腹が減っては何とか
マリアが「少し頭を冷やしてくる」と言ってキャンピングカーを出て行ってから、もう随分と時間が経っていた。外はすっかり夕暮れの色に染まっている。
「…マリア、遅いな…」
達也は、車内の小さな窓からぼんやりと外を眺めながら、心配そうに呟いた。リリアとアクアは、ノートパソコンの画面を二人で覗き込み、日本の猫動画を見て「かわいいー!」「この液体のような動き、物理法則を無視しているな…」などと盛り上がっている。
(俺のせいだよな、やっぱり…)
達也は、昼間の腕相撲の一件を思い出していた。マリアは、本気で俺の身を案じて、厳しく接してくれた。それなのに、俺は自分の力のなさに落ち込んで、まともに話も聞けなかった。彼女を怒らせてしまったんだ…。
(いや、待てよ…?)
達也の頭に、ひとつの可能性が閃いた。
(そうだ! あの時、マリア、昼飯を食べる前に騒ぎになったから、結局ほとんど何も食べてなかったんじゃないか!? )
(―――そうか! お腹が空いてたから、イライラしてたんだ! 間違いない!)
全ての辻褄が合った(と達也は思った)。マリアの厳しい言葉も、呆れたような態度も、全ては空腹のせいだったのだ! なんて単純で、分かりやすい理由だろうか!
「よし!」
全ての謎が解けた(と勘違いした)達也は、ガバッと立ち上がった。
「マリアが帰ってきたら、めちゃくちゃ美味いもんを腹いっぱい食わせて、機嫌を直してもらおう!」
その言葉に、猫動画に飽きてきたリリアとアクアが、同時にピクンと反応した。
「え! 何か作るの、タツヤちゃん!」「ふむ、食事は生命活動の基本だね!」
「ああ! マリアのご機嫌取りも兼ねて、特製のホットケーキを作ってやる!」
達也は意気揚々とキッチンに立ち、市場で買い込んだ材料を取り出し始めた。異世界の小麦粉、水牛のミルク、大きなまだら模様の卵…。
しかし、達也がボウルに材料を入れ始めた途端、背後から二つの影が忍び寄ってきた。
「わーい! ホットケーキ! 私も手伝うー!」
リリアが、達也の横からボウルに手を伸ばし、卵を掴んで握りしめた!
「タツヤちゃん、卵はこうやって、こう! エイッ!」
グシャッ!
リリアの手の中で、卵は無残にも握りつぶされ、黄身と白身と殻が彼女の手からだらだらと流れ落ちた。
「あ、あれぇ~?」
「馬鹿! 何やってんだ! 卵はそうやって割るんじゃない!」
「ふむ、この世界の鶏卵の殻の強度は、ニホン産に比べて著しく低いようだね」
アクアが、腕を組んで冷静に分析しているがリリアの力が強すぎるだけだと思う。「それに、この生地の粘度…僕の計算によれば、ここに僕の特製『超膨張性イースト菌(試作品ver.2.4)』をほんの少し加えれば、理論上、このキャンピングカーいっぱいに膨らむ、究極のふわふわホットケーキが完成するはずだ!」
アクアはそう言うと、懐からキラキラと怪しく光る粉末が入った小瓶を取り出した!
「入れるな! 絶対にそれ入れるな! また爆発するだろ!」
達也は、片手で卵まみれのリリアの手を押し返し、もう片方の手でアクアの怪しい粉末を死守するという、絶望的な二正面作戦を強いられる!
「えー、なんでー? 美味しくなるのにー!」
「混ぜて混ぜてー! 私も混ぜたいー!」
「お前ら、手伝う気がないなら見てるだけにしてろって言ってんだろ!」
達也の絶叫も虚しく、キッチンエリアはカオスと化していた。リリアが握りつぶした卵の残骸が飛び散り、アクアがこぼした怪しげな銀色の粉末が生地の一部をキラキラと輝かせている。
(もうダメだ…終わった…俺のホットケーキが…)
達也は全てを諦め、ヤケクソ気味に、その得体の知れない生地を混ぜ合わせ始めた。
しかし――。
(あれ…?)
