カツ丼
マリアの右手は剣の柄にかかり、リリアもまた、フードの下で赤い瞳を妖しく光らせ、いつでも飛びかかれそうな気配を漂わせている。二人の間に挟まれた達也の頭の中では、警報がけたたましく鳴り響いていた。
(やばいやばいやばい! この二人、本気でやり合いかねないぞ!? 俺のせいで、こんな街中で戦闘騒ぎなんて起こしたら、今度こそ本当に魔女として吊るされるか、騎士団に捕まって実験体にされちまう!)
恐怖と焦りが頂点に達し、達也はほとんど反射的に行動していた。
「ま、待ってくれ二人とも! 落ち着けって! 話せば分かるから!」
そう叫びながら、達也はマリアとリリアの間に、まるで小さな防波堤になるかのように割って入った。そして、二人を物理的に少しでも引き離そうと、それぞれの肩にそっと両手を伸ばし、ほんの少しだけ、本当に、ごくわずかな力で押し開こうとしたのだ。あくまで、会話のきっかけを作るための、ジェスチャー程度のつもりだった。
しかし、その瞬間。
「「うわっ!?」」
マリアとリリアが、まるで揃って強風に煽られた木の葉のように、あるいは子供が投げた小石のように、信じられないほど軽々と、後方へ数メートルも吹っ飛んでしまったのだ!
ドッッッッッッッッッッッッッッッシン!!!
ゴツンッ!!!
という、派手な音が二つ、ほぼ同時に響き渡った。
マリアは、受け身を取る暇もなかったのか、派手な音と共に地面に思い切り尻もちをつき、「いっ……てぇ……! な、何が起きたのよ、今の…!?」と、何が起こったのか理解できない、という顔で目を白黒させている。その手はまだ剣の柄を握りしめているが、完全に戦闘の機先を制された形だ。
一方のリリアは、猫のような運動神経で空中で体勢を整えようとしたものの、予想外の力に押し流され、近くの店の木の壁にドカッと背中を強打し、「きゃうんっ!? いったぁ…! ちょっとタツヤちゃん! いきなり何すんのよ、乱暴なんだから!」と、涙目で壁に手をつきながら、達也を睨みつけている。その声には、驚きと痛みが混じっていた。
周囲の通りを歩いていた数人のリベル市民(人間や亜人)たちは、突然の出来事に何事かと足を止め、目を丸くしてこちらを見ている。「おい、今の何だ?」「喧嘩か?」「あの小さい女の子が、屈強な女傭兵と、もう一人の女の子を吹っ飛ばしたぞ!?」と、ひそひそと囁き合っている。
そして、その原因を作った張本人である達也は……。
「………………え?」
自分の両手を見つめ、何が起こったのか全く理解できず、完全に呆然としていた。
(うそ……だろ……? 俺……今、何した……? ちょっと、本当に、軽く押しただけだよな…? なんで、二人があんな…漫画みたいに吹っ飛んでるんだ…?)
そして、脳裏に蘇る。昨日の朝、宿の部屋で、木製のベッドをまるで羽毛のように軽々と持ち上げてしまったこと。リリアに「力が強くなってるね!」とからかわれたこと。そして、マリアの血を飲んだ後の、あの強烈な感覚…。
(まさか……本当に……こんな馬鹿みたいな力が……俺に……!?)
