マリア
「はい、ようこそ『静かなる梟亭』へ。ちょうど二階の角部屋が空いておりますよ。比較的静かで、窓からの眺めも悪くありません。お二人で一部屋でよろしいかな?」
「あ、はい、それで…」達也は部屋が空いていたことに安堵し、特に深く考えずに頷きかけた。そして、値段を確認する。「料金はいくらですか?」
「一晩、お食事なしで銀貨2枚になりますな」
(銀貨2枚か…まあ、昨日の稼ぎがあるから問題ないな)達也は懐から銀貨2枚を取り出し、カウンターに置いた。「これでお願いします」
「はい、確かに」老主人は銀貨を受け取ると、古風な作りの真鍮の鍵をカウンターに滑らせた。「ありがとうございます。では、こちらの鍵をどうぞ。二階の突き当り、フクロウの彫刻がある扉です。ごゆっくり」
「ありがとうございます」達也は鍵を受け取り、ホッと一息ついた。これで今夜の寝床は確保できた。隣のリリアを見ると、彼女も満足げに頷いている。二人はカウンターに軽く会釈し、二階へと続く木の階段へ向かった。
階段を数段上りかけ、今日の宿が無事に見つかったことに安堵していた、その時だった。
達也の頭の中で、先ほどの主人の言葉がリフレインした。
――― お二人で一部屋でよろしいかな? ―――
そして、自分がそれに何の疑問も持たずに支払いまで済ませてしまった事実に、ようやく気づいたのだ。
「あっ!」達也は素っ頓狂な声を上げ、慌てて階段の途中で振り返った! そして、隣を平然と歩いているリリア(と、下で静かに見送っている主人)に向かって、叫んだ。
「って、えええええ!?!? おい!! ちょっと待て!! 『二人で一部屋』って、なんで俺がアンタと同じ部屋に泊まる前提になってんだよ!? 俺は一部屋借りたつもりだぞ!?」
完全にタイミングを逃した、渾身のツッコミ。
しかし、リリアはそんな達也の慌てぶりに、きょとんとした顔で(しかし、その赤い瞳の奥は明らかに面白がって)答えた。
「え? だって、私たちが部屋を別々にする理由なんてないじゃない。私たちは一緒に旅してるんでしょ? 部屋が別々な方がおかしいじゃない。当然でしょ? それとも何? あなた、私と一緒の部屋は嫌なの?」
リリアは小首を傾げ、少し寂しそうな表情まで作って見せる(おそらく演技だ)。
「いや、嫌とかそういう問題じゃなくてだな…!」達也は反論しようとするが、リリアの「当然でしょ?」というあまりにも堂々とした態度と、階下で静かにこちらを見ている(そして若干呆れているようにも見える)エルフの主人の視線に、言葉を失ってしまう。
「だーーーーーっ!!またかよ!! もういい! 勝手にしろ!」
結局、達也はやけくそ気味に叫ぶと、さっさと階段を駆け上がり、指定された部屋へと向かってしまった。リリアはその後ろを、「えへへー、待ってよータツヤー♪」と楽しそうに小走りでついていく。
階下では、エルフの主人が静かにため息をつき、再び手にしていた本へと視線を落としたのだった。
さっさと階段を駆け上がり、指定された二階の突き当り、「フクロウの彫刻」が施された古びた木の扉の前に立った。震える手で鍵を開け、ドアを押す。
部屋の中は…広くはない。しかし、昨日泊まったアザリアの宿(というより物置に近かった)や、それ以前の馬車での寝泊まり、あるいは牢屋の環境と比べれば、格段にマシだった。床は綺麗に掃き清められ、壁には色あせてはいるものの異国の風景が描かれたタペストリーが掛かっている。小さな木のテーブルと、背もたれ付きの椅子も一つだけ置かれていた。清潔なシーツがかけられたベッドもある。達也の基準からすれば、十分に「豪華」と言えるかもしれない。
――ただし、そのベッドは部屋の真ん中に、一つだけ、どーん、と置かれていたが。
「わーい! なかなか良い部屋じゃーん!」
後からついてきたリリアは、部屋を見回して満足げに声を上げると、真っ先にその唯一のベッドに飛び乗り、ポンポンと跳ね始めた。「うんうん、このベッド、結構ふかふかだよ! 寝心地よさそう!」
(……終わった……)
