、封筒に入れて渡したあの写真。あれ見た感想が『すごかった』の一言って、やっぱ、おかしいわ」

 彼は苦しそうな顔をする。変人と呼ばれることがつらいのかもしれない。

「まさかお前、そういう趣味かよ?」

「え……? ちょっと、何言ってるわからない」

「とぼけんなよ。俺が渡した、中津が裏庭で男子生徒とキスしてる写真――見たって言ったよな、お前」

 強い風が吹いて日差しが陰った。

 ひまわりの水遣りをしに学校へ来た日、中根先輩が追っていった背中が脳裏に過ぎる。

 校舎の下は騒々しい。ひょっとして今日は、終業式ではないか。ますます状況が理解出来なくてまごついていると――身体が後ろへバウンドして膝が落ちた。目を回す暇も与えられず、退路は堂々と塞がれる。

 誰かの声が耳を劈いた。

「この変態! 変態!」

 それは、私の口から飛び出ていた。右頬から肉塊が弾けたと思った。横倒しになって、彼に平手打ちされたのだと気づく。

 彼は変態じゃない、神原さんとの騒動だってあれは合意の下で……。しかし、反論は呆気なく塗り潰される。蝉の幼虫が真っ暗な地中をあてもなく彷徨ったあと、日差しに眩んだような感覚。その光に、私のすべてが塗り潰された。

 スカートの中に温かいものが入り込んでくる。咄嗟に掴もうとしても力が入らない。いつの間にか汗だくになった宮田くんが下着を引っ張ってくる。鞄を千切れそうな勢いで抱きしめても、歯がカチカチ言うのを止められない。

 脳髄の上に渦が出来ている。得体の知れない映像、音声、五感に訴えかけてくる感覚が、次第に肥大化していく。

 ――知っていたよ。

 彼にもらった写真を見たあの衝撃がどういうことだったのか。

 喉は震え、手足が痺れる。鋭い眼差しが飛んでくる。私の首筋に、彼の汗が滴る。

 パンツは膝の上まで脱がされている。スカートは局部を隠したまま。潰れた鞄を抱いているのがいいスパイスになったのだろうか。中津先輩、助けて!

 だけど、もう二度と中津先輩のピアノを聴けないだろう。

 宮田くんにぞっとする余裕もなかった。先ほどからもう一人の私が、身に覚えのない感情や台詞を吐露する方が異常だ。それらは、多分フェイクじゃない。受け止めたくない「事実」あるいは「濃厚すぎる可能性」だ。

 私は、たった今まで、幻覚の世界を生きていたんだと。気づいてしまった。平和な現実の影を追い求めていただけで、本当はそんなもの――見失っていたのだと。

「目を覚ませよ。お前は自分が控えめな女子じゃないし、授業中もお構いなしに校内を徘徊するし、変人奇人と言われているし、家で母親に暴力振るって険悪状態なのも知られてるし、中津はゲイだし、俺はお前が思ってるほどいい奴じゃない。幻想を見てるんだよ、お前。気味悪い。だから撮りたい。お前の死人みたいな目が――俺の描く構成にぴったりのモデルなんだ」

 宮田くんは尋常じゃない脂汗をかいている。「頼むよ。報酬金はある」


 私の血液なんて、とっくの昔に凍りついたはずだった。

 叫び出しそうなほど血が湧き立ち、私は、私に付きまとう嫌な嫌な現実のすべてが憎くて仕方なくなる。


「大人しく従えよ、変人! 女子として、奇人として、人の役に立てるんだ。もっと嬉しく思え。何なら中津にお前の写真、見せてやってもいいぜ」

 その中津先輩への夢さえ奪った人間が。ふざけないでよ。

 急いで鞄の中を開けると、写真も一緒に飛び出した。それは幻想を映した写真ではない。もう、わかっている。私の眼球が幻想に溺れているだけだったのだ。事実を思い出してしまったものはしょうがない。

 写真の中央。校舎裏庭の木立には、抱き合っている恋人同士がいる。それは男同士だった。狂おしいほど恋焦がれた人は、なるほど確かに私など眼中になかったろう。もう一人は、ひまわりの水やりに行った暑い日に、先輩が追いかけていった男子生徒だ。

