気のせい
悪夢の衝撃と、自分の内に潜むかもしれない吸血鬼の本能への恐怖。達也はキャンピングカーの運転席で、しばらくの間、頭を抱えて震えていた。しかし、同時に、あの耐え難い渇望と、それを抑えつけなければならない苦しみが、ほんの少しだけ理解できた気がしたのだ。
(リリアは…ずっと、これと戦ってきたのか…? 満月が来るたびに、一人で…)
満月の夜は獣のようになる、と彼女は言った。それは、この悪夢で垣間見た、理性を失い衝動のままに血を求める自分自身の姿と重なった。彼女が別行動を提案したのも、達也を気遣ってのこと、そして何より、自分自身が過ちを犯すことを恐れてのことなのだろう。
(…コーヒー…気休めだって言ってたけど…)
達也は、衝動的に異世界通販サイトを開いた。検索するのは「コーヒー」。リリアが苦労して手に入れたという豆だけでなく、様々な種類のインスタントやドリップバッグが表示される。
(どうせなら、本当に美味いやつを…リリアが、少しでも楽になれるような…)
達也は、レビュー評価の高いドリップコーヒー(数種類のブレンドが入ったアソートパック)と、それから甘い香りのフレーバーコーヒーのスティックタイプをいくつか選んで購入した。今の自分にできる、ささやかな気遣いのつもりだった。
コーヒーをアイテムボックスに仕舞うと、達也はもうじっとしていられなかった。リリアは大丈夫だろうか。一人で部屋にこもって、また悪夢のような衝動と戦っているのではないか?
(心配だ…! やっぱり、あいつを一人にはしておけない!)
達也は、リリアの「キャンピングカーは危険だ」という忠告も忘れ、キャンピングカーを村の外れに出したまま、宿の「静かなる梟亭」へと駆け足で戻った。マリアに見つかるリスクよりも、リリアへの心配が勝っていた。
部屋のドアをノックしようとして、鍵が開いていることに気づく(リリアが戻ってきたのだろう)。そっとドアを開けて中を覗くと、リリアはベッドの上に座り、膝を抱えて窓の外をぼんやりと眺めていた。達也が部屋に入ってきたことに気づくと、彼女は少し驚いた顔をして振り返った。
達也は、リリアの瞳が、いつもよりもさらに赤く、そして潤んでいるように見えることに気づいた。満月が近づいている影響が出始めているのかもしれない。あるいは、一人で何か辛いことを考えていたのか…。
リリアは、戻ってきた達也を見て、驚きと、戸惑いと、そしてほんの少しの安堵が混じったような複雑な表情を浮かべた。
「……な、なによ、戻ってきたの? 図書館は? 本は借りてこなかったわけ? 別行動するって、言ったじゃない……」
言葉とは裏腹に、その声は少し震えている。そして、心配を隠すように、あるいは照れ隠しか、わざとぶっきらぼうな口調で付け加えた。
「まったく……なんでそんなに、私なんかに構うのよ……」
しかし、その口元は、ほんのわずかに、くすっと笑っているようにも見えた。強がってはいるけれど、達也が戻ってきたことに、少しだけ安心しているのかもしれない。
達也は、そんなリリアの強がりには構わず、彼女のそばまで歩み寄った。そして、アイテムボックスから購入したばかりの、香り高いドリップコーヒーのパックをいくつか取り出し、「これ…」と差し出した。
「気休めだって言ってたけどさ…。でも、本当に美味いコーヒーなら、少しは気分も違うかもしれないだろ…? だから、その…よかったら飲めよ」
言葉はぶっきらぼうで、ぎこちない。それでも、達也のリリアを心配する気持ちは、真っ直ぐに伝わったはずだ。
リリアは、差し出されたコーヒーのパックを受け取ろうとして、達也の顔を間近で見た。そして、ふと気づいたように「…あれ? タツヤ…?」と呟き、その赤い瞳で達也の瞳をじっと覗き込んできた。
「あなたのその黒い瞳……気のせいかな……なんだか、ほんの少しだけ、赤みがかって見えない? 光の加減かしら……?」
「え……!?」リリアの指摘に、達也はギクリとした。自分の瞳が? 赤く? 昨夜の悪夢の後から? まさか…。
リリアはさらに眉をひそめ、達也の瞳を観察するように顔を近づける。
「うーん……でも、こんな風に瞳の色が微妙に変わるなんて、私も聞いたことないなぁ…。吸血鬼だって、普段は人間の瞳の色に擬態してることが多いけど、興奮したり力を使ったりしたらもっとはっきり赤く光るし…。こんな、じんわり色が変わるなんてのは…何かの病気の兆候とか? いや、でも……」
吸血鬼であるリリアにとっても、それは全く未知の現象らしく、彼女は本気で困惑した表情を浮かべて首を捻っている。
リリアですら「知らない」と言う。その事実は、達也の胸に鉛のような恐怖となって突き刺さった。
(リリアも分からない!? じゃあ、俺の体、一体どうなってるんだ!? 本当に何かヤバいことに…!? 吸血鬼じゃない、もっと別の、得体の知れない何かに変わっちまうのか!? いやだ! 怖い! 誰か…!)
達也は制御できない恐怖に襲われ、パニックになりかけた。呼吸が浅く速くなり、体が小刻みに震え始めるのが自分でも分かった。
「わわっ! ご、ごめん! ごめんってばタツヤ!」
達也が明らかにパニックを起こしかけているのを見て、リリアは慌てて達也の両肩を掴んだ。
「だ、大丈夫だって! きっと、ただの光の加減だって! 私の見間違い! そう、絶対に見間違いだから! ほら、よく見たら全然赤くない! うん、綺麗な真っ黒な瞳だよ!」
リリアは必死の形相で、自分が見たものを否定するように、早口でまくし立てた。その表情からは、達也を落ち着かせようという焦りが伝わってくる。(内心では、彼女もやはり何か異常を感じているのかもしれないが)
リリアの必死な言葉に、達也は荒い呼吸を繰り返しながらも、少しだけパニックの淵から引き戻された。
(み、見間違い…? そうだよな…? リリアがそう言うなら…)
「……そ、そうだよな…? きっと、光のせいだよな…?」達也は震える声で、リリアに確認するように呟いた。「お、俺の目、元々真っ黒ってわけでもなくて、ちょっと色素が薄いっていうか…ほら、明るい光が当たると、たまに赤っぽく見えるだけなんだよ、きっと! うん、そうだ、そうに違いない!」
達也は自分に強く、強く言い聞かせるように、無理やり自分を納得させようとした。
しかし、必死に平静を装おうとしても、達也の顔はまだ青ざめ、声もわずかに震えている。リリアも、取り繕うような笑顔を浮かべてはいるものの、その赤い瞳の奥には困惑と、そして拭いきれない疑念の色が残っていた。




