げんこつ
達也が目を覚ました時、バンクベッドの小さな窓から、リベルの街の朝の光が差し込んでいた。下のダイネットベッドでは、リリアがマリアに抱きつくような形で、まだすやすやと穏やかな寝息を立てている。アクアも、どこかの隅で丸くなって眠っているようだ。
(…まだみんな、寝てるな…)
達也は、三人(特にリリアとアクア)を起こさないように、音を立てずにバンクベッドからそっと抜け出す。そして、運転席の足元に置いてあった自分のノートパソコンを回収すると、再びバンクベッドの自分だけの空間に潜り込んだ。そこは、誰にも邪魔されない、達也にとっての唯一の聖域だった。
イヤホンを耳につけ、ノートパソコンを開く。エンジンは切ってあるので、当然インターネットには繋がらない。達也は、気分転換に、元の世界から持ってきた(ダウンロードしておいた)お気に入りの日常系学園ラブコメアニメのフォルダを開き、再生ボタンをクリックした。
画面の中に、見慣れた日本の高校の教室が映し出され、制服姿のキャラクターたちが、他愛もないことで笑ったり、怒ったり、恋に悩んだりしている。平和で、キラキラしていて、そしてありふれた日常の風景。
達也は、バンクベッドの薄暗い空間で、ノートパソコンの小さな画面を、食い入るように見つめた。
キャラクターたちの軽快なやり取り、背景に映るコンビニや自動販売機、電車の走る音…。その全てが、今の達也にとっては、もう二度と戻れない、遠い故郷の景色だった。
(…いいなぁ、平和で。こんなことで悩んだり、笑ったりできるんだもんな、俺のいた世界は…)
自分の置かれた過酷な現実とのギャップに、胸がチクリと痛む。TS転生、吸血鬼(疑惑)、命の危険、そして厄介な仲間たち…。アニメの中の主人公の悩み(テストの点数が悪い、好きな子と上手く話せない、など)が、ひどく贅沢なものに思えた。
彼は、枕元に置いておいた水のボトルを飲みながら、ただ黙々と画面の中の世界に没頭した。それは、辛い現実からの一時的な逃避であり、失ってしまった日常への、ささやかな里帰りでもあった。
彼はノートパソコンの小さな画面に没頭し、元の世界のアニメの世界に浸っていた。イヤホンから流れる、ありふれた学園ラブコメのBGMとキャラクターたちの声。それは、今の彼にとって何よりの精神安定剤だった。
物語がクライマックスに近づき、達也の集中力は極限まで高まっていた。主人公とヒロインの甘酸っぱいやり取りに、思わず頬が緩む。
(…いいなぁ、こういうの。平和だよなぁ…)
そして、感動の(?)最終回が終わり、軽快なギターリフと共に、アップテンポでキャッチーなオープニングテーマが再び流れ始めた。達也は、その曲が好きで、エンディングの後もつい聞き入ってしまっていた。
しかし、集中するあまり、彼は気づいていなかった。寝返りを打った際に、片方のイヤホンが耳から外れかけていたことに。そして、その隙間から、異世界には存在しないはずの、電子音とハイトーンボイスが織りなすアニソンが、静かなキャンピングカーの車内へと漏れ出していたことに…。
最初はかすかな音漏れだった。しかし、曲がサビに差し掛かるにつれて、その音量はどんどん大きくなっていく!
(…いいなぁ、こういうの。俺も、普通の高校生活ってやつを、もう一度…いや、この体じゃ無理か…)
そんな風に、少しだけ感傷的な気分で画面に見入っていた、その時だった。
「……タツヤ。もう起きていたのか」
すぐ下のダイネットベッドから、不意にマリアの静かな声がした。どうやら、彼女が先に目を覚ましたらしい。
「うわっ!!」
アニメに完全に集中していた達也は、突然の呼びかけに、心臓が口から飛び出しそうになるほど驚いた! ビクッ!と、体を盛大に震わせてしまう。
その勢いで、ノートパソコンに差し込んでいたイヤホンのプラグが、スポンッ!と音を立てて抜けてしまった!
次の瞬間―――
♪~~~ッッ!! キミと巡り会えた奇跡がッ! 胸の奥でインフレーション! ドキドキ止まらない、これが『恋』!? なんてねっ! フワフワ!Fu! Fu! ~♪
今までイヤホンの中だけで鳴っていた、キャッチーでアップテンポなアニソンが、ノートパソコンの内蔵スピーカーから、車内全体に、けたたましい大音量で鳴り響いた!
「んみゅっ!?」
「な、なんだぁ!? 襲撃か!?」
その轟音に、まだ眠っていたリリアとアクアも、叩き起こされるようにして飛び起きた!
「な、なんだこのけたたましい歌は!?」「何事だ!? 敵襲!?」
リリアとマリアはパニックになり、それぞれベッドから飛び出して身構える!
「うわっ! しまった! やべえ!」
達也は、自分のしでかしたことに顔面蒼白になり、慌ててパソコンを閉じようとするが、パニックで手が滑り、マウスカーソルがあらぬ方向へ飛んでいく!
