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人間の業の深さ

(……言い過ぎたか)


リベルの街の雑踏の中を一人で歩きながら、私は胸の中で深いため息をついた。

先ほどのタツヤの、怯え、そして絶望したような顔が脳裏から離れない。


確かに、彼の動きは素人以下だった。あのままでは、このリベルの街でチンピラに絡まれただけで、命を落としかねない。傭兵として、戦場で生き抜いてきた私からすれば、彼の危機感の欠如は見ていられないほどだった。


しかし、だからといって、あんな風に怒鳴りつける必要はあっただろうか。

彼は何も悪くないのだ。突然、訳も分からない世界に、しかも不慣れな少女の体で放り込まれ、吸血鬼かもしれないという恐怖と戦い、得体の知れない連中リリアとアクアのことだに付きまとわれ、挙げ句の果てにはギルドマスターからS級モンスター討伐などという無茶な依頼まで押し付けられた。


そんな状態で、ずっと溜め込んでいたものが、あふれ出しても仕方ないだろう。 私が彼の立場だったら、とっくに発狂していたかもしれない。それなのに私は、彼の弱さだけを見て、一方的に自分の価値観を押し付けてしまった。傭兵としても、仲間としても、年長者としても失格だ。


(どうすれば、よかったというのだ…)


彼を守りたい。強くしたい。だが、私のやり方は、彼をさらに追い詰めるだけだったのかもしれない。どうすれば、あの子の心に寄り添いながら、この過酷な世界で生き抜く術を教えられるのだろうか…。


そんな後悔と自問自答を繰り返しながら、当てもなく街を歩いていた、その時だった。

前から、聞き覚えのある、そして心底聞きたくもない、下卑た声が聞こえてきた。


「よう、傭兵の姉ちゃん。一人かい? 珍しいじゃないか」


視線を上げると、そこには、数人の手下を引き連れた、あのパックル商会の三男坊――マルコが、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて立っていた。


私は即座に警戒態勢に入り、いつでも剣が抜けるように腰に手を当てる。

男は、私の警戒など意にも介さず、私の後ろをキョロキョロと見回しながら、ねっとりとした口調で言った。


「あれぇ? 例の、僕のお人形さん(達也のことだ)は一緒じゃないのかな? 今日もあの甘い菓子でも売ってるのかと思ったんだがねぇ」


その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、何かがプツリと切れた。


チッ…!


私は、思わず舌打ちをしていた。怒りの矛先は、目の前のこのドラ息子だけではない。

(ギルドマスターのあの獅子親父…! 『パックルの件は揉み消してやる』と豪語しておきながら、まだこの三男坊を野放しにしているのか! 全然仕事をしていないじゃないか! この街の治安はどうなっているんだ!)


私は、燃えるような怒りを込めた冷たい視線で、マルコを睨みつけた。

「…失せろ、豚。お前のような下衆が、タツヤの名を口にするな。汚れる」


「なっ…!」私のあまりの敵意に、マルコが一瞬怯む。


「次にタツヤの前にその醜悪な顔を晒してみろ。その時は、商業ギルドも衛兵隊も関係ない。私が、お前をその自慢の贅肉ごと、リベルの石畳から削ぎ落としてやる。覚えておけ」


「ひぃっ…!」


私の本気の殺気に、マルコと手下どもは顔面蒼白になり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。


(あの獅子親父…! 約束が違うではないか!)


私は、パックル商会の三男坊が吐き捨てていった下卑た言葉を反芻し、怒りで腸が煮え繰り返る思いだった。タツヤを「僕のお人形さん」だと? ふざけるな。あの子は、誰の所有物でもない。


私は、タツヤたちが待つキャンピングカーへは戻らず、その足で冒険者ギルドへと踵を返した。約束を反故にされたまま、黙っていることなどできなかった。


ギルドの扉を勢いよく開け、受付の制止も聞かずに、真っ直ぐにギルドマスターの部屋へと向かう。私が本気の怒りをたたえていることに気づいたのか、途中で止めようとする者は誰もいなかった。


マスター室の重い扉を、ノックもせずに開け放つ。

「ギルドマスター!」

レオニスは、執務机の上で何かの書類に目を通していたが、ゆっくりと顔を上げた。その獅子の顔には、私の怒りなど見透かしているかのような、余裕の笑みさえ浮かんでいる。


「話が違うではないか!」私は声を荒らげた。「パックル商会の三男坊の件、あなた様が対処してくださると約束したはずだ。しかし、たった今、私は街中で奴に絡まれた。タツヤのことも、侮辱的な言葉で…! いったいどういうことだ!」


私の詰問に、レオニスは動じるでもなく、ゆっくりと椅子に深くもたれかかった。そして、心底不思議だ、とでもいうような口調で言った。


「ほう…それは気の毒だったな、傭兵マリア。だが、何か勘違いをしておらんか?」

「何だと!?」

「わしが約束したのは、君たちが『特別任務』を達成した後の話だ。任務を遂行したら、その手柄とギルドの名において、君たちをあらゆる厄介事から守ってやる、という認識だったが? わしは何か間違ったことを言ったかな?」


