夢
リリアは「じゃあね!」と手を振り、一人で宿の部屋を出て行ってしまった。パタン、と閉まるドアの音が、やけに大きく部屋に響く。一人取り残された達也は、しばらくその場で立ち尽くしていた。
(大丈夫だって言ってたけど…本当に平気なのかよ…? あの寝言…それに、満月の夜は獣みたいになるって…)
リリアの言葉を信じたい気持ちと、どうしても拭いきれない心配。そして、マリアに見つかるかもしれないというリスクを冒してでも、彼女のそばにいた方がいいのではないかという考え。達也の心は激しく揺れていた。
(それに、俺自身のことだって…もし本当に吸血鬼なら、満月になったらどうなるんだ? リリアみたいに、俺も衝動に苦しむのか?)
考えれば考えるほど、不安は募るばかりだ。部屋でじっとしていても埒が明かない。
(…やっぱり、キャンピングカーに行こう。あの中が一番落ち着くし、ネットも使える。何か…何か、リリアを助ける方法とか、吸血鬼の衝動を抑える方法とか、調べられるかもしれない!)
リリアの忠告は頭をよぎったが、達也はいてもたってもいられなかった。彼は宿の鍵を返し(主人のエルフは何も言わずに受け取った)、人目を避けながら、昨夜キャンピングカーを出現させた街の外れの草地へと急いだ。
幸い、朝の早い時間帯だからか、人通りはまばらだった。達也は周囲に誰もいないことを念入りに確認し、アイテムボックスからキャンピングカーを取り出す。音もなく現れた白い車体に、彼はすぐに乗り込み、ドアをロックした。
「ふぅ……やっぱりここが一番落ち着くな……」
慣れ親しんだ(といっても異世界に来てからだが)運転席に座り、達也は大きく息をついた。そして、すぐにエンジンキーを回した。ブロロ…と安定したエンジン音が響いた。
(よし、繋がるはずだ…!)
達也は祈るような気持ちでブラウザを立ち上げ、検索エンジンを開いた。そして、キーボードに打ち込む。
『吸血鬼 衝動 抑える方法』
『満月 吸血鬼 対策』
『吸血衝動 緩和』
エンターキーを押すと、膨大な量の情報が表示された。しかし、そのほとんどが、達也が元の世界で知っていたような、ファンタジー小説や映画、ゲームの設定、あるいはオカルト系の眉唾な情報ばかりだった。
(銀が効く? ニンニク? 十字架? そんなの、リリアには効果なさそうだったしな…第一、俺だって平気だし…。聖水? そんなのどこで手に入れるんだよ…通販にあるか?)
達也は次から次へと表示される情報を、焦りと苛立ちを感じながら読み進めていく。医学的な見地からの依存症対策、心理学的な衝動制御のテクニック、果ては「強い意志で乗り切れ!」といった精神論まで…。どれもこれも、今の状況でリリアに(そして自分自身に)役立つとは思えない。
(ダメか…やっぱり、異世界の情報はネットじゃ見つからないのか…? いや、待てよ…吸血鬼そのものについての情報なら…?)
達也は検索ワードを変え、『吸血鬼 生態』『Vampire Biology』など、より学術的な(?)キーワードで検索を続けた。古い伝承や、歴史研究、生物学的な考察(もちろん空想上のものが多いが)など、様々な情報がヒットする。その中に、達也の目を引く一文があった。ある古い(と称する)文献の抜粋を載せた、マニアックなサイトの記事だ。
『…吸血鬼は、外部からの刺激を遮断し、自身の生命活動を極限まで低下させることにより、一時的な"仮死状態"、すなわち休眠状態へと移行することが可能であると記されている。この状態においては、肉体的な欲求、すなわち"血への渇き"もまた、深い眠りの中で霧散するという…』
「仮死状態…? 休眠…?」
達也はその記述を何度も読み返した。仮死状態になって衝動をやり過ごす? それはつまり、満月の間、ほとんど死んだように眠り続けるということか?
(そんなこと…できるのか? それに、そんなの、ただ問題を先送りしてるだけじゃないか…。生きているとは言えない…)
それは一つの情報ではあったが、リリアを助けるための有効な解決策とは思えなかった。達也は深いため息をつき、ディスプレイを睨みつけた。ネットという膨大な情報の中からでも、今の自分たちを救う具体的な方法は、簡単には見つかりそうになかった。
(リリア…大丈夫だろうか…)
画面を睨みつけ、リリアを助けるための情報を必死に探していた達也だったが、有効な手立ては見つからない。「仮死状態での休眠」なんていう、現実味のない情報が目につくだけだ。焦りと無力感、そして昨夜からの寝不足と精神的な疲労が、鉛のように達也の体にのしかかる。
(ダメだ…頭が回らない…リリアのことは心配だけど、少し…少しだけ休まないと…)
達也はノートパソコンを閉じ、運転席のシートを深くリクライニングさせた。窓の外はまだ明るいが、カーテンを閉めれば中は薄暗くなる。目を閉じると、すぐに重い眠気が彼を襲い、意識は急速に遠のいていった。
………。
………。
気がつくと、達也は一人で、リベルの薄暗い裏路地を歩いていた。 石畳は湿り、壁からは不快な匂いが漂ってくる。時刻は夜だろうか、空は見えず、周囲は薄気味悪いほど静かだ。
そして、達也は感じていた。猛烈な喉の渇きを。
ただ水が飲みたいというレベルではない。もっと本能的で、体の芯から湧き上がってくるような、焼けるような渇望感。まるで、体中の血液が沸騰し、干上がってしまいそうなほどの、耐え難い苦しさ。
(なんだ…これ…? 喉が…渇いて…死にそうだ…)
夢の中の達也は、よろよろと壁に手をつきながら、その渇きに喘いだ。水ではない。もっと別のもの。温かくて、生命力に満ちた、赤い液体…。その渇望の正体が「血」であることに、達也の意識は朧げながら気づき始めていた。しかし、それに恐怖するよりも、今はただ、この苦しい渇きから解放されたいという衝動の方が、圧倒的に強い。
その時、路地の向こうから、不快な歌声と共に、千鳥足の人影が現れた。安酒の匂いをプンプンと撒き散らす、酔っ払いの男だ。
男の姿を認めた瞬間、達也の体に、まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った! 喉の渇きは一瞬で、獲物を前にした飢えた獣のような、激しい飢餓感へと変貌する!
