後編
少女と会ってから数日がたった。
あの後彼女を会うことも見かけることもなく、時間は過ぎた。
組織が用意した隠れ場所で、屋敷の見取り図やセキュリティーの情報を頭に叩き込み、当日どう動くかシミュレーションする。
仕事に集中し、彼女の事は頭から消えていた。
決行の日はやたら大きな満月が真っ赤に染まり、去ろうとする太陽の代わりに紫に染まる舞台に登場しようとしていた。死に行く者たちに不吉を知らせるような、そんな空……。
ターゲットである屋敷の一本隣の道で、腕にはめた時計で時間を確認する。
今回の任務は、指定された時間にあの屋敷内にいる人間を暗殺する事だった。
人数は知らされていない。ただ、全員始末しろとの命令だ。
何故この屋敷の人間が狙われているのかは知らない。それはどうでもいい事だった。
自分はただ、上からの命令に従って人の命を奪う殺人人形。
僅かに残る感情は、仕事の時には閉ざしていた。
腕の時計が、指令開始の時刻を告げた。
瞳を閉じ、一度深く呼吸する。
頭の先から足の先まで、一つ一つの細胞を活性化させるような感覚。
五感全てを冴え渡らせる。
そして、心の扉をそっと閉める。
目を開いた時にはもう、脳内には任務を遂行する事以外何もなかった。
ゆっくりとした足取りで、屋敷へと向かう。服装はごく普通の少年と変わらぬ黒のシャツに黒のパンツ。目立たぬように、人の流れと歩調をあわせる。日が落ちきっていないこの時間なら、子供が一人で歩いていても一目につかない。だが、人並みはまばらになるので進入するのにはいい時間だった。
屋敷は広い敷地を高い柵で囲んでいた。入り口には警備の人間、数箇所に監視カメラ。
闇夜ならば正面から警備員を倒して入ってもいいが、この時間だと警備員がいなくなると街の人間に不信に思われる。仕事が終わる前に騒がれるのは面倒なので、監視カメラの死角となる場所へ歩を進めた。
辺りに人がいないことを確認すると、袖から伸縮自在のワイヤーを取り出す。ボタンを押すと、ヒュっと勢いよくワイヤーが飛び出し、柵の上に引っかかる。もう一度辺りに視線を走らせ、そのワイヤーに捕まり柵を登ると飛び越えた。周りに見られた気配はない。
だが、見られたところで大した問題はなかった。それが、子供の特権である。ただ、子供が悪戯していると思われるだけだ。
中に入ったところで、どうせ警備の人間に見つかって怒られるだけ。
街の人間はそう思うはず。
まさか子供がセキュリティーを抜け、屋敷内の人間を暗殺するとは思うわけがなかった。
敷地内に入ると、まずは死角を利用して監視カメラの一つの背後に回る。固定されたカメラが監視する方向の映像を撮ると、再び腕の時計に目をやった。
監視カメラは屋敷内の一室で管理されている。
目的の時間を告げた瞬間、屋敷の裏門の方で仕掛けておいた花火が派手に上がる。
その瞬間、カメラの正面に先ほど撮った映像を映し出した、小型の液晶モニタをセットする。
この屋敷はここ何年も不審者が入ったことがないので警備員も油断し、監視カメラの画面をちゃんと見ていないとはふんでいたが、念のため花火で気をそらしたのだ。
そのまま、しばらく屋敷内の反応を待つ。裏門に様子を見に行ったものはいるようだが、こちらに向かって来る者はいない。
それを確認すると、一気に屋敷に向かって駆け出した。
監視カメラさえ役に立たなければ、ここは警備員からは死角になる。赤外線などのセキュリティーもあったが、それを越えるのは訓練で慣れていた。
数分で屋敷内に到達する。まずは警備員が控えている、監視カメラのある部屋を制圧しに向かう。不審者が忍び込んでるとは思っていないからか、拍子抜けするほどあっさり辿り着く。
「まじめに仕事やれよ」
思わずもれる独り言。
キーすらかかっていないドアをそっと開ける。
振り向く警備員二人の目が自分を捕らえたが、彼らはきょとんとした表情を浮かべた。彼らの目に映っているのは、無邪気な笑みを浮かべた上品そうな美少年。誰か客人の息子が紛れ込んだと思ったに違いない。
「ぼうず、ここは……」
子供の来る場所じゃない、と言おうとしたのだろう。
だが、彼の言葉はもう二度と聞くことができなかった。
サイレンサーのついた拳銃で額を撃ちぬかれ倒れこむ。
もう一人の警備員は何が起こったのかすぐに理解できず、構えるどころか声すらあげることができないまま、同じように床に倒れこんだ。
二つの遺体を目にしても、心はピクリとも動かなかった。
