ホットケーキ一本
「う……ん……頭が……割れる……」
最初に意識を取り戻したのは、達也だった。重い頭痛と、口の中に残る形容しがたい不快感。ゆっくりと目を開けると、そこはキャンピングカーの中だった。
(そうだ…俺、あの黒い物体を…)
体を起こすと、隣にはまだリリアとマリアが、まるで壮絶な戦いの後に力尽きた勇士のように、美しい顔を苦悶に歪ませたまま気絶して転がっていた。そして、その傍らには、元凶である**黒い三角形の物体X――通称「暗黒おにぎり」**が、数個、不気味な存在感を放って鎮座している。
あの宇宙的なまずさが、鮮明に蘇る。
達也は、怒りと、後悔と、そしてもはや笑うしかないような脱力感に襲われた。彼はよろよろと立ち上がると、その黒い物体の一つを掴み、近くの茂みに向かって、ありったけの力で(それでも少女の力だが)投げ捨てた!
「こんなモン、二度と作るかぁぁぁっ!! いや、そもそも食いもんじゃねえだろ、これはぁぁぁっ!! バカヤローーー!!」
達也の、魂からの絶叫が、誰もいないはずの広場に虚しく響き渡った。
「んん……」「うう……今の、何の音…?」
達也のその大声(と、何かが茂みに叩きつけられる鈍い音)で、ようやくリリアとマリアも、うめき声を上げながら目を覚ました。二人はまだ混乱した様子で頭を押さえている。
「……タツヤちゃん……今の、あなたの叫び声……? それに、私……なんで寝てたの……? あ、頭がガンガンする……。…! そうだわ! あの黒いおにぎり! あれを食べた途端に、目の前が真っ暗に…!」
リリアは全てを思い出したのか、顔面蒼白になって達也を睨みつけた。
「……タツヤ……貴様……」マリアも、普段の冷静さはどこへやら、青筋を立て、低い声で呻くように言った。「私たちに……一体、何を食わせたというのだ…? あれは…あれは、もはや毒物だぞ…! 一歩間違えれば、本当に命に関わるところだった……!」
「そうだよ! あれ、口に入れた瞬間、私の吸血鬼としての長い長い人生(推定数百年)が、走馬灯のようにぐるぐると駆け巡ったんだからね! ほぼ殺人未遂だよ、あれは! テロ行為だよ!」リリアも涙目で抗議する。
「料理の腕は天才的かと思えば、時々こういうとんでもない破壊兵器を作り出すんだから、油断も隙もないわ!」マリアが額を押さえて天を仰ぐ。
二人からの、当然すぎる、しかし迫力満点の怒りの言葉の集中砲火を浴び、達也はひたすら土下座せんばかりの勢いで平謝りするしかなかった。
「ご、ごめん! 本当にごめんなさい! まさかあんな、人類の味覚を根底から覆すような破壊力を持った物体だとは、俺にも予想できなくて…! もう二度と変なものは作らないから! 本当に許してください!」
しばらくの間、三人の間で(主に達也が一方的に責められる形で)ギャーギャーと騒がしい言い争いが続いたが、やがて全員が疲れ果て、ようやく落ち着きを取り戻した。空は既に夕焼け色に染まり始めている。
達也は深々と頭を下げ、改めて提案した。
「……というわけで、キッチンカーのメニューは、当面、絶対に美味しいことが保証されていて、かつ安全なで行こうと思う…。異世界の食材を使った、新しい創作おにぎりとかは、絶対にやらない。…異論は、ないよな…?」
リリアとマリアは、まだ少し顔を引きつらせ、黒いおにぎりのトラウマを思い出しているようだったが、「……まあ、あのホットケーキなら、文句はないけど…」「……くれぐれも、二度と、あの黒い物体は我々の前に出さないでくれよ…」と、渋々(しかし、ホットケーキの美味しさを思い出して少しだけ機嫌を直しつつ)同意した。
その日は、例の「暗黒おにぎり事件」の衝撃が大きすぎて、結局それ以上何も建設的なことはできずに終わった。三人は(少しだけ気まずい雰囲気と、胃の不快感を抱えつつも)キャンピングカーの中で一晩を過ごし、次の日の朝を迎えるのだった。
「よし、今日は絶対に失敗しないぞ…!」
昨日の「暗黒おにぎり事件」のトラウマを胸に(そして胃に)、達也は固く誓ってキッチンカー計画の準備を始めた。メニューは、昨日大成功を収めた(そして三人ともトラウマを負わなかった)ホットケーキ一本に絞る。
達也は異世界通販で、頑丈な折り畳み式の長テーブルを二つ、キャンピングカーの外部電源ソケットから電気を取るための長い延長ケーブル、そして看板代わりの小さな黒板とチョークを購入した。
リベルの街の外れ、昨日おにぎりの惨劇が起こった(そして今は綺麗に片付けた)広場に、再びキャンピングカーをアイテムボックスから出現させる。
「さあ、開店準備だ!」
達也の号令一下(?)、三人は手際よく(?)準備を始める。テーブルをL字型に配置し、その上にIHコンロ、調理器具(新調したフライパン、ボウル、泡だて器など)、そして市場で買い込んできた異世界の小麦粉、鶏の大きな卵、水牛の濃厚ミルクといった材料を並べていく。延長ケーブルを使って、キャンピングカーからポータブル冷蔵庫(これも通販品)の電源も確保した。これで冷たい飲み物も出せるかもしれない。
「おおー! なんか本当にお店っぽくなってきたじゃない!」リリアは目を輝かせ、看板代わりの黒板に、達也に教えられた(まだ拙い)異世界の文字で「特製ふわふわパンケーキ! 甘い蜜と果実ソース添え!」と書き、達也がその横に可愛らしいホットケーキの絵を描いた。
マリアは、用心棒として周囲を警戒しつつも、達也の指示で重い水のタンクを運んだり、テーブルを運んだりといった力仕事を手伝ってくれている。
そして、いよいよ調理開始だ。
達也は昨日の成功体験を元に、自信を持ってホットケーキの生地を作り始めた。異世界の材料の特性も少し掴めてきた。丁寧に混ぜ合わされた生地からは、バニラの甘い香りがふわりと漂い、それだけで道行く人の足を止めさせる力があるようだ。
熱したフライパンに生地を流し込むと、ジュワ…という心地よい音と共に、生地がみるみるうちに膨らんでいく。表面にプツプツと気泡が現れ、香ばしい匂いが広場全体に広がり始めた。ひっくり返せば、完璧なきつね色。達也は次から次へと美しいホットケーキを焼き上げ、あっという間に温かいホットケーキの小さな山ができた。
トッピングには、昨日も使った蜂蜜風の樹液と、市場で見つけた真っ赤で甘酸っぱい「太陽の実」という果物を煮詰めて作った自家製ソース。そして、達也の隠し玉、通販で手に入れた缶入りのホイップクリーム!
