おいしい鍵は何個でも
例えば、人生で初めてオムライスを食べた日のこと。何時だったか思い出せますか。
はい。そうですね。
そんなこと、これから物語を読もうと考えていた人には関係のない、要らない情報です。
ではもし、オムライスの思い出が、物語上、必要になるとしたら。あなたはその時、やっと記憶の鍵を手に取ってくれるでしょうか。
今から始まるのは、そんなお話です。
◇
初めて食べたお子様ランチのオムライスの華やかなこと。それに比べて母の作る平べったいクラゲみたいなオムライスのしょぼいこと。
でも、私は親の作るオムライスが好きだ。
「あ、今日はカレー味なんだ」
「そうや。たまには味変しなと思ってな」
ただ、カレー味の素をご飯に混ぜただけなのだけど、これが美味しい。薄く張られた玉子とよく合う。どちらかと言えば、カレー風味のチャーハンのような味わいだ。
「ごちそうさま」
「流し持ってって、洗うから」
「ほいよ」
これが我が家の朝ご飯の風景だ。要はオムライス弁当のついでに私もお呼ばれしている。
オムライスは比較的調理が早く済む料理らしい。親は作り終わったら朝ご飯を食べながら私と雑談をする。
「お米高なったな〜」
「備蓄米ってどんな味なんだろね」
「分からん。でも私はメーカーもん買うわ。なくなったら嫌やもん」
どこにでもある会話だと思う。私は、そんな会話の沿線上で親のオムライスをつつきつつ『幼い頃食べたオムライスは何時だったか』という話をしてみた。
「んー、あんたが好きなチェーン店は大学なってからやし、それ以前はあんまり食べてなくない?」
「あれ、お子様ランチは食べてなかった?」
私が訊くと、親は、
「あんたさ、付け合わせのスパゲッティが嫌いで頼んだこと無いやん」
と言われた。
そう言われてみれば、そんな気もする。何となく、付け合わせのスパゲッティがチープに見えて頼めないのだ。私はケチャップベースのスパゲッティがあまり好きではない。その事をなぜか私以上に親は知っていた。
「冷凍パスタもカルボナーラばっか食べるもんな。高つくわ」
「すまんね」
という雑談が終わると、親は仕事のために家を出ていく。見送れば、一人の時間だ。一人になる時に浮かぶことのすべては良いことばかりではない。悲しいことや悔しいこと、つらいことも浮かべては、救いを見出す。
(人間ってなんだろな)
そんな事を思ってしまったらドツボだ。そんな時に、私は脳の中の思い出を取り出すための鍵を探す。
それが、オムライスだ。
◇
ショーケースに並ぶのは、スパゲッティにハンバーグ、オムライスの乗った豪華なお子様ランチ。だけど、食べた記憶が一切ない。どうしてケチャップベースのスパゲッティでないといけないのかとか、そういう事を考えていた。
次に、親の作るオムライスの味。安定して素朴な物だ。世の中にはもっと美味しく華やかな物があるだろう。
しかしこれは、ケチャップライスが良い。変に味を加えるよりも、親の配分でケチャップ・塩コショウの配分を決めてくれたほうが『安心する』のだ。
何時から、この味を好きになったか。正直、私には分からない。それくらい親のオムライスは私の記憶に根付いている。また、「また今度食べられるから」という理由で、味を忘れてしまいがちなのだ。
しかし、明日が来なかったとしたら?
突然、親が事故や災害で亡くなったら。私が先に死んでしまったら。考えることはマイナス方面へ行ってしまう。その時に限って親は仕事に出ているのだ。
オムライスは、親の出勤に合わせて作られる。一緒にオムライスを食べた記憶は、チェーン店に行った数回しかない。
とてつもない不安が、襲うのだ。
しかし。学生の私なら、弱音なんて吐いたら格好悪いと、自身の抱える不安をぶちまけることはなかった。
年月が、私を柔軟な考え方にしてくれた。弱音は、晒していこう。そんな気持ちになったのだ。
仕事帰りの親に、
「オムライス作って」
と言うと不思議そうに「何で?」と返された。親は私の心を読める力は持っていない。やはり、伝えるしかない。
「お母さんのオムライスの味、覚えときたいから」
「毎日食べてるやん」
「ええやん、作ってや」
「はいはい、ええよ」
スーパーの袋には、おそらく今日食べるつもりだったであろう、うどん玉や野菜などが入っていた。
しかし、今日はオムライスが食べたい。初心に帰った気持ちで。邪魔だろうが、親の横に立って調理姿も見ていた。
「座ってていいねんで」
「邪魔?」
「うーん……やりにくい。せめて右側は開けてて」
割られる卵。かき混ぜる音。焼く音、ヘラでひっくり返す擦れた音。その全てを経てオムライスが出来上がった。
たぶん5分もしなかったであろう。
「わー、いつものオムライスやー」
「……変な子」
たっぷりケチャップとマヨネーズをかけて、プラスチックスプーンで食べる。薄い玉子に絡むオーロラソース。水気の飛んだ固いケチャップライス。なるほど弁当に持っていきやすい。水が欲しくなる。そう、こんな味だった。
「素朴な味や」
「それ、褒めてんの?」
片付けをしながら親は私に向かって言う。食事中に本音というものは出るもので。
「……あのな。明日が来ぇへんかったらどうしようと思ったら、急にオムライス食べたなってん」
私のよくわからない日本語の意図を汲み取るのは、若干上手な親は、「ふーん」と言うとそれ以上の言及はしなかった。
ただ一言。
「私はカレーが食べたいわ」
そう言って笑うのである。
(カレー……)
そうだ。私に食べたいものがあるのなら、親にもあるはずだ。こういう当たり前な発想が出てこなかった。
いくらでも作ってやる!
覚えろよ、私が作るカレーの味を。ルーてんこ盛りだぞ。ご飯も多いぞ。スパイスの方のルー使うぞ。揚げ物も入れるぞ!
私も忘れないからな、オムライスの味を。
例え、どちらかの明日が来なくなっても、『初めて食べたオムライス』『初めて食べたカレー』の記憶は、消えない。
これらは2人で揃って食べた、謂わば記憶を共有する料理だからだ。
◇
皆様は、初めて食べたオムライスの味、思い出せたでしょうか。また、この様な不自由な日本語を最後まで読めたでしょうか。
また、薬の飲み忘れがあり、脳内が纏まらない悪い状態が出ています。しかし、今日はコロッケカレーを作りました。
出来ることをやる。それが、明日に備えることですね。皆様の記憶の鍵はどういったものか気になります。
オムライスの鍵でも、カレーの鍵でも、構いません。生きていくうえで、いろんな鍵が増えていくのでしょう。それらを一つ一つ、大事にしていきたいものです。
私の認知機能の確認のために付き合わせてしまいましたね。最後まで読んでくれてありがとうございます。
やはりおかしな文章ですよね。薬を飲んで、安静にしておきます。