そっと扉を閉めると、もう動く事のない二つの体をまたぎ、屋敷の監視システムを全て停止させる。
「拍子抜けだ」
訓練よりも簡単に仕事がこなせ、思わずこぼれる言葉。
ここまで来れば、後は簡単だった。
油断しきった人間を始末する事など、大した問題ではなかった。
人の気配を感じる部屋に行き、始末するという繰り返し。
誰もが自分を見ると不思議そうな顔をした後、笑顔を浮かべる。服にとんだ血も、黒い色にまぎれて気づかれることはなく、ただどこかの子供が迷っているとしか思われなかった。
子供である事の最大の武器は、相手の油断。
しかも、狂ったような雰囲気もなく、ごく普通の少年のように笑顔を浮かべていればなおさらだった。心を閉ざし何も感じないようにしていても、頭は冴え渡り、演技をすることはできる。会う人間が一瞬見惚れるほど、自分が美しい顔をしているのも自覚していた。
「あとはここか……」
周りから攻め、あとは食事を楽しんでいるだろう屋敷の主人やその家族がいる部屋だけが残されていた。他の人間に何かが起こっているとはまた気づいてもいないだろう。
扉を開け中に入ると、予想していた通りの視線。見知らぬ少年が何故いるのか、戸惑った顔。その数秒で十分だった。
恰幅の良い主が最初に椅子ごと床に倒れこむと、状況を理解しきれない夫人は、自分から夫へとゆっくり視線を移す。驚愕に見開かれた彼女のこめかみに、めり込む弾丸。同時に、息を飲んだ十代後半の娘の頭にも、銃弾が放たれる。唯一、二十代になったであろう息子だけは僅かに声をあげたが、そのまま床に倒れこんだ。
静まり返る邸内。
もうこの屋敷内で命があるのは自分一人だろう。
銃を下ろし、まだ唯一確認していない玄関へと向かおうとした時だった。
コツンコツンと足音が響く。
気配は二つ。どうやら、客が到着したようだった。
時計を見ると、まだ指示された時間内だ。一応片付けたほうが間違いない。
玄関からこの部屋に通じる扉に、銃を向けた。
扉を叩く音に続き、名を名乗る年寄りの声。返事がない事を不審に思ったのか、扉を開けることを告げると、ゆっくりと重そうな扉が開かれた。
現れたのは初老の男性。目の前に突如現れた惨劇に、目を見開く。
銃を構えた自分に気づく前に、彼の額には風穴ができていた。
もう一人いるはずだと、引き金に手をかけたままその人物が現れるのを待つ。
「神父様?」
「!?」
ゆっくりと倒れこむ初老の男性にかけた声に、閉ざしたはずの心が激しく動揺した。
聞き覚えのある声。
神父と呼ばれた男が前方に倒れこむと、後ろに佇んでいたのは、あの時食事を作ってくれた少女だった。
隠れ屋に戻ると、硬いベッドに力なく倒れこんだ。
服に染み付いた血が、薄汚れたシーツにしみこんでいく事など気にもならなかった。
硝煙の匂いが残る手をただ見つめる。
撃てなかった……。
惨劇を目の当たりにしても尚、自分を澄んだ瞳で見つめた少女。
まるで金縛りにあったかのように、指が意識に反して引き金を引くことを拒んだのだ。
何故彼女があの屋敷に来たのかは知らない。だが、あの粗末な教会で育った彼女がこの仕事に関係があるとも思えなかった。
自分にそう言い訳をし、ただ自分を見つめて立ちすくむ彼女を残して屋敷を去った。
彼女は警察に自分の事を話すだろう。だが彼女はただ食事をともにしただけで、自分の事は何一つ知らない。目撃された事が問題になるとも思えなかった。
しんと静まり返る部屋の中に、突然電話の音が鳴り響いた。マスターからのコール音。反射的に体が動き、電話に出る。
「屋敷内にいるもの、全員といったはずよ?」
第一声は非難の色がこもったそんな言葉だった。
「弾が……ちょうど切れたので、装弾しなおしてまで殺す必要があるとも思わず……」
気がつけば、嘘が口をついて出ていた。しかし、それ以外に彼女を見逃した理由を説明できなかった。
ただ一度食事をともにした少女を殺すことをためらったなど、言うことはできなかった。
「誰があなたに判断しろなんていったのかしら? 私は全員といったの。どんな手間をかけても、任務を正確に遂行するのがあなたの役目でしょう?」
「すみません」
「3日以内に彼女を探し出し、仕事を完遂しなさい」
「――え?」
予想外の言葉に、思わず聞き返してしまう。
その言葉に何かを感じたのか、電話越しにマスターがふっと微笑むのがわかった。
「殺したくないの? あの少女を」
「いえ、違います。そこまでする理由があるのかと……」
動揺を隠しながら、淡々とした声で答える。
「あるわよ」
楽しげなマスターの声。
