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エピローグ、20年後

2026年7月9日、西城康介、○○病院にて



 消毒の匂いが鼻を突き、効きすぎたクーラーに少し、鳥肌が立つ。


 妙に静かな廊下は綺麗に掃除されていて、自分の歩くスリッパの音だけが反響していた。


 皆昼寝をしているのだろう、耳をそばだてればドアの向こうから寝息が聞こえてくる気がして、そんなのどかな昼下がりだった。


 一つの病室の前で、立ち止まる。


 花とカバンを持ち直し、ひじでドアを開けると、その部屋には一人の女が寝ていた。


 その体にはいくつもの管がつながれ、それに連なる機械は、一定の間隔で「イー、イー、イー」と、機械音を発している。


 俺はカバンを置いて、窓辺に花を生けてから、そっと、ベッドの横にパイプ椅子を置いた。


「すみれ」


 ぶくぶくにむくんだ手をそっと取り、名前を呼ぶ。


 むくんでいても、ひんやりとして、きめ細かくて、心地よい手だ。


 両手で包み込むように、割れ物を触るようにやさしく握る。


 握る。


 いくら繰り返し握っても返事はなく、しかし、いつか握り返してくれるだろうと彼女の手を握り続けた。


 ふと手の肌を見た。


 日に日に荒くなってゆく自分の肌のきめと、あのころと変わらない彼女の手を見て、重い溜息を漏らした。


「歳を、とったなあ」


 苦虫を噛み締めるような、それでいてどこか子供を愛しむような声で言う。


 年を重ね、体は老いて前ほど動かなくなり、物忘れもひどくなった。


 当たり前にあるのに、少し前まで身近にはなかった「老い」という物が、今になってはひどく身近で、怖い。


 朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。


 そのすべてに「老い」が付いて回っていた。


 そのせいで、何もかも億劫に思えてくる。


 しかし、それが自分にとって贅沢な悩みだということも理解していた。


 目の前の、すみれの時間は止まっているのだから。


 ベッドに横たわり、目をつむっている彼女は、その時間に取り残されてしまっている。


 そう思うと一層辛く、俺は少し強くすみれの手を握った。


 そんなことをしても握った手から反応はなく、その代わり、規則正しい機械音が寂しく鳴り続けていた。


「……」


 昼下がりだというのに部屋は薄暗く、効きすぎたクーラーにまた、鳥肌が立つ。


 俺はパイプ椅子をそっと片づけ、娘にそっとキスをして病室を出た。


 外に出るとむっとした空気が体を包み、病院で冷えた体が数秒で台無しになってしまった。


 ギラギラと刺す太陽に頭痛がして、目を細める。


 確か今日は40℃近くまで上がると言っていた。


 病院から出た俺は、いつも通りスーパーに寄り、惣菜を買って帰った。


 玄関の扉を開けると、元気よく短足の犬が出迎えてくれる。


「ただいまハル」


 短い尻尾を一生懸命振るその姿に頬が緩んだ。


 くしゃくしゃと首の辺りを撫で回してやる。


 ペタンと座って気持ちよさそうに目を細めている。


 少しすると飽きたのか、そそくさと自分の寝床まで帰っていった。


 ハルのためにつけていたクーラーのおかげで部屋は涼しく、俺は靴を脱ぎ、すぐにソファーに倒れ込んだ。


 時計は4時を指していた。


 外から聞こえてくる蝉の声と、クーラーのゴーゴーという音、そして、自分の心臓の音が嫌に耳に鳴り響いていた。




 ブー、ブー




 メールの着信音が鳴り響き、体を起こす。


 机の上に手を伸ばし、手に取って確認する。


 酒井京吾


 サカイ、たしかキョウゴと読んだはず。高校時代の友人だ。


 ここ数年会っていなかったせいか、随分と懐かしい名前に感じる。


 メールには簡潔に「開いてる日、飲みに行かないか」と、書かれていた。


 「いいよ、いつにする?」と返事を送ると、少し間をおいて、スケジュール表が送られてきた。


 自分自身の空いている日と照らし合わせ、四日後を提案した。


 携帯を持ったまま、横になり、枕に顔をうずめる。


 気温のせいか、ひどく疲れている。すぐに瞼が重くなり、それに身を任せて目を閉じた。



 酒井京吾        16時22分


  宛先:西城康介


  件名:水田も来るから、よろしく。





 その日は午後から雨が降っていた。


 天気予報では晴れると言っていたのに、酷く外れた予報だったようだ。


 服の中が湿って気持ちが悪く、じわりとにじんだ汗をハンカチで何度もぬぐう。


 傘に落ちる雨が、ボン、ボン、と鳴り響いてうるさかった。


 時刻は7時を指しており、俺は駅前のガードレールに腰かけて京吾と水田を待っていた。


 帰宅ラッシュでにぎわう人々が流れて行くのを、ただぼうっと眺める。