混ぜているうちに、達也は奇妙なことに気づいた。アクアの謎の粉末が混ざった部分は、まるで生きているかのように、ふわりと、そしてきめ細かく泡立っていくのだ。生地全体が、元の世界の最高級の小麦粉で作ったかのような(知らんが)、滑らかで理想的な状態になっていく。
「…まあ、いいや。焼いてみないと分からん」
達也は半信半疑のまま、テフロン加工のフライパンを火にかけ、生地をお玉でそっと流し込んだ。
ジュワワ…という優しい音と共に、生地の表面にプツプツと綺麗な気泡が浮かび上がる。そして、信じられないことに、生地が今まで見たこともないほど、ふっくらと、ドーム状に膨らんでいく! 甘く、そしてこれまで以上に芳醇な香りが、キャンピングカーの中いっぱいに広がった。
「な、なんだこれ!?」
達也が驚きながらひっくり返すと、そこには焼きムラ一つない、完璧なきつね色の、まるで絵本に出てくるような理想的なホットケーキが姿を現した!
「おおー! タツヤちゃん、なんかいつもよりすごいやつができたんじゃない!?」
「ふむ、僕の『超膨張性イースト菌(試作品ver.2.4)』が、異世界のグルテン分子と化学反応を起こしたようだね! やはり僕は天才だ!」
リリアとアクアも、その完璧な出来栄えに目を輝かせている。
達也が次々と奇跡のホットケーキを焼き上げ、皿の上に美しいタワーを作り上げていた、その時だった。
ガチャリ、とキャンピングカーのドアが開いた。
「…戻ったぞ。何かあったのか? すごく甘くて良い匂いが外まで…」
そこには、街で情報収集でもしていたのか、少し疲れた表情のマリアが立っていた。しかし、彼女はテーブルの上に鎮座するホットケーキタワーと、その甘い香りを目にした瞬間、言葉を失った。
「マリア! おかえり! ちょうど良かった、今、究極のホットケーキができたところなんだ!」達也が、少し興奮気味に言った。
四人は、出来立てのホットケーキをそれぞれテーブルに並べた。達也が、市場で買った蜂蜜風の樹液と、おまけでもらった赤いベリーのジャム、そして通販で買ったとっておきのホイップクリームとチョコレートソースを添える。
「わーい! 豪華だー!」
「いただきます!」
リリアがまず、大きな口で頬張った。
「んんん~~~~っ!!! おいひいーーーーーっ!!! なにこれ!? 前食べたのより、もっともっとふわっふわで、口に入れた瞬間、シュワって溶けてなくなっちゃった! まるで、甘い雲を食べてるみたいだよぉ…!」
リリアは、恍惚とした表情で、幸せそうに体をくねらせている。
マリアも、恐る恐る一口、口に運んだ。そして、その目が驚きに見開かれた。
「……信じられん…。こんなに軽く、そして優しい甘さの菓子は、本当に生まれて初めてだ…。疲れた体に、この温かさと甘さが染み渡るようだ…」
普段は厳しい表情を崩さない彼女の口元が、確かに、ほんの少しだけ緩んでいる。
アクアも「うん! 計算以上の出来栄えだね! この食感と風味の多重奏は、まさに味覚のビッグバンだ!」と、よく分からない理論を展開しながらも、満足げに頷いている。
達也も、自分の作った(というか、半分はアクアの謎の粉末のおかげだが)ホットケーキを口に運び、その奇跡的な美味しさに目を見張った。
騒がしかったキャンピングカーの中は、いつしか静かになり、ただ、四人が幸せそうにホットケーキを食べる音と、時折漏れる「おいしい…」という呟きだけが響いていた。
(…まあ、たまには、こういうのも悪くないか…)
達也は、美味しそうにホットケーキを頬張る三人の顔を見ながら、ふと、そんなことを思った。