自分の動揺はあっさりと見抜かれ、その事を面白がっているように思えた。
「特別に教えてあげるわ。あの子はね、あの屋敷の主人の隠し子。メイドに生ませた子なの。主人もに認知した子よ。ただ、母親が障害を持って産まれた子を育てる自信が無くて教会に捨てたの。今回の任務は、あの屋敷の財産を相続する権利があるもの全員がターゲット。だから、血のつながるあの少女も殺さなければいけないの。わかったかしら?」
「…………」
何故かすぐには返事ができなかった。
ただ一緒に食事をしただけで幸せだと微笑んだ少女。彼女が財産など欲するわけが無い。
なのに……。
「まぁ、無理ならいいのよ? 他の者を差し向けるわ。そうね、オルソーにでも頼もうかしら。あの子、女の子がターゲットだと喜ぶのよね」
ぞくっと鳥肌が立った。
同じ組織に属する人間の中には、仕事を愉しみとする奴もいる。命を奪う前に身も心も汚し壊す事を心底愉しむ奴がいる。
「いえ。最後まで自分でやります」
「そう? それならいいけど。でも、今回二度手間になった事、後でお仕置きよ? それじゃ、三日以内に、ね」
楽しげにそう言って切られる電話。ツーツーという音を聞きながら、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
彼女の暗殺命令が出てから3日目。
タイムリミットまであと数時間となった今、彼女が育った小さな教会の中にいた。
天窓から僅かに差し込む月明かりを浴びながら、黒衣を纏い祭壇の前に跪く少女の姿がそこにはあった。
この数日、彼女はただ祈りを捧げていた。
何故祈るのだろう。
彼女の小さな背を見つめながら、不思議に思う。
神がいるのならば、神を信じ使えた者をあんな惨劇に巻き込むはずがない。罪のないものを、無残な姿にさせるわけがない。
何もしてはくれない神に、彼女は何故祈りを捧げるのか。
そんな彼女の後姿を見つめながら、ふと彼女が作ってくれた料理の味を思い出す。
美味とはいえないが、今まで口にしたものの中で一番暖かな料理。作るものの心がこもっていたからなのか、忘れられない味だった。
―――― せめて苦しまないように殺してやる
今の状況で、唯一彼女にできる礼だった。
組織に狙われて逃げられるはずはない。神に祈りを捧げたその姿のまま、恐怖も苦しみも感じる前に、一足先に行った神父のもとへ送ってやろうと静かに銃口を彼女の頭部に向けた。
気配を絶ち、音もなく教会に入った自分を、祈りに集中している彼女は気づいてはいなかった……はずだった。
銃を彼女に向けた瞬間、彼女はゆっくりと振り向いた。
引き金を引こうとした指が金縛りにあったかのように動かなくなる。
彼女の瞳には、驚愕も恐怖も怨嗟もなかった。ただ静かに真っ直ぐと自分の瞳を見つめている。
「どうして泣いてらっしゃるんですか?」
「え……」
仕事中に感情を露にする事などないはずだった。そんな表情をしているわけがない。
だが、気遣うような彼女の言葉に頬を流れ落ちる何かに気づく。
眼から零れ落ちる温かな雫――涙。
「3日前……あの時も悲しい目をしてらっしゃいました」
銃口を向けられたままにもかかわらず、まるでそれが目に入っていないかのように自分を見つめる少女。その深く澄んだ瞳に、隠したはずの感情がすべて見透かされそうな気がした。
自分でさえもわからなくなってしまった本当の心を……。
「お前を殺しにきた」
そう冷たく言い放つ事で、心を隠そうとした。
今ここで、彼女の命を絶たなければならない。そうでなければ、彼女はもっと酷い目にあうだろう。
彼女の瞳に負けてはいけなかった。
せめてこの晴れ渡った青空のように心を優しくする、澄みきった心は壊さないままでいたかった。
彼女はその言葉にさえ、動揺した様子はなかった。
まるで最初からわかっていたかのように頷くと、柔らかく笑む。
「それが神の思し召しなのですね。それなら私は喜んで神の元へ参りましょう」
「何故……」
どうして死を目の前にして穏やかでいられるのか……。
神がいるなどというのは幻想だ。死んで幸せになれるなど、あるわけがない。
だが…………
何故、自分は生きるのか。
心を殺し人の命を奪い、何が望みなのかもわからないまま、ただ命令によって動く人形のような自分。短い人生でも最期の瞬間まで心から微笑んでいられる彼女と、足掻く事すらできずにただ流されて生きている自分。
本当に望むのはどちらの生き方なのか……。