 そうしていると、人ごみの中からこちらに歩いてくる背の小さな中年が見えた。


 しだいに近づくと、白く染まった短い髪に、丸い眼鏡、少し出たお腹で京吾だとわかった。


「久しぶりだなぁ、康介、元気してたか?」


「ああ、久しぶりだな京吾」


「水田は遅れてくるってよ」と京吾が言った。


「そう」と俺はいった。


 雨だったうえに、二人とも腹が減っていたのでとりあえず駅前の居酒屋に入ることにした。


 店に入ると、青年の店員に端の方のテーブル席に通され、席に着いた。


 店員に生ビールを2つ頼んだ。


 すると、彼が口を開いた。


「今日は、いい知らせがある」


 そう言って、京吾は封筒を取り出した。俺はそれを受け取り、中身を見る。


「来てくれないか、娘の結婚式」


 手紙の中身は、招待状だった。


「娘さん、結婚したのか、めでたいな」


「ありがとう」


 彼は、本当にうれしそうにはにかんだ。


「水田も来てくれるそうだ」


 今日はその件で呼んだらしく、前祝いのようなものらしかった。


 ビールが来ると、京吾は娘の結婚について語った。


 お相手は地元の公務員で、とてもハキハキとした感じのいい男だそうだった。


 京吾の娘とは大学で知り合い、3年間付き合って、今年入ってようやく結婚に踏み切ったらしい。


「心配したんだけどよ、いざ会ってみたらいい人そうでな、安心したわ」


「そうか、そりゃよかった」と俺は相槌を打った。


「式はホテルの式場でやるんだが、予定あうか?」


 俺はカバンからスケジュール帖を取り出し、確認した。しかし、ちょうどその日はすみれの見舞が入っていた。


 予定を前倒しにして、見舞いを一日ずらせば、式の日は開けられないこともなかった。


「見舞いだけど、まあ、ずらせば……」


「”そんなもん”いいじゃねえか」


 京吾が挟んだ言葉に、目を見開いた。


 いつもならそんなこと言わない奴なのだ。しかし今日はアルコールが入っていたし、めでたい話で浮かれてもいた。


 そして、アルコールが入っているのは俺も同じだった。京吾の娘の話だけで神経を使っていたのに、触れられたくないところまで触れられて、


 ガコンと、歯車が狂った。


「……いいよな、お前はさぁ」


 俺がそういうと、京吾は自分が気のない言葉を言ったことに気付いたようだった。


「すまん、そういうつもりじゃなかった」


「……いいよ、別に」


 俺はジョッキに口をつけ、数秒黙ってから、思いっきり笑って見せた。


「すまんすまん、いいんだって、めでたいんだから、楽しく飲もうぜ」



 頼んだつまみがちょうど着た頃、水田が到着した。


 彼女は長く伸ばしていた髪を肩まで切っていた。


「久しぶりですね、康介」


「うん、久しぶり」


 俺がそう言うと、水田はさっそく店員を呼んでジョッキを頼んだ。


 仕事帰りにそのまま来たのか、黒のパンツスーツ姿だった。


「遅れてごめんなさい、ちょっとやることが残ってて」


「いいよ、京吾から聞いてた」


 彼女はキョロキョロと辺りを見回す。


「その京吾はどこ行ったんですか?」


「ああ、ちょっと席外してる」


 数分前、京吾は酔ったから風に当たってくると言って店を出た。しかし、彼は少量のビールで酔うほど酒に弱くはなかった。


 大方、テンションが上がって頭を冷やしに行った、というところだろう。


 先ほどのあの発言は、たまたま歯車が変にかみ合っただけで彼に非はなく、むしろあの程度で目くじらを立てた俺がおかしいのだ。


 しかし俺に、彼が離席するのを止める勇気も、口実もなかった。


「そうですか」


 そう言ってうなずくと、水田は何の断りもなく俺のビールに手を付けた。


 そして何事もなかったかのように飲み干した。


 俺はおどろいて、すこし笑った。


「どうした、そんなに飲みたい気分か」


「仕事で嫌なことがありましたから、少しだけ」


 俺は今飲み干された分、追加でジョッキを頼んだ。


 彼女が俺の注文する姿を見て「あなたも?」と言ってきたので、「ちーがーうー」と、思いっきり否定した。


 自分のビールを飲み干された上にすっとぼけられて、しかめっ面をする俺を見て水田はケラケラと笑った。


 目尻にシワがくしゃりと浮かんで、なぜか安心感を覚えた。


「……京吾と喧嘩でもしましたか、顔が暗いですよ」


「まあ、ちょっとね」


 俺はかいつまんで、さっきのことを話した。


 水田はその間、黙って頷いてくれていた。


「そうですか、気にしないほうが良いですよ。彼は口滑らすのが趣味みたいな人ですから。昔から」


 彼女はそう言うと「昔から」と、もう一度かみしめるように口にした。

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