第六章 言葉にするということ
祠の朝は、静かだった。
鳥の声は遠く、風は弱い。
人の手が長く入っていない場所特有の、澄んだ空気がある。
レインは石段に腰を下ろし、羊皮紙を広げていた。
記録用ではない。
今日は、別の用途だ。
「まず、昨日のことを話してみてくれ」
向かいに座るルナは、少し戸惑った表情を浮かべた。
「……昨日、ですか」
「灰の監査官と対峙した時だ」
ルナは目を伏せ、記憶を辿る。
「……近づかれて、
連れて行かれると思って……
嫌だって、思いました」
「“嫌だ”だけか」
問いは淡々としている。
ルナは首を振った。
「……怖かったです。
でも、それより……戻りたくなかった」
言葉にした瞬間、
ルナ自身が、その感情に驚いたように瞬きをした。
「……あ」
「今、何を感じた」
「……胸が、少し重いです」
レインは頷き、羊皮紙に短く書き留める。
「それが、感情の輪郭だ」
ルナは首を傾げる。
「……輪郭?」
「感情は、最初は塊として出てくる。
君の場合、それが直接、世界に伝わる」
だから危険だった。
「言葉にすると、分解できる。
怖い。嫌だ。戻りたくない。
それぞれ、違う」
ルナはゆっくりと息を吐いた。
「……確かに、違います」
「今、世界はどうだ」
ルナは周囲を見回す。
風、光、地面。
「……何も、起きてません」
「それが成功だ」
制御とは、抑え込むことではない。
遅らせることだ。
午前中は、それを繰り返した。
小さな違和感。
不安。
安心。
それらを、即座に外へ流さず、
一度、言葉として掬い上げる。
だが、うまくいくことばかりではない。
昼前、ルナが水を汲みに行った時だった。
「……あ」
声が漏れた瞬間、
水面が、わずかに歪む。
揺れは小さい。
だが、確かに世界が応じた。
レインは即座に立ち上がる。
「何を感じた」
「……冷たくて……
びっくり、しました」
「それを、言葉にする前に流したな」
ルナは唇を噛んだ。
「……はい」
レインは水面を見つめる。
――同調、微弱。
――制御層、維持。
致命的ではない。
だが、油断すれば拡大する。
「失敗だが、問題ない」
レインはそう告げた。
「失敗を、記録できた」
ルナは少し意外そうな顔をする。
「……怒らないんですね」
「怒る理由がない」
制御は、訓練だ。
感情の是非を問うものではない。
「次は、気づいた瞬間に、言葉を探せ」
「……はい」
返事は、はっきりしていた。
夕方、祠の周囲に薄く霧が出始めた。
自然現象だ。
だが、ルナは足を止めた。
「……少し、嫌な感じがします」
「理由は」
「……分からないです」
レインはその場で立ち止まる。
「それでもいい。
分からない、という言葉を使え」
「……分からないけど、落ち着かない」
霧が、それ以上濃くならない。
レインは小さく頷いた。
「今のは、良い制御だ」
理由を決めつけない。
感情を、曖昧なまま留める。
それもまた、境界の一つ。
夜。
焚き火を前に、二人は向かい合って座っていた。
「……私」
ルナが、ぽつりと言う。
「今日、少しだけ……
自分が、自分に戻った気がします」
レインは視線を上げた。
「戻る、というより……
初めて、分かれた」
「……分かれた?」
「君と、世界が」
今までは、境界がなかった。
だから、常に疲れていた。
ルナは火を見つめ、ゆっくり頷く。
「……確かに、今日は……
静かです」
「それを、忘れるな」
静かであることは、弱さではない。
その夜遅く。
レインは一人、祠の外に立っていた。
空を見上げ、世界の情報を読む。
――灰の監査官、本部。
――異常反応、減衰確認。
――再評価、保留。
時間は、確かに稼げている。
だが同時に、
別の流れも、動き始めていた。
――勇者一行、作戦失敗。
――鑑定不在による判断遅延。
レインは、静かに息を吐く。
「……遅いな」
理解されるには、
いつも時間がかかる。
だが、世界はもう、
彼を無視できない位置まで、動いている。
祠の中から、
規則正しい寝息が聞こえた。
名を持ち、言葉を学び始めた存在は、
まだ眠っている。
だがその静けさこそが、
次に来る嵐の、前触れだった。