「だ、大丈夫だって! これは敵の魔術じゃない! 俺の故郷の音楽だ!」達也が叫ぶ!
「おんがく!? こんなに騒々しいのが!?」マリアが剣の柄に手をかけたまま叫び返す。
「へえー! これがタツヤちゃんの故郷の音楽!? なんだかテンション上がるね! いいじゃんこれ!」リリアは、状況を理解したのか、急にノリノリで体を揺らし始めた。
「ふむ…この複雑な和音構成と、BPM180を超える高速な四つ打ちのビートパターン…極めて中毒性の高い音響兵器だな…! 解析の必要がある!」アクアは、いつの間にか取り出した機械で、スピーカーから流れる音の波形を分析し始めている。
「早く止めろ、タツヤ」
「えー、もっと聞きたいー!」
達也がなんとかノートパソコンを閉じ、けたたましいアニソンが止むと、車内には一瞬、気まずい静寂が訪れた。マリアはこめかみを押さえ、リリアは「えー、もう終わりー?」と不満そうだ。
しかし、その静寂を破ったのは、これまでで最も厄介な人物だった。
「ねえ! タツヤくん!」
アクアが、目を爛々と輝かせ、まるで世紀の大発見でもしたかのように、達也の持つノートパソコンを指さした!
「それって、もしかして僕の前の世界にあった『パーソナル・コンピューター』、通称『パソコン』じゃないか!? その薄さ、その筐体デザイン…間違いない! しかも、さっきの『音楽』の再生方式…あれはデジタル音源の圧縮データだ! すごい! すごいよ! よくこんな精密機械を、次元転移の衝撃から守り抜いたね!」
彼女は一人で興奮し、専門用語を並べ立てている。
そして、ハッとしたように達也に詰め寄った。
「で、でも、一番の問題はそこじゃない! ねえ、そのパソコン、まさか『インターネット』に繋がったりはしないよね!?」
その声には、強烈な期待が込められていた。
達也が答える前に、アクアは自分の苦労を一方的に、そして超早口で語り始めた。
「僕はね! こっちの世界の材料で、なんとか演算処理装置(CPUもどき)や記憶媒体を組み上げて、パソコンみたいなものは作れたんだ! でもね! どうしても物理法則の壁なのか、エーテルの量子干渉なのか、元の世界の巨大な情報サーバー群との安定した接続…つまり『ネット』の構築だけは、どうしてもできなくて、すっごくすっごく大変だったんだよねー! だから、ずっとオフラインで、僕の天才的な頭脳の中にある知識だけで研究するしかなくてさー!」
アクアのあまりの勢いに、達也は若干引き気味になりながらも、正直に答えた。
「あ、ああ…なぜか知らんが、この車のエンジンをかけると、ネットは繋がるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、アクアの目が、カッ!!!と見開かれた!
「―――ホントかい!?!? ホントのホントに!? あの広大無辺、知識の海! 我らが故郷の叡智の結晶! インターネット・ユニバースにアクセスできるっていうのかい!?」
アクアはもはや狂喜乱舞だ。
「これは…これはすごいぞ! 天才である僕の頭脳と、君のそのネット接続があれば、僕の能力を最大限に、いや、5億パーセント活かせるじゃないか! 新しい発明品の設計図も! 論文データベースも! 化学式も! 物理法則の再計算も! そして何より、徹夜のお供の可愛い猫動画も、なんでもできる!」
「今すぐエンジンをかけてくれ! さあ、早く! プリーズ! ヘルプミー! 試したい理論が、僕の頭の中で大爆発してるんだ!」
アクアは興奮のあまり、意味不明な英語まで交えながら、達也にまくし立てた。
しかし、達也は(こいつにネットを使わせたら、それこそ何を始めるか分かったもんじゃない…)と、最大限の警戒心を発動させていた。そして何より、腹が減っていた。
「いや、その前に朝ごはん作るから。それが終わってからでもいいか?」
「やだやだやだーっ! 今すぐ! 今すぐじゃないとやだーっ! 僕の研究心と好奇心が、臨界点を超えて核爆発しちゃうーっ!」
アクアはついに、子供のように駄々をこね始め、達也の足元にぎゅーっと抱きついてきた。
その、あまりにもわがままで、人の話を聞かない態度に、達也の中で何かが静かに、しかし確実に、ブチ切れた。
達也は無言で、抱きついてくるアクアの青い揺れる頭を見下ろし、そして、
ゴツンッ!!!
「いひゃいっ!?」
あまりにも見事な、一分の隙もないげんこつが、アクアの脳天にクリーンヒットした。
アクアは変な悲鳴を上げ、頭を押さえてその場にうずくまる。
「な、何するんだよタツヤちゃん! 天才の頭脳が、ただの脳みそになっちゃうじゃないか!」
涙目で抗議するアクアに、達也は冷たく言い放った。
「うるさい。飯が先だ」
マリアは「…はぁ」と深すぎるため息をつき、リリアは「あはははは! アクアちゃん、殴られてやんのー! いい気味ー!」と、腹を抱えて大爆笑している。
こうして、アクアの暴走は、達也の物理的なツッコミによって、一旦は鎮圧されたのだった。