「あなたは本当は優しい人だと思います。だから、そんなにも悲しい瞳をしている。私にも命を狙われる理由が、あなたにも命を奪わなければならない事情があるのでしょう。私の死で、あなたの悲しみが増えなければよいのですが」
本当に心配しているような少女に、何故か苛立ちがつのる。
いつもの仕事のように、恐れや憎しみの眼差しの方がずっとマシだった。
自分がしている事に対しての対価にはそれがふさわしいと思っていた。
それ以外のものが、自分に向けられるはずはないと、そう思っていた。
「一つ、お願いしてもよいですか?」
「なんだ」
「あなたのお名前を教えてくださいますか?」
そんなもの必要なのかと疑問に思う。だが、死にゆく者の最期の言葉は聞くことにしていた。
「R・A・Y」
一文字ずつくぎってそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「レイ――光……。あなたは私を天に導く光なのかもしれませんね」
――――違う。
そんな綺麗なもんじゃない。
彼女を死に追いやるのは、ただ醜い人の感情。
自分はそれに流されて動かされているだけだ。
この名も、闇にしか生きる事ができない自分には皮肉としか思えないものだ。
「何故そんなに冷静でいられる」
思わず口をついてでた問いに、彼女は微笑を浮かべる。
「死は誰の上にも平等にやってきます。私はそれが少し早かっただけ。天に召される事に恐怖などありません。それに……」
そこまで言って、じっと自分を見つめる少女。
「あなたは私を救おうとしてくれてると、そう感じるから」
「っ……」
無垢な瞳は全てを見透かしているのかもしれなかった。
天窓から差し込む月光が祭壇に反射して輝き、彼女の背を照らす。
それはまるでまばゆく輝く白き翼のようで、彼女は絵画に描かれる天使のようだった。
「最期に言い残す事はないか?」
これ以上話していたら任務を終えることができない気がした。
どんなに自分が強くとも、彼女の心に勝てる気がしなかった。
だが、他の者の手にかかる事だけは避けたくて、思いを断ち切るようにそう言った。
少女は微笑むと踵を返し、祭壇の方を向くとゆっくりと跪いた。そして小さな手を胸の辺りで組む。
「どうかレイにも、その名のように希望の光が降り注ぎますように。優しい心を包み隠さずに生きる事ができますように。神よ、どうか私の最期の祈りを聞き入れてください」
彼女は祈りを捧げる姿勢のまま、動こうとはしなかった。
運命を静かに受け入れる気なのだろう。
そこだけは、自分の運命に抗おうとしない自分と少しだけ似ている気がした。
彼女に銃口を向ける。
そして、引き金を引いた……。
横たわった彼女の顔に飛んだ血を袖で拭い、綺麗にした。
表情は穏やかなままだ。
まだ温もりの残る彼女の額に、そっと口づけをする。
そして、祭壇の前に横たえ、胸の上で手を組ませた。
それから、祭壇に飾られた花を手に取った。
花びらを引きちぎり、彼女の上に降らす。せめて彼女の最期が少しでも美しくあるように。
何故か流れ落ちる涙を拭いもせず、ただ無心に彼女を花で飾っていた。
††††††††††††††††††††††††††††††
よろめきながらどうにか硬いベッドの上までたどり着き、どさっとうつぶせに倒れこんだ。
鞭で打たれた背中が痛みを通り越してただ熱い。
だが、気が遠くなるほどの痛みを伴う懲罰が、今回は嫌ではなかった。
誰かに責められる事が、落ち着くこともあるのだと初めて知った。
朦朧とする意識の中で、眠る事すらできずにただ神を呪っていた。
いや、神などいないとそう思っていた。
神がいるのならば、彼女は死ななかった。自分はこんな場所にいなかった。
ぎゅっと唇をかみ締めた時、何か暖かいものがそっと髪に触れた。
優しく頭の上を往復する小さな手。
閉じていた目をそっと開くと、そこには無表情な少年の姿があった。
「……痛い?」
表情とは裏腹の気遣うような言葉。小首をかしげながら、優しく自分の頭をなでている。
組織の苛酷な状況で、表情を失った少し年下の少年。
だが、大切なものは失っていないようだった。
「ちょっと……な」
「……痛くなくなるまで、傍にいる?」
そう言って小首をかしげながら頭をなで続ける少年。まるで頭をなでていれば痛みが飛んでいくと信じているような彼の姿に、思わず微笑がこぼれる。
そして、思い出す。
自分も笑える場所があった事を。
神などいない、神など信じない。
だが…………
人の中には信じる事ができるものもあるのだと、そう思った。