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ゲーム

しかし、そんな空気もリリアの一言で崩れる。


「……ありがと、タツヤ」

ぽつりと呟かれた感謝の言葉は、いつもの彼女からは想像できないほど、素直で、少しだけか弱く聞こえた。


その声と表情に、達也は胸の奥がキュッとなるのを感じた。同時に、顔に熱が集まるのを感じて、慌てて視線を逸らす。


「…べ、別に! 勘違いするなよ!」達也は照れ隠しに、わざとぶっきらぼうな声を出す。「アンタがいつまでもメソメソしてると、こっちの調子も狂うからな! それに…今日だけだからな! 明日は満月なんだろ? アンタが言う通り、俺は別の場所に行くつもりだ。だから、今日くらいは…その、ちゃんと休めよ。」


それは、リリアの意思を尊重するという建前と、それでも今夜だけは彼女を一人にしたくないという達也の本音が入り混じった、不器用な言葉だった。


達也の言葉に、リリアは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふわりと、花が咲くように微笑んだ。それはいつもの悪戯っぽい笑顔とは違う、心からの、とても綺麗な笑顔だった。

「…ふふ、うん。分かってる。今日だけね。ありがとう、タツヤ」


その笑顔に、達也はまたドキッとしてしまい、ますます顔が赤くなるのを感じながら、「お、俺はもう寝る!」と宣言して、さっさとベッドへ向かった。(もちろん、部屋にベッドは一つしかない)


達也がベッドの端に潜り込むと、リリアもその後から、まるでそれが当たり前のように隣に入ってきた。そして、やはり当然のように、達也の体に腕を回し、ぎゅーっと抱きついてくる。


「……」

ひんやりとした肌、甘い香り、柔らかな感触。昨日までならパニックになっていたはずの状況。しかし、今の達也は、顔を赤くしながらも、以前のような激しい抵抗はしなかった。


(…もう、慣れた…っていうか、諦めたっていうか…)


いや、それだけではないかもしれない。リリアの寝言を聞き、彼女の抱える恐怖や孤独に触れた後では、この無遠慮なスキンシップも、彼女が安心を得るための、あるいは誰かとの繋がりを確かめるための、不器用な表現なのかもしれないと思えてしまうのだ。


達也は深いため息をつき、リリアの腕の中で身じろぎするのをやめた。不思議と、リリアの体温(吸血鬼だからか少し低い)が、今は心地よくさえ感じられる。


「…おやすみ、タツヤ」耳元で、リリアの小さな声がした。

「……おやすみ」達也も、小さな声で返した。


リリアはすぐに、安心しきったようにすーすーと穏やかな寝息を立て始めた。達也は、腕の中で眠るリリアの重みと温もり(?)を感じながら、目を閉じた。明日が満月であること、自分が吸血鬼かもしれないこと、アザリアからの追っ手のこと…不安要素は山積みだ。それでも、今は、この腕の中の存在が、奇妙な安らぎを与えてくれているような気がした。


達也もまた、様々な思いを抱えながら、しかし昨夜よりはずっと穏やかな気持ちで、深い眠りへと落ちていった。満月前夜の、静かな静かな夜だった。


翌朝、達也が目を覚ますと、腕の中にあったはずのリリアの温もり(?)は既になかった。隣を見ると、リリアはベッドの端に座り、静かに窓の外を眺めている。昨日までの憂鬱そうな雰囲気は薄れ、むしろ嵐の前の静けさのような、どこか落ち着いた表情をしていた。達也が身じろぎしたのに気づくと、彼女はゆっくりと振り返り、「…おはよう」と静かに言った。


「お、おはよう…」達也も挨拶を返す。「体調は…大丈夫なのか?」


「うん、今はね。まだ太陽も高いし、衝動もそれほどじゃないから」リリアは小さく微笑んだ。「それに、あなたが隣にいてくれたからか、昨夜は久しぶりに悪夢を見ずに眠れた気がする」


その言葉に、達也は少しだけ救われたような、そして照れくさいような気持ちになった。


「…そ、そうか。なら良かった」達也は顔を赤くするのを誤魔化すように、ベッドから起き上がった。「そうだ、コーヒー淹れるか? 昨日買ってきたやつ」


「! うん、飲む!」リリアは嬉しそうに頷いた。


達也はカセットコンロでお湯を沸かし、昨日購入した高級ドリップコーヒーの封を開けた。袋を開けた瞬間、芳醇で、甘く、そして少しだけスパイシーな、複雑で豊かな香りが部屋いっぱいに広がる。


