配管の騎士(パイプ・ナイト)
「……ごめん。やっちゃった」
妻のその一言で、夕食後の穏やかな空気は一変した。洗面台の前で肩を落とす彼女の指には、結婚十周年の記念に贈ったプラチナの指輪がない。排水口に吸い込まれたのだ。
「大丈夫だよ。こいつの出番だ」
僕は仕事用のカバンから、手のひらサイズの黒いケースを取り出した。中には、体長わずか2センチ、半透明の多脚型ロボットが収まっている。通称「スパイダー・バグ」。水回りの修理屋として独立する際、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った、最新の商売道具だ。
「これ、動かせるの? 中、水も溜まってるし、真っ暗だよ?」 不安そうな妻に、僕は不敵に笑って見せた。
「こいつは一世代前の『流されるだけ』のカメラとは違う。外からエネルギーを送れるんだ」
僕は洗面台の下の扉を開け、露出している排水管に、湿布のような「給電パッチ」をペタりと貼り付けた。 「ここが金属の配管だと電波を通すのに一苦労なんだけど、最近の住宅はほとんどが塩ビ管だからね。プラスチックなら、外からの電波を遮らずにビンビン通してくれる。つまり、こいつに外からパワーを流し放題ってわけだ」
スマホのアプリを起動すると、配管内部が鮮明に映し出された。暗闇を照らす強力なLED。電池を積んでいないこのロボットは、パッチから飛んでくる電波をエネルギーに変え、理論上は無限に動き続けられる。
「よし、ダイブ」
スパイダー・バグが排水口の奥へと潜り込む。水の抵抗を物ともせず、強力なモーターが脚を駆動させる。もしこれが電池式なら、この水圧に逆らって進むだけで数分で力尽きていただろう。
「……いた。あったよ」
画面の隅で、銀色の輝きが泥に埋もれていた。僕は慎重にスマホのレバーを操作する。ロボットの先端から小さなアームが展開し、指輪をしっかりとホールドした。
「さあ、帰還だ」
配管の外側からパッチをゆっくりと引き上げ、ロボットにパワーを送り続けながら、入り口まで誘導する。数分後、排水口からひょっこりと顔を出したロボットの腕には、紛れもないあの指輪が握られていた。
「よかった……! ありがとう!」 指輪を抱きしめて喜ぶ妻を見て、僕はホッと胸をなでおろした。ふと、彼女が不思議そうにロボットを見つめる。
「これ、すごいね。全然熱くもならないし、あんなに小さいのに力持ちで……」
「ああ、ワイヤレス給電って技術を使ってるんだよ。中身が全部モーターとカメラに使えるから、極限まで小さく、力強くできるんだ」
すると妻が、パッと顔を輝かせた。
「え! もしかして、この前健診で使った『痛くないカプセル内視鏡』と同じ技術? あの時、先生が『外から電気を送るから、もう鼻から管を通さなくていいんですよ』って言ってたけど」
「そう、その通り。同じ技術さ」
「へぇ……! あの痛くない奴と一緒なんだ。助かるなぁ、ワイヤレス給電」
妻は指輪をはめ直し、今度は僕の仕事道具を愛おしそうに眺めた。 最新技術が、我が家の平和と、妻の笑顔を繋ぎ止めてくれた。少し高い買い物だったが、元は十分に取れたようだった。




