リリアの気遣い
「ふぁ〜あ…疲れた。もう寝るか」
達也は部屋の中央にどーんと置かれた、部屋に一つしかない、二人で寝るには少し狭そうなベッドに目をやった。そして、そのベッドの上では、既にリリアがパジャマ代わりのワンピース姿で寝転がり、ご機嫌な様子で足をぶらぶらさせている。
(……だよなあ。ベッド、これしかないもんなあ……逃げ場なし、か……)
達也は深すぎる、そして諦めに満ちたため息をついた。もはや、リリアと同じベッドで寝ることから逃れる術はない。昨夜の激しい抵抗も、結局はこの結果を招いただけだ。床で寝る? この吸血鬼少女がそれを許すはずがない。
「おーい、タツヤ。早くこっちおいでよー。いつまでそこに突っ立ってるの? 一緒に寝るんでしょ?」
リリアがベッドの中から、まるで飼い主がペットを呼ぶかのように、にこやかに手招きしている。
(……もう、どうにでもなれ……)
達也は全ての抵抗と羞恥心を(無理やり)心の奥底に押し込め、重い足取りでその唯一のベッドへと向かった。そして、できるだけリリアから距離を取ろうと、ベッドの端っこに、壁を向くようにして、ぎこちなく体を滑り込ませた。
しかし、そんな達也のささやかな抵抗も、やはり無意味だった。達也が横になった瞬間、リリアは待ってましたとばかりに達也の方へと体を寄せ、後ろからぎゅーっと抱きついてきたのだ! ひんやりとした(でもなぜか心地よくもある)肌と、甘い花の蜜のような香りが、すぐそばで達也を包み込む。
「ひゃっ…!」達也は条件反射で小さく声を上げ、体を硬直させた。顔がまたカッと熱くなるのが分かる。
「んふふー、やっぱりタツヤはあったかくて気持ちいいねぇ。柔らかいし」リリアは満足そうに言い、達也の背中に頬をすり寄せ、さらに腕に力を込めてくる。
(慣れてきた、なんて思ったのは気のせいだった…! 全然慣れない!)
達也は内心で悲鳴を上げた。しかし、もはや激しく抵抗する気力も湧いてこない。諦めにも似た感情と、リリアの寝言を思い出してしまったことによる奇妙な同情とがない交ぜになり、ただされるがままになっているしかなかった。
リリアはしばらく達也にじゃれついていたが(髪をいじったり、耳元で何か囁いたり)、やがて満足したのか、「ふぁ〜あ、眠くなってきた…」と小さなあくびをした。
「おやすみ、タツヤ…また明日ね…」
そう呟くと、リリアは達也に抱きついたままの姿勢で、本当にあっさりと、すーすーと穏やかな寝息を立て始めた。
(……嵐が過ぎ去った……のか?)
腕の中(というか背後)で安らかに眠るリリアの気配と体温。達也は、興奮と羞恥心、そしてどうしようもない疲労感でぐったりとしながらも、すぐには眠りにつけなかった。リリアの寝息と、時折聞こえる外の物音だけが響く静かな部屋で、(こいつ、本当に一体なんなんだ…!? 俺はこれから、毎晩こうなのか…!?)と、混乱した思考を巡らせ続ける。
しかし、人間の(あるいは吸血鬼になりかけの?)体は正直だ。やがて抗えない眠気が達也を襲い、彼はリリアの腕の中で、複雑な感情を抱えたまま、深い意識の底へと沈んでいった。自由都市リベルでの、二日目の夜が静かに更けていく。
[翌朝 / リベルの安宿「静かなる梟亭」の一室]
達也は、隣で眠るリリアの穏やかな寝息と温もり(?)を感じながら、比較的安らかに朝を迎えた。昨夜の「いちゃつき」騒動はあったものの、その後の真剣な話し合いや、リリアの意外な優しさに触れたことで、達也の彼女に対する感情は、警戒一辺倒ではなくなっていた。
そっとリリアの腕の中から抜け出し、ベッドの端に腰掛ける。窓の外からは、リベルの街の朝の喧騒が微かに聞こえてきた。今日も一日、情報収集や金策に動かなければならない。
達也が顔を洗い、身支度を整えようとしていると、ベッドの上でリリアが身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……」
しかし、いつものような「おはよう!」という元気な声はない。リリアは体を起こすと、窓の外…昇り始めた太陽の光が差し込む空を、ただぼんやりと、そしてどこか憂鬱そうな表情で眺めている。時折、深いため息をついているようにも見えた。
「…おい、リリア。どうしたんだ?」達也はそのただならぬ雰囲気に気づき、声をかけた。「朝から元気ないじゃないか。もしかして、まだ体調が良くないのか?」
リリアは力なく首を振った。
「…ううん、別に体調が悪いわけじゃないんだ。ただ……ちょっとね」
言葉を濁し、また窓の外に視線を戻してしまう。その赤い瞳には、いつもの輝きがない。
達也は、そんなリリアの様子が気になり、彼女の隣に腰を下ろした。「何かあったのか? 俺でよければ話くらい…」
リリアはしばらく黙っていたが、やがて観念したように、重い口を開いた。その声は、普段の彼女からは想像もできないほど、弱々しく、そして不安に満ちていた。
「……明日なんだ」
「明日?」
「……満月」
その言葉を聞いて、達也はハッとした。昨日、彼女が話していた吸血衝動が強まるという、満月の夜。
「満月の夜が近づくとね…ダメなんだ、私」リリアは膝を抱え、俯きながら続けた。「胸の奥が、すごくざわざわして…落ち着かなくなる。あの、嫌な『渇き』…血を求める本能が、じわじわと目を覚まして、強くなってくるのが分かるから……」
彼女の声は微かに震えている。
「普段はなんとか理性で抑え込めてる衝動も、満月の強い力に引かれて、自分の中から溢れ出して、暴れ出しそうになるの。自分が自分でなくなっちゃうような……あの感覚が、すごく、すごく……怖いんだ」
その告白は、いつも飄々として、達也をからかってばかりいるリリアからは想像もできない、彼女の脆い部分を露わにしていた。
「だから、満月の夜とその前後の数日間は、私はいつもこう。できるだけ人目を避けて、安全な場所に引きこもって…ただひたすら、衝動が過ぎ去るのを耐えるしかないのよ」
「耐えるって…何か方法はないのか?」
「気休め程度だけどね…」リリアは力なく笑った。「前話したコーヒー。あれを飲むと、ほんの少しだけだけど、あの嫌な渇望感が和らぐ気がするから。だから、満月の時期は、ひたすら濃いコーヒーを淹れて飲んで、本を読んだり、気を紛らわせたりしながら、時間が過ぎるのを待つだけ……それが、私がもう何十年も…ううん、もっとずっと長く繰り返してきた、満月の夜の過ごし方なんだ」
自嘲するような、諦めたようなリリアの言葉と表情。それは、彼女が「吸血鬼」として生きる上で、常に抱え続けてきた孤独と苦悩の深さを物語っていた。
達也は、そんなリリアの姿に言葉を失った。彼女が普段見せる明るさや奔放さは、もしかしたら、このどうしようもない恐怖と孤独を隠すための仮面なのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるような痛みを感じた。リリアに対して抱いていた様々な感情――苛立ち、羞恥心、警戒心――とは別に、純粋な心配と、何か自分にできることはないだろうか、という思いが強く湧き上がってきた。
明日は満月。そして、目の前には、その恐怖に怯える一人の吸血鬼の少女がいる。今日の行動計画も、考え直す必要がありそうだ。