彼は、しれっと、そして堂々とそう言い放った。明らかに、とぼけている。


「なっ…! そんな…!」私が言葉に詰まっていると、レオニスはさらに続けた。

「それにだ、マリア殿。物事には順序というものがある。君たちがS級モンスターであるクリスタル・リヴァイアサンを討伐すれば、どうなると思う? 君たちは、このリベルの街の英雄だ。ギルドからの莫大な報酬と名声、そして何よりS級冒険者という誰もが認める地位が手に入る。そうなれば、パックル商会の小僧ごときが、君たちに手出しなどできると思うかね? 問題はおのずと地位も上がって、解決するだろう。違うか?」


その理屈は、あまりにも一方的で、あまりにも狡猾だった。彼は最初から、私たちを助ける気などなく、パックル商会とのトラブルすら、我々をS級任務に向かわせるための駒の一つとして考えていたのだ。


私は、完全に言い負かされ、その場で唇を噛みしめることしかできなかった。この巨大な獅子の前では、私の剣も、言葉も、何の意味もなさない。


レオニスは、私のそんな様子を見ると、満足げに頷き、そして興味を失ったように、再び手元の書類に視線を落とした。

「わしは多忙でな。不満があるなら、ぐだぐだ言わずに、さっさとあのトカゲを倒して、英雄になってから文句を言いに来ることだ」

彼は、私を完全にあしらうと、追い払うように手をひらひらと振った。

「もう下がっていいぞ」


私は、屈辱と、自分の無力さへの怒りで拳を握りしめた。そして、何も言わずに踵を返し、ギルドマスター室を後にした。

やはり、この街で頼れるのは、自分たちの力だけだ。そして、あの規格外の仲間たちだけなのだと、改めて思い知らされた。


(…結局、何もできなかった)


ギルドマスター室を追い出された私は、怒りよりも深い無力感に苛まれながら、当てもなくリベルの街をとぼとぼと歩いていた。夕暮れのオレンジ色の光が、石畳の道を長く照らし、行き交う人々の喧騒も、今の私にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


ギルドマスター、レオニス。あの獅子の男は、全て分かっていた。タツヤの特異性も、私たちが抱える問題も、全てを理解した上で、私たちを自分の駒として使うために、S級クエストという名の首輪をつけたのだ。パックル商会の件も、彼が本気で動けばすぐにでも解決できるはずなのに、それをしない。我々を追い詰めるための、ただの餌として。


(タツヤを…あの子たちを、どうすれば守れる…?)


考えがまとまらないまま、薄暗い路地に差し掛かった時だった。

「あら、マリアちゃんじゃない。そんなに難しい顔をして、どうしたのかしら?」


聞き覚えのある、しっとりとした声。ハッと顔を上げると、そこには、高級そうな仕立て屋の軒先で煙管をふかしながら、帳のオルガが立っていた。彼女は、私の内心を見透かすような、妖艶な笑みを浮かべている。


「オルガ…殿…」


「ちょうど良かったわ。あなたたちに報告しようと思っていたところよ」

彼女は私のそばに歩み寄ると、甘い香りの煙をふぅっと吐き出した。

「例の、パックル商会のドラ息子の件なんだけど…本当にあとちょっとで、二度とあなたたちに近づけないように、社会的にも物理的にも、綺麗にお掃除して差し上げるところだったのだけれど…」


オルガはそこで言葉を切り、心底残念そうな顔を作って見せる。

「…どういうわけか、ギルドの上の方から、妙な『圧力』がかかったのよね。『その件には手を出すな』って。おかしいわよねぇ?」


「……!」私は息をのんだ。やはり、レオニスの仕業か。


「なんでかしら?」オルガは、私の反応を楽しんでいるかのように、小首を傾げた。「まるで、誰かさんが、あのドラ息子という『障害』をわざと残しておいて、あなたたちを追い詰めたいみたいじゃない? 私の可愛い、可愛いタツヤちゃんが、可哀想じゃない。あんな豚に付きまとわれるなんて…本当に許せないわ」


その口調は達也を心から心配しているようだが、その瞳の奥は、この状況そのものを楽しんでいるように見えた。


レオニスに、オルガ。この街の権力者たちが、まるで盤上の駒のように、私たちを弄んでいる。正攻法も、裏からの手も、全てが彼らの掌の上だ。


(…ああ、そうか)


私は、もう怒りさえ湧いてこなかった。ただ、深い、深い諦観が胸に広がるだけだ。


私は、ゆっくりと空を見上げた。夕焼けの最後の光が消え、一番星が瞬き始めている。美しい、自由都市リベルの夜空。だが、その下で蠢く、どうしようもない人間の業の深さに、私は吐き気を覚えた。


「…………この街、終わってるな」


私の口からこぼれたのは、誰に言うでもない、魂からの呟きだった。



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― 新着の感想 ―
いつも楽しく読ませて貰ってます\(^o^)/ しかし、タツヤちゃんかわいいね。
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