前編
西日が眩しく感じる頃、多くの人が行きかう街並みを一人歩いていた。
ヨーロッパの街はどこも昔の風合いを残していて、建物一つ一つに歴史を感じる。教会も、大小さまざまな物がたくさんある。違う土地から来たものにとっては、街を歩くだけでその雰囲気に満足し、楽しめるだろう。
だが、そんな事はどうでもよかった。
道行く人に混じりながら、一つの屋敷を観察する。
一見して金を持っているとわかる、広い敷地の中に建つ豪邸。
素朴な街並みにはそぐわない建物だ。
そこが、今回の任務を遂行する場所だった。
「けっこうセキュリティーよさそうじゃないか」
周りに気づかれないくらいの小さな声で、思わずそう漏らす。
今回は一緒に仕事をする仲間はいない。使える機材も大したものはなかった。
懐に潜めた銃の感触を、服の上からそっと確かめる。
―――これだけあれば十分
自分には最大の武器がある。それをよくわかっていた。
怪しまれない程度に屋敷周辺の様子を探り、とりあえずそこを離れようとした時だった。
背後で短い声が上がるとともに、何かが自分に向かって飛んでくる気配がした。敵意のないものだとわかっていたが、反射的に半身を返し、それらを空中でつかむ。
「缶詰、か」
手にしたのは缶詰だった。
右手で一つずつ掴み、それをすばやく投げ左腕で受け止めたのだが、飛んできたのは全部で五つの缶詰。当たればそれなりに痛いものだ。
「すっっごぉぉい!」
柔らかい声に視線を上げると、そこには両手に袋を二つ抱え、セピア色の瞳を輝かせた少女の姿。
肩まであるブラウンの真っ直ぐな髪が、風に揺れている。
年は自分より少し上――14~15才くらいだろうか。
「後ろからだったのに一つも落とさないで取るなんて、すごいですね!」
にこやかに話しかける少女。
褒められた所で、別になんとも思わなかった。
彼女の言葉に答えることなく、手にした缶詰を差し出す。彼女ははっとしたように、くりっとした大きな瞳をさらに見開いた。
「あ、ごめんなさい。謝るのが先ですよね。私の不注意で、ごめんなさい」
無言で差し出したのを怒りと判断したのだろう。少女は深々と頭を下げる。同時に、手にしていた袋から缶詰やら野菜が転がり落ちた。
「あぁ!?」
「……アホか?」
慌てふためく少女を見て、思わずそう呟いた。自分の呟きは全く聞こえなかったのか、慌てた様子で落ちたものを拾おうと、しゃがもうとする少女。その体がぐらりと揺れる。
他人がどうなろうと知った事ではない。
そう思っていたのに、何故か手が出ていた。倒れかけた少女の手を、しっかりと握る。
支えられた彼女は、はにかんだ。
「ごめんなさい。私、ドジで」
そう言って、今度はゆっくりと気をつけながらしゃがみ、物を拾い始める。
その様子を見て、ようやく気づいた。
「あ……私、足が悪くて」
自分の視線に気づいたのだろう。先手を打つように少女は言った。右足を引きずっている。
だが、彼女の顔に浮かぶ笑顔にはまったく陰りがなかった。
「それで、いっつもこんなドジしちゃうんです。直さなくちゃって思うんですけどね」
何故そんなに素直な笑みを浮かべられるのか、不思議だった。その足で、人よりも苦労しているだろう。自分の運命を呪ったりはしないのだろうか。
「ありがとうございます」
足もとに転がってきた缶詰を拾うと、やわらかな笑みを浮かべる彼女。足を引きずりながら彼女はそれを受け取ろうと近寄ってきた。そして、石畳に足を取られる。
ぐらりと倒れこむ彼女を、さすがによけるわけにも行かず、今度は身体で受け止めた。べちょっと嫌な感触が胸の辺りでする。
なんとなくわかっていたものの、視線をそこに向けると、缶詰と彼女の体重で押しつぶされたトマトの姿。白いシャツに見事に赤いしみを作っている。
「あぁぁ!? ごめんなさいっ!!」
「別に……」
慌てふためく彼女に、ひと言そう返す。ただ隠れ家に戻って着替えればいいだけの話だ。これ以上関わる事の方がめんどうだった。
だが、少女はそんな自分の心境をまったく理解していないようだった。
「うちに来てください! 綺麗に落ちるかわからないけど、洗濯させていただきます!! 本当にごめんなさい。さ、こっちです!!」
そう言ってぐいっと自分の袖を掴む。小さく息をついてみるものの、嫌がっていることに気づきもしない。
「だから……」
はっきり言ってやろうと思ったとき、ぐぅっとお腹が盛大な音をたてる。