 やはり宮田くんは学校に潜伏するフリーカメラマンだ。人物写真専門の。

「報酬金って、現像した写真を何処かに売って得るお金……?」

 朝だというのに校舎の下の木立から蝉が喧しい。アブラゼミの無機質な絶叫が湧き上がり、校内を揺るがし、やがて世界は蝉の鳴き声しか残らなくなる。微かにミンミンゼミの声も混じり始めた。急かされる。一番おかしいのが誰かなんてどうでもいい。




 初めて蝉を殺したのは中学に上がった頃だ。踏んでしまったそれは微かに足を蠢かせていた。模型の腕だけが独りでに動く怪奇現象に見えた。

 打ちひしがれた。靴の裏には殺した痕跡も感触も、残らなかった。彼らは残り七日の命を燃やすためだけに、次々と地上から噴き出るくせに、脆すぎる。私に色々なものを克服させてくれた恩人が、こんなに脆いなんて。

 それが現実。

 あれほど力強い小さな生命を私は他に知らない。けれど簡単に死ぬのだ。蝉に夢を見すぎていたと知ったとき、長い学生生活で言い聞かされ続けた「命の重さ」とか、「自然を大切に」なんて言葉が急に馬鹿馬鹿しく思えた。先に手を上げたのは母だった。死んでやろうとカッターを持ち出したこともあった。

 けれど最後まで、生きることに挫けられなかった。まだ信じていたかったのだ。

 夏を繰り返しているうちに、記憶が蘇る絶望感がエクスタシーに変わったといっても差し支えない。今も、私は夏以外の季節をまともに生きれていない。だから今、ものすごく冷静だ。蝉が鳴く度に、魔法にかかったように視界に映るすべてが爛々とし始める。

 母と一番遊んだ季節、精神に異常をきたした娘のせいで母が病んでいった季節。それが私にとっての――夏だった。

 これは果てしない現実逃避だ。だけど完全に幻想に隔離されるのも怖くて。がむしゃらに求め続けるのだ。強くて綺麗な「生」を。中津先輩のピアノから。宮田くんの写真から。蝉の鳴き声から。

 それだけだったのに。






 昼寝から目覚めたあとのように頭の中がおぼろげだった。

 宮田くんはデジカメで暢気に写真を撮っている。それに言いたいことなんて、ある訳がない。

 だって実物の宮田くんはもういないのだから。

 私は一人で屋上に立っている。終業式は終わって、みんながたくさんの宿題の抱えて下校し始めている。式では校長先生の話と、学年主任から夏休みの過ごし方についての話をしたぐらいだ。

 しかしこの学校に夏休みは訪れないだろう。

 足元に乾いた赤い海が広がっている。

 私にしか見えない宮田くんは震えているように見えた。

 どうしたの、と訊ねたつもりでも声は出ない。そんなに悲しむことはない、貴方は最初で最後の、貴重な機会を得たのだ。自分で自分の死体を撮れるなんて。残念ながら、フィルムには残らないだろうけど。

「大丈夫だよ、宮田くん」私の記憶に刻み付けるから。いつかまた幻想に飲まれてすべてを忘れる日まで。

 もくもくした雲が、眼前に広がる校庭の向こうに聳え立っている。積乱雲の暗澹たる広がり方ではない。ただ壮大な白が迫ってくる。死体の近くで実物のデジカメが壊れている。

 友達のいない大人しい女子生徒が、一人だけジャージで登校しても、声をかける人間はやはり現れなかった。それよりもみんな、宮田くんが無断欠席したことに首を傾げていた。

 死体の頭はアブラゼミの頭だ。何処からどう見ても。やがて蝉の顔から、ミシ、と言う。裂け目の入った真ん中から割れていく。魚の鱗が毟られていくように。

 蝉の羽が縦横無尽に散って、中から出てきたのは宮田くんの死に顔であった。脂汗を垂れ流しにして強烈な臭いは、風が吹いても校庭を漂い続ける。私を呪うように。

 そんなことより、見てごらん、宮田くん。

 貴方がこの生々しい事実を残した。自分は数時間前までここにいたんだという事実を。私の鼻から身体隅々を行き渡る臭いは夏に蒸され、晴天を台無しにする。私は今やっと、生物の「生」と「死」の両方に立ち会えた気がする。そして気づいたのだ。写真よりリアルの方が余程、「生」を感じられると。

 宮田くんの、義眼みたいな目が私を一瞥した。私は耳を澄まして、目を閉じる。蝉がまた幻想へといざなうから。

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