「わぁ……! すごく良い香り…!」リリアは目を輝かせ、深呼吸するようにその香りを楽しんでいる。昨日までの不安げな表情は、今はどこにもない。


達也は、元の世界で少しだけ凝っていた知識を思い出しながら、ゆっくりと、丁寧にお湯を注ぎ、コーヒーを淹れていく。ポタポタと黒い雫がカップに落ち、香りはさらに濃くなっていく。異世界に来て、こんなに落ち着いた時間を持てるなんて、少し前まで考えられなかったことだ。


淹れたてのコーヒーを二つのカップに注ぎ、一つをリリアに手渡す。

「ほらよ。熱いから気をつけろ」

「ありがとう、タツヤ」


二人は窓際のテーブルで、向かい合って座り、ゆっくりとコーヒーを味わった。

「……美味しい……!」リリアは一口飲んで、感嘆の息を漏らした。「苦いだけじゃない…なんていうか、色々な味がして、すごく深みがある…。それに、なんだか心が…落ち着くみたい……」

彼女は目を閉じ、コーヒーの温かさと香りを全身で感じているようだった。達也も自分のカップを傾ける。確かに、これは美味い。元の世界でもなかなか飲めないような、上質な味と香りだ。異世界通販、恐るべし。


コーヒーを飲みながら、二人はしばらくの間、他愛もない話をした。リベルの街で見かけた面白いもの、昨日食べたオークステーキの感想、次に試してみたい料理…。満月のことや、吸血鬼のことは、どちらも口にしなかった。まるで、嵐の前の静かなひとときを楽しむかのように。


しかし、その穏やかな時間は、やがて終わりを告げる。



「じゃあ、約束通り、私は今日一日と、明日の夜まで…完全に月が欠け始めるまでは、この部屋に籠る。絶対に、何があっても、この部屋には近づかないでね。いいね?」

その言葉は、懇願であり、命令でもあった。


達也はリリアの真剣な目を見て、強く頷いた。「…分かった。無理するなよ。ちゃんとコーヒー飲んで、本でも読んでろよ」


「うん…。タツヤも、気をつけて。一人で危ないところには行かないようにね」リリアも達也を心配するように言った。


達也は名残惜しさを感じながらも、リリアに背を向け、部屋を出た。ドアが閉まる直前、リリアが「…ありがとうね」と小さく呟いたのが聞こえた気がした。


***


宿を出て、満月の日のリベルの街に一人で立った達也は、深いため息をついた。リリアのことは心配でたまらないが、今は彼女を信じて待つしかない。そして、自分自身もこの一日をどう過ごすか決めなければならない。


(とりあえず、宿に戻るわけにはいかないし…街をぶらつくか? でも、この見た目じゃ目立つし、一人じゃ危険かもしれない…)


途方に暮れて歩き始めた達也は、ふとキャンピングカーのことを思い出した。


(そうだ、キャンピングカーが出しっぱなしだった!)


達也は、街の外れにある草地へと足を向けた。幸い、午前中の早い時間で、人通りはまだ少ない。


目的の草地に到着し、周囲に誰もいないことを念入りに確認する。

(よし、一晩ぐらいじゃ問題ないな)


昨日と同じように白い車体が姿を現す。


(やっぱり、これが俺の城だな…)


達也はキャンピングカーの中に乗り込み、ドアをロックした。外の世界から隔離された、安心できる空間。リリアのこと、満月のこと、吸血鬼のこと、アザリアの追っ手のこと…考えなければならないことは山ほどある。


しかし、今の達也には、それらに正面から向き合う気力が、どうしても湧いてこなかった。悪夢の記憶もまだ生々しい。


「……はぁ……」達也は運転席に深く座り込み、呟いた。「……今日はもう、ダメだ。何も考えたくない。……そうだ、ゲームでもして、一日潰そう」


彼はノートパソコンを取り出し、電源を入れた。そして、元の世界で熱中していたオフラインのRPGゲームのアイコンをクリックする。画面の中に広がる、剣と魔法の、しかしどこか安全で秩序だったファンタジーの世界へ、達也は現実から逃避するように、その意識を沈めていくのだった。

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