きょとんとする少女。そして、次の瞬間には優しい笑顔を浮かべていた。
「お詫びに、お食事もいかがですか? 大したものは作れませんけど、味には自信があるんですよ?」
「……手料理?」
「はい!」
何故だかわからない。だが、今まで口にした事のない『手料理』という物に、その時は妙に惹かれるものがあった。
関係のない人間と係わり合いになるのは、避けたい所だった。だが、どうせ二度と会わない人間とほんの少し一緒にいた所で、大した問題はないだろう。どうせ隠れ家に戻っても、どこかで買った物を一人で食べながら、作戦を練るだけだ。
「あまり時間はないけど……」
「じゃあ、全力で頑張りますね!」
そう言ってしゃきしゃきと歩き出そうとし、再び転びそうになる彼女。
「ゆっくりでいい」
少女を支えながら、思わずそう言っていた。
「荷物まで持っていただいて、ありがとうございました」
目的の場所に着くと、少女はそう言って微笑んだ。
ただ危なっかしくてしょうがなかったから持っただけだが、彼女はとても嬉しそうだ。
普段は縁のない無垢な笑顔を物珍しげに見つめてから、今着いた場所を見回した。
「ここに住んでるのか?」
「はい」
にこやかにこたえる少女。
今立っている場所は、小さな古びた教会だった。華やかなステンドクラスもなく、凝った彫刻もなければ、壁や天井を彩る絵画もない。小さな祭壇があるだけの、石造りの粗末な教会だった。
自分には縁のない場所。
神に祈るなど、意味のないことだと思っていた。
「牧師の子か」
自分とはかけ離れた存在だと、ぼそっと呟く。それが聞こえたのか、彼女は教会から繋がる家屋に向かいながら口を開いた。
「違いますよ。私は赤ん坊の時この教会の前に置かれていて、それを見つけた神父様が育ててくださってるんです」
「…………」
屈託のない笑顔に、何の言葉も出なかった。
こいつは、少し頭が悪いのかもしれないと思う。
彼女の歩き方を見ていたが、どうやら先天的なもののような気がした。もしかすると、片足が不自由な赤ん坊を育てる自信のない無責任な親が、それを理由に捨てたのかもしれない。
そんな理不尽な出来事を、理不尽だとすら理解できていないのではないだろうか。
「先にシャツ洗いますね。脱いでくださ……」
買った荷物をテーブルに置き、そう言った彼女の前でシャツのボタンをはずすと、突然顔を赤らめて固まる少女。ガキの裸に照れてどうすると心の中で毒づくが、ふと身体に残る傷を思い出す。
この少女が見たらするであろう反応を思い浮かべると、少々面倒な気がした。
「これは自分で洗う」
「え……あ、じゃあ、私はご飯作りますね!」
どこかほっとしたように笑顔を浮かべ、買ってきた材料に向かう少女。
外にある水場を教えてもらい、一人で外に出る。服を脱ぎ、汚れた場所を水で洗う。
「何してんだ……俺」
我に返り、思わず呟く。
神など信じない自分が、教会で育てられた娘と一緒にいることが不思議だった。
おかしな少女……。たとえ彼女の身に多少の不幸があったところで、本人が気づいていないのだから幸せなのだろう。
屈託なく笑えるその心がバカらしくもあり、どこか惹かれるものがあった。
自分もあんなだったら、今の状況でも幸せだと思うのだろうか……。
否
罪の上でしか生きられない自分が、あんな風に笑えるとは思えなかった。
作り笑いはいくらでもできる。だが、心から笑った記憶はなかった。
仲間の中には、この仕事を楽しんでいる壊れた奴らもいる。
自分もつまらないわけではない。だが、好きだとも楽しいとも思わなかった。
ここでしか生きられない、それしか出来ないから、せめて上達しようと努力しているのだ。
このまま帰ってしまおうかと思ったとき、空腹感を刺激するよい香りが中から漂ってきた。ぐぅっと、お腹が再び声をあげる。
「……飯だけだ」
言い訳するように独り言ちると、胸の辺りが濡れたままのシャツを羽織る。少し冷やりとするが、きっと体温で乾くだろう。
そう思いながら、再びあの少女のもとへと歩いていった。
「どうですか?」
一口スープを口に含んだ自分を、少女はまっすぐに見つめた。
数種類の野菜を煮込んだスープ。正直、味は普通だった。
組織の施設内で食べる物や、外で買って食べるものの方が味としては美味しいだろう。
だが、不思議といつも食べているよりも食が進んだ。
無言で手と口を動かす自分を見て、彼女は嬉しそうに微笑むと自分もスプーンを手に取った。