目の前の男の存在が、ひどく生々しく感じられた。首筋を流れる血液の気配。ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音が、やけに大きく耳に響く。アルコール臭に混じって漂ってくる、生臭い鉄のような血の匂いが、達也の奥底に眠っていた何かを、強烈に、暴力的に揺り起こす!
(欲しい…飲みたい…あの血を…!)
理性など、もはや欠片も残っていない。恐怖も、罪悪感も、全てが燃えるような渇望の前に消し飛んでいた。ただ、目の前の「獲物」を喰らい、その生命を啜りたいという、抗いがたい吸血衝動だけが、達也の全てを支配していた。
気づいた時には、達也は動いていた。自分でも信じられないほどの俊敏さで、酔っ払いの男に飛びかかり、抵抗する間も与えずに、その体を薄汚れた路地の壁へと叩きつける!
「うぐっ!?」男が呻き声を上げる。
達也は、その男の首筋に顔を埋め、本能のままに、鋭く尖った感覚のある歯――牙――を、ためらいなく突き立てた!
ブシュッ!
生温かい液体が迸り、達也の口の中に流れ込んでくる。鉄錆びたような、しかしむせ返るほど甘美な味。
―――!!!???
その瞬間、達也の全身を、脳髄が蕩けるような、強烈な、強烈な快感と恍惚感が貫いた! これまで人生で経験したどんな喜びよりも、どんな興奮よりも、比較にならないほど背徳的で、しかし抗いがたいほどの絶対的な快楽! 喉の渇きは癒え、代わりに全身が歓喜に打ち震える!
(ああ…! 美味しい…! もっと…もっと欲しい…!!)
達也は我を忘れ、貪るように男の血を啜り続けた。快楽に溺れ、自分が何をしているのか、もはや考えることもない。
やがて、男の体から力が抜け、ぐったりと壁にもたれかかる。達也は吸血をやめ、自分の口元についた血を、恍惚とした表情で舌でゆっくりと舐め取った。満たされた感覚と、深い満足感。そして、わずかな虚脱感。
達也は、意識を失って崩れ落ちた酔っ払いを、まるでゴミでも見るかのように一瞥し、何の感慨もなくその場に捨て置いた。そして、何事もなかったかのように、フラリと表通りへ向かって歩き出そうとした。その思考には、罪悪感のかけらも、後悔の色も、全く見当たらなかった。
表通りへ一歩、足を踏み出そうとした―――その瞬間!
「はっっっ!!!」
達也は、キャンピングカーの運転席で、自分の荒い息遣いと共に飛び起きた! 全身はびっしょりと冷たい汗で濡れ、心臓は今にも張り裂けそうなほど激しく波打っている!
(ゆ、夢……夢だ……! そうだ、夢だったんだ…!)
しかし、夢だというのに、あの喉の渇き、血の味、そして何よりも、あの脳を焼くような快感の感覚が、あまりにも生々しく体に残っている!
「う…っ! おぇ……っ!」
達也は強烈な吐き気に襲われ、口元を押さえた。人を襲い、その血を啜り、快感を覚えていた自分。たとえ夢の中だとしても、自分の内にそんな獣のような本能が眠っているのかもしれないという事実に、激しい嫌悪感と恐怖が込み上げてくる。
(嘘だ…あんなの、俺じゃない…! 俺は人間だ…! 化け物なんかじゃ…!)
しかし、リリアの言葉が脳裏をよぎる。『あなたからは同族…吸血鬼の匂いがする』『血を吸ったことはないの?』
(俺は…俺は、本当に……吸血鬼に……?)
TS転生しただけでも受け入れがたいのに、種族まで変わってしまったのかもしれない。それも、血を啜り、快楽を覚えるような、忌まわしい存在に。
「うわあああああああああああああ!!!!」
達也は頭を抱え、声にならない叫びを上げた。深い、深い苦悩と自己嫌悪。そして、自分の存在そのものへの底知れない恐怖が、彼を暗い渦の中へと引きずり込んでいくのだった。