自分の体に宿ってしまった、規格外の怪力。それを、こんな最悪の形で、しかも公衆の面前で(?)発揮してしまったという事実に、達也は喜びなど微塵も感じず、むしろ血の気が引いていくような、新たな恐怖と絶望を感じていた。
(うわぁぁぁ……俺、本当に人間じゃなくなってきてる……ただでさえ魔女疑惑なのに、今度は怪力少女疑惑まで追加かよ……最悪だ……)
吹っ飛ばされて呆然とするマリアと、壁際で痛そうにしているリリア。そして、その中心で一人、自分のしでかしたことに気づいて顔面蒼白になっている達也。遠巻きに奇怪の目を向ける野次馬たち。
非常に気まずく、そしてシュールで、絶望的な空気が、リベルの朝の街角に流れていた。
「タツヤ…君、今の力は一体…!?」
「すごーい! タツヤちゃん、やっぱりただ者じゃなかったんだ! ますます面白くなってきたじゃない!」
尻もちをついたまま呆然とするマリアと、壁際で目をキラキラさせるリリア。そして、その中心で顔面蒼白になっている達也。その異様な光景と、先ほどの騒動(達也が二人を吹っ飛ばした)を見ていたリベルの市民たちが、遠巻きに集まり始め、ざわざわと騒ぎ出した。
「おい、今の見たか!? あの小さな女の子が、屈強そうな女の人たちを二人もいっぺんに!」
「ありゃあ普通の力じゃねえぞ! まさか闘技奴隷か何かか!?」
「いや、それよりもあの髪と瞳…まさか、噂の『魔女』ってやつじゃ…」
「誰か衛兵を呼んだ方がいいんじゃないか!?」
野次馬たちの声はどんどん大きくなり、その数も増えていく。このままでは本当に衛兵が来てしまうかもしれない!
「まずい! とにかくここから離れるぞ!」
最初に動いたのはマリアだった。彼女は素早く立ち上がると、達也の手を掴み、リリアにも目配せする。リリアも状況を理解したのか、頷いて達也の反対側の腕を取った。
「こっちだ!」
三人は、好奇と疑惑の視線を一身に浴びながら、人混みをかき分け、街の外れ…昨夜達也がキャンピングカーを出した(そして今朝アイテムボックスから再度出した)草地へと、全速力で逃げ出した。
息を切らせてキャンピングカーに転がり込み、達也はすぐにドアをロックし、カーテンを全て閉め切った。外の喧騒が少しだけ遠のき、車内には荒い息遣いと、重い沈黙、そして気まずい緊張感が漂う。
達也は自分のしでかしたこと(と、その原因である謎の怪力)に青ざめ、座席の隅で小さくなっていた。
「…さて、タツヤ」最初に口を開いたのはマリアだった。彼女は尻や背中をさすりながら、厳しい目で達也を睨みつけた。「一体どういうことなのか、詳しく説明してもらおうか。あの異常な力はなんだ? そして…」
マリアの視線が、隣に座るリリアへと移る。
「あんた! タツヤに馴れ馴れしくして、一体何者なんだ!? さっきからタツヤを庇っているようだが、ただの子供ではないな?」
「あら、あなたこそ、いきなり現れて何様のつもり?」リリアも負けじとマリアを睨み返す。その赤い瞳が妖しく光る。「私はタツヤちゃんの『お姉ちゃん』みたいなものよ。あなたみたいな物騒な傭兵さんから、この子を守ってあげてるの」
「姉…妹だと…? ふざけるな! タツヤは私と…!」
「あらあら、嫉妬かしら? 可哀想に」
「なっ…!」「なんですって!?」
マリアとリリアは、達也を間に挟んで(というか、もはや達也のことはそっちのけで)火花を散らし始めた。一触即発の雰囲気だ。
(うわあああ、もうやめてくれよぉぉぉ…!)
達也はこの胃が痛くなるような状況に耐えきれず、半ばヤケクソで叫んだ。
「と、とりあえず! みんな腹減ってるだろ!? 俺、なんか美味いもん作るから! それ食べて、落ち着いてから話そう! な!?」
その言葉に、睨み合っていたマリアとリリアが、ピタリと動きを止めた。そして、どちらからともなく、達也のお腹の辺りを見て(実際には鳴っていないが)、ふっと表情を緩めた。
「…まあ、それもそうだな。話は腹ごしらえをしてからだ」マリアが言った。
「賛成ー! タツヤちゃんのご飯、美味しいもんね!」リリアも頷く。
(…食い意地だけは張ってるんだな、二人とも…)
達也は内心でため息をつきつつ、キャンピングカーのキッチンに立った。さて、何を作るか。この険悪なムードを吹き飛ばすような、ガツンと美味いもの…。
(そうだ、あれなら…!)
