マリアの思い
どれくらい眠っていただろうか。達也は、キャンピングカーの小さな窓から差し込む、柔らかな朝日で目を覚ました。昨夜、オルガさんの一件で完全に心が折れ、「もう知らない!」とベッドに突っ伏してからの記憶がない。どうやら、本当にそのまま寝てしまったらしい。
(……最悪な一日だったな……)
達也は重い体を起こしながら、深いため息をついた。隣を見ると、リリアが達也の腕を枕代わりにし、幸せそうな顔でまだすやすやと寝息を立てている。バンクベッドからはマリアの静かな寝息が、そして床に敷いた寝袋(いつの間に用意したんだ?)からはアクアの「…僕のピザ…ザザ…」という寝言が聞こえてくる。
(…こいつら、呑気なもんだな…)
呆れつつも、その無防備な寝顔に、ほんの少しだけ心が和む。
「……腹、減ったな……」
ふと、自分の腹の虫が鳴ったことに気づく。昨夜は結局、何も食べていなかった。達也は三人を起こさないようにそっとベッドを抜け出すと、運転席に座り、ノートパソコンを開いた。手持ちの食料はまだあるが、何かこう、気分が上がるようなものが食べたかった。
彼は、現実逃避も兼ねて、お気に入りの通販サイトを開き、食品カテゴリをぼんやりと眺め始めた。高級スイーツ、ご当地グルメ、珍しいお菓子…。元の世界の美味しそうな写真を見ているだけで、少しだけ気分が紛れる。
「あ、これ美味そうだな…『魅惑のザッハトルテ』…でも高いな…こっちの『プレミアム生クリーム大福』も…」
そんな風に、買えもしない高級スイーツを眺めていた、その時だった。
おすすめ商品の欄に、見覚えのある名前が目に飛び込んできたのだ。
【白銀の国の皇室御用達ショコラ『聖女オルガの涙』限定入荷!】
「……オルガ…?」
達也は、その名前にハッとした。昨日、リリアとマリアが話していた、リベルの裏社会を牛耳るという顔役。パックル商会のドラ息子問題も、彼女に頼れば解決するかもしれないと言っていた、あの「帳のオルガ」。
(そうだ…!)
達也の頭の中で、点と点が一気に繋がった!
(なんで忘れてたんだ! 俺たちには、まだ『オルガ』っていう切り札があったじゃないか! あの人なら、パックル商会のことも、もしかしたら俺が追われてるかもしれない件も、なんとかしてくれるかもしれない…!)
もちろん、とてつもないリスクが伴うだろう。アクアが言っていたように、自分の能力に興味を持たれ、もっと厄介なことになる可能性だってある。
(でも…!)
このまま何もせずに怯えているより、ずっといい! やれることがあるなら、それに賭けてみるべきだ!
「…ふふっ」
達也は、久しぶりに心の底から湧き上がってくる希望に、思わず笑みがこぼれた。まだ寝ている三人を起こさないように、声は出さずに、しかし全力でガッツポーズを決める!
(よし! やってやる!)
気分は一気に晴れやかになった。計画が固まれば、あとは行動するだけだ。
「そうだ、その前に…」
達也は、寝起きのボサボサ頭を掻いた。
「シャワー浴びて、頭も体もスッキリさせないとだな!」
彼は、新しい決意を胸に、タオルと着替えを掴むと、三人(特にリリアとアクア)を起こさないよう、抜き足差し足、音を立てずにキャンピングカーの外へと向かう。
朝日に照らされたリベルの街を眺めながら、達也は「よし!」と小さく気合を入れた。昨日までの落ち込んでいた自分が嘘のように、その瞳には、未来への確かな光が宿っていた。
「よし、やるぞ!」
新たな決意を胸に、達也はまず、キャンピングカーの外部シャワーの準備を始めた。FFヒーターの温水機能で温かいお湯を出し、人目がないことを確認して、手早く服を脱ぐ。
ひんやりとした朝の空気と、温かいシャワーの湯気。その心地よさに、達也は「ふぅー…」と息をつき、頭からお湯をかぶった。この瞬間だけは、異世界の面倒事を忘れられる気がした。
しかし、その静寂は長くは続かない。
「おー、タツヤくーん! 起きてたんだー!」
キャンピングカーのドアが勢いよく開き、アクアがひょっこりと顔を出した。寝癖のついた青いツインテールがぴょこぴょこと揺れている。彼女はシャワーを浴びる達也の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。
「わー! タツヤくん、元気が出たんだね! よかったよかった! やっぱり僕の言った通り、ぐっすり眠るのが一番の薬だね! これで僕の研究も先に進められるよ!」
アクアは、達也が元気になったことを、自分の手柄のように、そして今後の研究の目途が立ったことへの喜びとして、彼女なりに無邪気にはしゃいでいる。
「僕も、昨日の汚れを落としておかないと、精密な作業に支障が出るからな。合理的判断として、僕もシャワーを浴びるべきだね!」
「は!? お、おい、待て!」
達也が制止の声を上げる間もなく、アクアは「というわけで、お邪魔しまーす!」と、何の躊躇もなく、服を着たままの状態で、達也が浴びているシャワーのすぐ隣にやってきた! そして、その場で自分の服を脱ぎ始めたのだ!