「今日は神父様おでかけなんです。一緒に食べてくださってありがとうございます」
礼を言われる意味がわからなくて彼女の目を見ると、意図が読み取られたのか口に含んだスープを飲み込んで、彼女は再び口を開く。
「一人で食べるより、誰かと食べる方が美味しいじゃないですか」
「そうか?」
一人だろうが複数だろうが、同じものを食べれば同じ味がするのが道理だ。
おかしな奴だと、再び思う。
「それに、自分の為だけよりも誰かのために作るほうが美味しく作れる気がするんです。今日は、あなたの為に」
「俺の……為?」
「はい」
不思議な感覚が胸の中に広がる。くすぐったいような、変な感覚。
でも、嫌なものではなかった。
並べられた食事に、目をやる。
スープに、パン、サラダに揚げた魚。豪華と言うよりは、粗末な食事。
だが、いつもよりもっと食べたいと思うのは、自分のために作られたものだろうか。誰ともつかない人間のために作ったものではなく、自分の為に作られた食事。
初めてのことのような気がした。
これが、手料理。家庭の食事……。
「いっぱい食べてくださいね!」
決して美しいわけではない無邪気な少女の笑顔が、何故か眩しかった……。
食事を終えてスプーンを置くと、空になった皿を見て少女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「よかったです。お口にあったみたいで」
蔭りを全く感じない、無垢な笑顔。
どう育ったら、彼女の置かれる状況でそんな風に笑えるのか……。
「恨んだりしないのか?」
「何がですか?」
思わず口をついて出た質問に、彼女はきょとんとする。そんな事、今まで一度も思ったことがなかったかのようだ。
「親に捨てられた事も、そんな身体に生まれたことも」
「何故、恨むのですか?」
澄んだ瞳で逆に問われ、言葉に詰まる。
疑問に思うことなのだろうか。
人は皆、辛い状況に置かれたら、多少はその境遇を恨むものではないのか。
「捨てられても、私は神父様に育てていただきました。私の本当の両親が私を手放す事で救われたなら、それは嬉しい事です。片足が不自由でも、私は何でもできます。ただドジなので、人より少し時間がかかりますけど」
「辛いとは思わないのか?」
俺の問いに、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ。私は幸せです。神を恨んだりはしません。むしろ、毎日感謝しています。今日だって、あなたに会えた」
「俺に会ったのがなんだ?」
「落とした荷物を拾ってくださいました。ここまで荷物をもってくださいました。一緒に食事をしてくださいました。それはとても嬉しい事だから、あなたにも神にも感謝です」
別に、親切にしたつもりはなかった。
ただ足もとに転がってきた物を拾い上げただけ。
ふらふら歩くのがうっとおしかったから持っただけ。
彼女の為を思った行動ではない。
「別に、お前の為じゃない」
「それでも、私は嬉しかったです。幸せな気持をあなたから頂きました」
嫌味にもめげない微笑み。
彼女は大バカか、心が強いか、どっちかなのだろう。
「変な奴」
「よく言われます」
呟くように言った言葉に、彼女はちょっと恥らうような笑みを浮かべた。
心の中に今まで感じたことのない、妙な感覚が渦巻く。
同時に、このままここにいてはいけないと警告音が鳴り響く。
「おかえりですか?」
警告にしたがって立ち上がった自分を、彼女は少し寂しそうな瞳で見上げた。
何も言わずに一歩踏み出すと、見送ろうと立ち上がる少女。
視線でそれを制する。
意図が伝わったのか、再び腰を下ろす彼女。
彼女は再び笑みを浮かべると、口を開いた。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「もう会うこともないのに聞いても意味がない」
「そう……ですか」
残念そうに微苦笑を浮かべる少女に、背を向ける。
そう。もう二度と会うことはない。ただ、普段かかわることのない人間に、少し興味を持っただけ。自分のような人間と、彼女のような人間の歩む道が、一瞬交差しただけだ。
「今日はありがとうございました。あなたにも、神のご加護がありますように」
背中に向けられた、祈りの言葉。
「神なんていない」
呟いた声は、彼女には届かなかった。