達也は「カツ丼」を作ることに決めた。元の世界では定番の、しかしこの異世界では未知の料理だ。
早速、異世界通販で厚切りの豚ロース肉、玉ねぎ、新鮮な卵、パン粉、小麦粉、揚げ油、そして醤油、みりん、砂糖、出汁といった調味料一式を(マリアとリリアには見えないように、手早く)購入する。
まず、豚肉の筋を丁寧に切り、肉叩きで軽く叩いて柔らかくする。塩胡椒を振り、小麦粉、溶き卵、そして目の細かい生パン粉を順に、しっかりと衣付けしていく。
マリアとリリアは、達也の手際の良い調理風景を、最初はまだ少し距離を置いて見ていたが、次第に興味津々な顔でキッチンを覗き込み始めた。
次に、キャンピングカーに備え付けの小さなコンロの上に、揚げ物用の小さな鍋を置き、揚げ油を注いで適温に熱する。衣をつけた豚カツを、ジュワッという音と共に油の中へ。きつね色になるまで、じっくりと、しかし手早く揚げていく。香ばしい匂いが車内に充満し、マリアとリリアのお腹がぐぅ、と鳴ったのが聞こえた。
カツが揚がったら油をよく切り、まな板の上でザクザクと食べやすい大きさに切る。その間に、別のフライパンでスライスした玉ねぎと、醤油・みりん・砂糖・出汁を合わせた割り下を煮立てる。玉ねぎがしんなりとしたら、揚げたてのカツを並べ入れ、軽く煮込む。そして最後に、溶き卵を回しかけ、蓋をして数秒。半熟になったところで火を止める。
温かいご飯(これもパックご飯をレンジでチンだ)を大きめの丼に盛り、その上に、湯気を立てる黄金色のカツとじを、つゆごとたっぷりとかける。仕上げに、もしあれば三つ葉か刻みネギでも散らしたいところだが、ないので省略。
「よし、できたぞ! 熱いから気をつけろよ!」
達也は、ほかほかのカツ丼を三つ、テーブルに並べた。
見たこともない料理。しかし、その見た目のボリューム感、立ち上る甘辛い匂い、そして黄金色に輝く卵とじ…。マリアとリリアは、ゴクリと喉を鳴らし、目を輝かせている。
「「い、いただきます!」」(なぜか声が揃った)
二人は恐る恐る、しかし期待に満ちた表情で、スプーンでカツとご飯を一緒にすくい、大きな口で頬張った。
「「んんんんーーーーーっっっ!!!!!!」」
次の瞬間、二人の口から、揃って言葉にならない感嘆の声が漏れた!
マリアは目を丸くし、何度も頷きながら、「な、なんだこの料理は!? 肉の衣はサクサクと香ばしく、中の豚肉は驚くほど柔らかくてジューシーだ! そして、この甘辛い割り下と、ふわふわの卵が、肉とご飯に絡み合って…! こ、こんな美味いものは、生まれて初めて食べたかもしれん…!!」と、傭兵らしからぬ興奮ぶりで絶賛している。
リリアもまた、夢中でカツ丼をかき込みながら、「信じられない! この『カツドン』とかいうの、あなたの故郷では毎日こんなもの食べてるの!? こんな複雑で、奥深くて、そして強烈に食欲をそそる味…! もう、どうにかなりそう…!」と、赤い瞳を潤ませながら訴えてくる。
さっきまでの険悪な雰囲気はどこへやら、二人は完全にカツ丼の虜になっていた。達也は、そんな二人の食べっぷりを、少し呆れたような、それでいて満足そうな顔で見守っていた。
カツ丼を夢中で平らげ、満腹感と幸福感に満たされたマリアとリリア。食後のお茶(達也が淹れた日本茶だ)を飲みながら、二人はふと顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、少し気まずそうに、しかし先ほどまでの刺々しさはない声で言った。
「…まあ、美味かったな、今の」マリアが言った。
「…タツヤちゃんのおかげね」リリアが返す。
完全な和解、というわけではない。お互いに対する警戒心や疑問はまだ残っているだろう。しかし、少なくとも、美味しいカツ丼を一緒に食べたことで、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、二人の間の氷が溶けたような気がした。達也は、その小さな変化を、ホッとしたような、それでいてやはり呆れたような、複雑な気持ちで見守るのだった。