「ちょっ…! おい! アクア! デジャヴだ! この展開はリリアで見たばっかりなんだよ! お前もか! ここで脱ぐな!」
達也は顔を真っ赤にして叫ぶが、アクアは「えー? だって、ここで脱いだ方が効率的じゃないか」と、全く意に介さない。
達也は、目の前で繰り広げられる(またしても)信じられない光景に、頭を抱えたくなった。昨日リリアにされたことと全く同じだ。いや、リリアの場合はまだ「からかっている」という意図が読めたが、アクアの場合は、純粋な好奇心と、恐ろしいほどの合理性だけで動いている。それが余計にタチが悪い。
(もう…ダメだ……こいつらに、俺のいた世界の常識や羞恥心を求めるだけ無駄なんだ……)
達也の中で、何かがプツリと切れた。抵抗する気力も、ツッコむ気力も、もはや残っていない。
彼は、深すぎる、それはもうマリアナ海溝よりも深いのではないかというほどの溜息をつくと、隣でまさに生まれたままの姿になろうとしているアクアに向かって、完全に諦めきった、乾いた声で言った。
「……はぁ……もう、好きにしろ……。お前も、浴びとけ……」
「え! いいの!? やったー!」
達也の許可(という名の諦め)が出たことで、アクアは満面の笑みを浮かべ、完全に裸になると、きゃっきゃっと言いながら達也の隣でシャワーを浴び始めた。
「うわー! やっぱりこのシャワーすごいね! 温かい! お湯の勢いも丁度いい! 」
「ねえタツヤちゃん! 今度これの設計図、僕に見せてよ!」
隣で無邪気にはしゃぎながら、時折背中や腕が触れてくるアクアの存在を感じながら、達也はもはや顔を赤くするでもなく、ただただ遠い目をして、無心で自分の体を洗い続けるのだった。
(俺の異世界生活…これからどうなっちまうんだ……)
その悟りを開いたかのような達也の横顔を、キャンピングカーの窓からこっそり覗いていたリリアとマリアが、それぞれ(あら、タツヤちゃん、ちょっと大人になった?)(…タツヤ、強く生きろ…)と、複雑な表情で見守っていたとか、いないとか。
全員がようやくさっぱりとした服に着替えた頃には、空はすっかり高くなっていた。達也は、主に精神的な疲労でぐったりとしていた。
そんな達也の様子を、マリアが腕を組んで、じっと厳しい目で見つめていた。
「タツヤ」
「…なんだよ」
「君のその不思議な力…アイテムボックスや、怪力は確かにすごい。だが、君自身の体が、あまりにも非力すぎる」マリアはきっぱりと言い放った。「このリベルは危険な街だ。私やリリアが常にそばにいられるとは限らん。いざという時、自分の身くらいは自分で守れなければ話にならん。少し、体の動かし方の基本を教える。ついてこい」
「ええー…またかよぉ…。俺、運動は本当に苦手なんだって…」
達也はげんなりしたが、マリアの有無を言わせぬ真剣な眼差しに、逆らうことはできなかった。リリアとアクアは、「お、スパルタ教室だー!」「ふむ、貴重な戦闘データが取れそうだね」と、面白半分で遠巻きに見ている。
広場の中央で、マリアはまず手本を見せた。
「いいか、まずは足運びだ。敵の攻撃を避けるための、全ての基本になる」
マリアは、すっ、すっ、と流れるような、しかし安定したステップを踏んでみせる。
「ほら、やってみろ」
「う、うん…」
達也はマリアの動きを真似しようとするが、足がもつれて、数歩で「うわっ!」と情けない声を上げて転びそうになる。
「違う! 腰を落とせ! 重心が浮ついている!」
マリアに姿勢を直されるが、今度は膝がプルプルと震えて、全く安定しない。
「次は、ナイフの持ち方だ」マリアは小さな訓練用のナイフを達也に渡す。「こう構えろ。最低限、相手を牽制できなければ…」
しかし、達也が握るナイフは、まるで子供がおもちゃの剣を持っているかのように頼りなく、構えも腰が引けていて、全く様になっていない。
「違う!」「そうではない!」「もっと脇を締めろ!」
マリアは何度も、何度も、根気よく教えようとした。しかし、達也はことごとく、その期待を裏切り続けた。ステップはもつれ、構えはふらつき、ナイフは今にも落としそうだ。
そして、ついに。
「―――タツヤッッッ!!!!」
マリアの堪忍袋の緒が、音を立ててブチ切れた。彼女のこめかみには、くっきりと青筋が浮かんでおり、その目は本気の怒りで燃えている!
「ふざけているのか、君はッ! その構えは何だ! その重心は! その気の抜けた目はなんだ! そんなことでは、リベルのチンピラに絡まれただけで、一瞬で心臓を抉られて殺されるぞ!」
「ひっ!?」達也は、マリアのあまりの剣幕に、カエルのように喉を鳴らした。
「私やリリアが、四六時中君のそばにいられるとでも思っているのか!? 甘えるな! いいか、この世界で非力な者は、ただ食い物にされるだけだ! 君のその不思議な力も、使う前に殺されてしまえば何の意味もない! そんなことでは死ぬぞ! 本気でな! 分かっているのか!?」
マリアの本気の怒声が、静かな広場に響き渡る。それは、達也の不甲斐なさに対する怒りであると同時に、彼の身を本気で案じているからこその、魂からの叫びだった。
「ご、ごめんなさ……」達也は完全に萎縮してしまい、涙目で謝ることしかできない。
遠くでは、リリアが「うわー、マリアさん、本気でキレてる…」と少し顔を引きつらせ、アクアは「ふむ、恐怖による指導は、対象の自律神経に過度なストレスを与え、学習効率を著しく低下させるというデータが…」と、相変わらずズレた分析をしていた。
マリアは、ぜえぜえと肩で息をしながら、頭を抱えた。
「はぁ……はぁ……すまない、少し、頭を冷やしてくる……」
彼女はそう言うと、一人で町の方へと歩いて行ってしまった。
残されたのは、本気で怒られてシュンとなっている達也と、どう声をかけていいか分からずオロオロしているリリア、そして全く空気を読んでいないアクアの三人だった。