達也は、部屋にベッドが一つしかないという残酷な現実と、ベッドの上ではしゃぐリリアの姿を目の当たりにし、全ての抵抗を諦めた。もう、何を言っても無駄だ。この吸血鬼少女には、常識も遠慮も通用しないのだ。達也は、深すぎる、魂の底からのようなため息をついた。
「ねーえ、タツヤも早くこっち来なよー! 一緒に寝るんでしょ?」
リリアがベッドの上から無邪気に手招きしてくる。
達也はそれに答える代わりに、ふらふらとした足取りで、ベッドとは反対側の窓辺へと歩み寄った。ギィ、と音を立てて木の窓を開けると、ひんやりとしたリベルの夜風が頬を撫でる。眼下には、ランプの灯りが点々と続く石畳の道が見え、仕事を終えて家路を急ぐのか、あるいはこれから酒場へ繰り出すのか、まばらな人影が通り過ぎていく。
そして、空を見上げれば、街の明かりがあるにも関わらず、まるで宝石を散りばめたかのように、無数の星々が夜空いっぱいに輝いていた。欠けた月が、地上を静かに、そしてどこか物悲しく照らしている。それは、達也が元の世界では見たこともないほど、吸い込まれそうなほど綺麗な夜空だった。
達也は、その美しい異世界の夜景を、ただぼんやりと眺めていた。これからのこと、リリアのこと、元の世界のこと、考えなければならないことは山ほどあるはずなのに、今は何も考えたくなかった。諦めと、ほんの少しの寂寥感が、静かに胸の中に広がっていく。
後ろからはリリアの「おーい、タツヤちゃーん?」と呼ぶ声が聞こえるが、達也はそれに返事をする気にもなれず、ただ窓の外の景色を見つめ続けるのだった。
眼下の通りには、ランプの灯りが点々と続き、家路を急ぐのか、あるいはこれからどこかへ繰り出すのか、まばらな人影が通り過ぎていく。達也はその一つ一つの影を目で追いながら、この街での自分の未来を、とりとめもなく考えていた。
その時だった。
ふと、通りを歩く一人の女性の姿が、達也の目に留まった。
見慣れた亜麻色の髪を一つに束ね、身のこなしの良い傭兵の装束。腰には長剣。しっかりとした足取りだが、どこか落ち着かない様子で、時折立ち止まってはキョロキョロと周囲の建物や人通りを窺っている。まるで、誰かを探しているかのように。
(―――!? まさか……!!)
達也は息をのんだ。見間違えるはずがない。あの姿は、アザリアで別れたはずの傭兵、マリアだ!
(マリア!? なんでマリアがここに!? しかも、このリベルに!? まさか、俺を追ってきたのか!? どうやってこんなに早く!? それとも、ただの偶然…!?)
達也の頭の中は、一瞬で驚愕と混乱に支配された。心臓が早鐘のように激しく打ち始める。まずい、マリアに見つかるわけにはいかない! アザリアでの魔女疑惑はどうなった? もしマリアが騎士団と繋がっていたら? それに、今のこの状況…リリアと一緒にいるところを見られたら、さらに面倒なことになる!
達也は慌てて窓から身を引っこめ、壁際に体を隠した。そして、カーテンの隙間から、恐る恐る通りの様子をうかがう。
マリアは、キョロキョロと周囲を見回しながら、達也たちがいる宿の前をゆっくりと通り過ぎていく。幸い、こちらの部屋に気づいた様子はない。そのまま角を曲がり、彼女の姿は夜の闇へと消えていった。
「……はぁ……はぁ……」
マリアの姿が見えなくなり、達也はようやく詰めていた息を吐き出した。全身から力が抜け、その場にへたり込みそうになる。助かった…見つからなかった…。
しかし、安堵と同時に、新たな疑問と不安が嵐のように達也の心を襲う。なぜマリアがリベルにいるんだ? アザリアからリベルまでは馬車でも数日かかったはずなのに。彼女はどうやって移動してきた? そして、何のために? 本当に俺を探しているのか? それとも別の目的が…?
達也が窓際で青ざめ、動揺している様子に、ベッドの上にいたリリアが気づかないはずはなかった。
「ねえ、どうしたの? そんなに慌てて。窓の外に何かいた? もしかして、怖い魔物でも見ちゃった?」
リリアが、ベッドから身を乗り出して、心配そうに(あるいは面白そうに)尋ねてきた。
達也は、今見たことをリリアに話すべきか、一瞬迷った。