「さあ、開店だ!」
達也が宣言すると、まず最初にやってきたのは、甘い匂いに誘われた近所の子供たちだった。
「わー! 何これ、すごくいい匂い!」「お姉ちゃん(達也のことだ)、これなあに?」
「これはホットケーキだよ。甘くてふわふわで、とっても美味しいんだ。一枚銅貨8枚だけど、どうかな?」達也はとびきりの笑顔で応対する。
子供たちは目をキラキラさせ、なけなしの銅貨を握りしめてホットケーキを買っていく。そして、その場で一口食べた瞬間、「おいしー!」「ふわっふわー!」「こんなの初めて食べたー!」と、歓声を上げた。その屈託のない笑顔と喜びの声が、何よりの宣伝になった。
子供たちの噂を聞きつけ、徐々に他の人々も集まり始めた。通りすがりの主婦、若いカップル、仕事を終えた職人、遠くから来た旅人…。誰もが、焼き立てのホットケーキの見た目の美しさと、芳醇な甘い香りに足を止め、興味津々な顔で列を作り始める。
「これは美味い! まるで雲でも食べてるみたいだ!」
「この赤い実のソース、甘酸っぱくて癖になるわね!」
「うちの子供たちにも食べさせてやりたい!」
買っていった客が口々に絶賛し、リピーターになる者や、友人を連れてくる者も現れ、達也の小さな露店の前には、あっという間に途切れることのない行列ができてしまった。
達也は、次から次へと入る注文に、嬉しい悲鳴を上げながらも、必死にホットケーキを焼き続ける。リリアは持ち前の明るさとコミュ力(?)で「さあさあ、リベルで一番美味しいお菓子だよー! 食べなきゃ損損!」と、完璧な呼び込みをこなし、マリアは黙々と、しかし確実に用心棒としての役目を果たしつつ、時折達也の調理(皿洗いや材料の補充など)を手伝っている。三人の連携は、まだぎこちないながらも、確かなものになりつつあった。
そんな大盛況の最中だった。
「むっ! 何やら美味そうな匂いがするな…! そしてこの人だかりは一体!?」
人垣をかき分けて現れたのは、昨日とは違う、少し若い、そして明らかに食いしん坊そうな顔つきのリベルの都市衛兵二人組だった。彼らは巡回中に、この甘い香りと人だかりに気づいてやってきたらしい。
一人の衛兵が、行列の先頭で達也が焼いているホットケーキを見て、ゴクリと喉を鳴らした。
「…お、おい、あれは何だ? なんだかものすごく美味そうじゃないか…」
「こら、今は巡回中だぞ! 買い食いなど…」もう一人の真面目そうな衛兵が窘めるが、彼自身もホットケーキから目が離せないでいる。
結局、食いしん坊そうな衛兵は、同僚の制止も聞かず、フラフラと列に並び始めた。そして、自分の番になると、目を輝かせながら「こ、これを一つくれ! 」とホットケーキを注文。
達也が焼き立てのホットケーキに特製蜜とベリーソースをたっぷりとかけて手渡すと、衛兵はそれを受け取り、その場で大きな口を開けてかぶりついた!
「うおおおおおっ!!! これは……!! なんという至福の味わいかっ!! 巡回中だというのに、こんな美味いものを食べてしまって、私は…私は、リベルの民に顔向けできるのだろうか!? いや、できる! 断じてできる! これを食べずしてリベルの平和は守れん!!」
彼は、完全に仕事をサボり、恍惚とした表情でホットケーキに夢中になってしまった。もう一人の真面目そうな衛兵も、結局その誘惑には勝てず、恐る恐るホットケーキを注文し、一口食べた途端に「……うまい……」と呟いて、同じく夢中になって食べ始めた。
達也は(リベルの衛兵、これでいいのか…?)と内心でツッコミを入れつつも、商売繁盛に満面の笑みを浮かべていた。リリアは「衛兵さんもお客さんだもーん! 特別大サービスしちゃうよー!」とホイップクリームをサービスし、マリアは「…リベルの衛兵は、食い意地が張っているのが多い、という噂は本当だったようだな…」と、呆れながらもどこか可笑しそうにその光景を見守っていた。
異世界初の(?)キッチンカー計画は、こうしてリベルの街で、甘い香りと人々の笑顔、そして職務放棄(?)の衛兵たちと共に、大成功のスタートを切ったのだった。