第三章 名を持たない時間
夜明け前の空は、まだ色を決めかねていた。
黒と灰の境目で、わずかな青が滲んでいる。
森を抜けるまで、レインは休まず歩いた。
少女の歩調に合わせ、無理のない速度で進む。
完全に遮断されていた魔力循環は、部分的に再開している。
だが安定には、まだ時間が必要だ。
「……あの」
背後から、控えめな声がした。
少女は、一定の距離を保ったまま歩いている。
「何か問題があるか」
「……いえ。
ただ、どうして……助けたのか、分からなくて」
問いというより、確認に近い声音だった。
責める響きはない。
レインは少し考え、歩いたまま答える。
「理由が必要か?」
少女は一瞬、言葉に詰まった。
「……必要、ではない、です。
でも……今まで、理由のない行動を向けられたことが、なくて」
レインは足を止めた。
振り返り、少女を見る。
目は怯えていない。
だが、常に次を警戒している目だ。
「君は、理由を与えられて扱われてきた」
少女は何も言わない。
だが否定もしなかった。
「資質があるから閉じられた。
危険だから使われなかった。
価値があるから、管理された」
それは、彼女の過去を言い当てた言葉だった。
「私は、理由を付けない。
読むべき構造があった。それだけだ」
少女は視線を落とし、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……難しい、ですね」
「そうだな」
それ以上、説明はしなかった。
森を抜けると、小さな集落が見えた。
街道から外れた場所にある、交易も乏しい村だ。
レインは村の外れで足を止めた。
「今日は、ここで休む」
少女は、少し緊張した表情で村を見つめる。
「……人が、います」
「問題はない。
今の君は、遮断状態が不完全だ。
表面上は、魔力を持たない者に見える」
それを聞いて、少女はわずかに肩の力を抜いた。
宿はなかった。
代わりに、空き家になっている小屋を借りる。
屋根はある。
風も防げる。
今は、それで十分だ。
火を起こし、簡単な食事を用意する。
少女は最初、遠慮がちにパンを受け取った。
食べる動作が、ぎこちない。
だが、空腹は正直だった。
「……あたたかい」
少女は、小さくそう言った。
スープの温度ではない。
レインには、それが分かった。
「名前を、決める」
食後、レインは言った。
「……私に、ですか?」
「名がない状態は、不便だ。
呼ぶためにも、記録するためにも」
少女はしばらく考え込んだ。
「……決めても、いいんですか」
「君の名だ。
私が決める理由はない」
少女は膝の上で手を握り、長い沈黙の末に答えた。
「……ルナ。
昔、そう呼ばれたことが、一度だけあります」
「由来は?」
「……忘れました」
レインは頷いた。
「なら、それでいい」
名は、過去を縛るものではない。
今を指し示せば、それで足りる。
「ルナ」
呼ばれた瞬間、少女――ルナは、わずかに目を見開いた。
身体の奥で、何かが応じる。
――識別名、設定。
――魔力循環、安定率上昇。
世界の情報が、静かに更新される。
「……私、今……少し、楽です」
「当然だ。
構造は、名を必要とする」
ルナはその言葉の意味を、完全には理解していない。
だが、否定もしなかった。
夜が更ける。
小屋の外で、風が鳴った。
レインは扉の近くに座り、短剣を手の届く位置に置く。
ルナは反対側で、毛布に包まっている。
「……あの」
小さな声。
「ここに、いても……いいですか」
許可を求める言葉。
それ自体が、彼女の生きてきた時間を物語っていた。
「好きにすればいい」
レインはそう答えた。
命令でも、拘束でもない。
事実としての言葉。
ルナは目を閉じた。
呼吸が、少しずつ整っていく。
――魔力循環、微増。
――遮断術式、劣化開始。
レインはそれを確認し、目を伏せた。
この才能は、危険だ。
だからこそ、封じられた。
だが――
扱い方を誤らなければ、世界を壊すものではない。
小屋の外で、夜が完全に色を変える。
名を持たなかった時間は、終わった。
そして同時に、
静かな歪みが、遠くで動き始めていることを、
レインはまだ知らない。




