初めての対面
マリアの言う「守秘義務」という言葉。それが本当か、ただの言い訳か、達也には判断がつかない。だが、このまま引き下がるわけにもいかなかった。もし本当に危険なトラブルに巻き込まれたのだとしたら、自分にも火の粉が飛んでくる可能性がある。
「トラブル、ね…」達也はわざとらしく繰り返した。「どんなトラブルか知らないが、もしそれが危険なことで、俺まで巻き込まれるようなことなら、話は別だ。ここで立ち去ってもらうわけにはいかないな」
ドア越しに、マリアがため息をつくのが聞こえた。
「…君は本当に疑り深いな。まあ、賢明なことだとは思うが」
少し間があった後、マリアは観念したように話し始めた。
「…仕方ないか。君も無関係ではいられないかもしれないしな。いいだろう、話そう」
声のトーンが少し真剣味を帯びる。
「実は、少し前に魔物に襲われたんだ」
「魔物…?」達也の背筋に、わずかな緊張が走る。ファンタジー世界の定番だが、実際にその単語を聞くと現実味が増す。
「ああ。それも、かなり厄介なやつにだ。本来通るはずだった街道近くの森で、予期せずグリフォンの縄張りに足を踏み入れてしまったらしい」
「グリフォン!?」
達也は思わず声を上げそうになった。グリフォンといえば、鷲の上半身とライオンの下半身を持つ、伝説上の強力な魔物だ。ゲームや物語の中だけの存在だと思っていたが、この世界には実在するらしい。
「ああ。幸い、私の腕が良かったのか、運が良かったのか…なんとか逃げ切ることはできた。だが、その戦闘と逃走の過程で荷物の一部を失い、方角も完全に見失ってしまった。それで、気づけばこんな草原をさまよっていたというわけだ」
マリアは淡々と語ったが、その声には隠しきれない疲労の色が滲んでいるように達也には感じられた。
(グリフォン…マジか。そんなヤバいのがいるのか、この世界…)
グリフォン――その単語の持つ響きは、達也の警戒心をさらに高めると同時に、奇妙なリアリティをもたらした。この世界が、ただのどかなだけの場所ではないことを、嫌でも理解させられる。そして、そんな危険な生物から逃れてきたというマリアの話は、嘘にしては具体的すぎるように思えた。
(…このままじゃ埒が明かない。それに、魔物の情報も含めて、この世界のことをもっと知る必要がある)
最悪、襲われたとしても、この狭い車内でドアチェーンがあれば、ほんのわずかでも時間が稼げるかもしれない。護身用のスプレーとレンチはすぐ手に取れる位置にある。
達也は深呼吸を一つして、意を決した。
「…分かった。少しだけなら、顔を見て話そう」
ドア越しに、マリアが息をのむ気配がした。
「ただし、チェーンは外さない。それと、変な真似は絶対にするなよ。何かあれば、こっちにも考えがある」達也は最大限の警告を発しつつ、慎重にドアロックを解除し、チェーンがかかった状態でゆっくりとドアを数センチ開いた。
ギィ、とわずかに軋む音と共に、外の光と風が車内に流れ込む。そして、隙間から覗く傭兵マリアの顔が、初めて達也の目に映った。
フードの下から現れたのは、達也が想像していたよりも若い、おそらく二十歳前後の女性の顔だった。日に焼けた健康的な肌に、鳶色の大きな瞳。長いまつげに縁取られたその瞳は、傭兵らしく鋭い光を宿しているが、同時に深い疲労の色も浮かんでいる。亜麻色の髪は無造実に後ろで一つに束ねられていた。整った顔立ちと言っていいだろうが、今はそれ以上に、警戒と、わずかな好奇心がその表情を支配していた。
マリアの方も、ドアの隙間から覗く達也の姿――小柄な少女の姿――を見て、少し驚いたように目を見開いた。
「君は…子供、か? しかも女の子…?」
その声には、侮りではなく、純粋な驚きと心配のような響きがあった。
「…見た目通りだと思うなよ」達也はぶっきらぼうに返す。少女の姿であることは、できるだけ意識の外に置きたかった。「それより、用件は道案内だったか? アザリアとかいう町への」
マリアは一瞬、達也の不機嫌そうな態度に戸惑ったようだったが、すぐに気を取り直して頷いた。
「ああ、そうだ。この辺りの地理について、何か知らないだろうか? 特に、街道や、安全に野営できる場所など…」
顔を合わせたことで、少しだけ空気が和らいだ…とは言い難いが、少なくとも互いの存在を認識し、直接言葉を交わせる状況にはなった。
達也はチェーン越しの短い距離でマリアの鳶色の瞳をじっと見つめながら、頭の中で情報の取捨選択を始める。どこまで話し、どこまで隠すか。そして、マリアから何を聞き出すべきか。
チェーン越しの短い距離。達也はマリアの鳶色の瞳を真っ直ぐ見据え、口を開いた。
「…分かった。アンタが道に迷っているのは事実らしいな。だが、ただで教えるほどお人好しじゃない」
達也は、わざと少し尊大な態度を取ってみせる。相手に主導権を渡さないための、彼なりの処世術だ。
「俺も、実は少し困っていてね。こっちも知りたいことがある。どうだ? お互いの持っている情報を交換する、というのは」
マリアは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに傭兵らしい打算的な笑みを口元に浮かべた。
「ほう、取引か。面白い。いいだろう、その話、乗った」
「話が早くて助かる」達也は頷き、咄嗟に考えた嘘の設定を口にした。「俺は…この近くのハルカ村の者だ。俺は田舎者なんでね、薬草を採りに森の近くまで来たんだが、慣れない場所でな、帰り道が分からなくなっちまった」
「ハルカ村?」マリアは眉をひそめる。「聞いたことがない名だな…。まあ、小さな村なら無理もないか。それで、その奇妙な…箱のようなものは?」マリアは明らかにキャンピングカーに興味津々な視線を送る。
「ああ、これか?」達也はキャンピングカーの壁を軽く叩く。「これは…親父の趣味で作った移動式の小屋みたいなもんだ。たまたま近くに置いてあったから、雨風をしのいでいただけだ。田舎じゃ、たまに変なもん作るやつもいるんだよ」
かなり苦しい言い訳だが、この世界の人間にとってキャンピングカーは未知の存在のはずだ。多少おかしな説明でも、そういうものかと納得してくれる可能性に賭けるしかない。
マリアは腑に落ちないという顔をしながらも、「そうか…」とだけ呟いた。今はそれよりも情報交換の方が重要だと判断したようだ。「それで、取引だったな。どちらから話す?」
「アンタからだ」達也は即答した。「俺が知りたいのは、まずここがどこなのか。この草原の名前とか、特徴とか。それから、アンタが向かっているアザリアとかいう町と、元いたリューン?とかいう都市について。あと、街道の場所と…さっき言ってたグリフォン以外の危険な魔物についてもだ」
矢継ぎ早に質問を繰り出す達也に、マリアは少し呆れたような顔をしたが、「分かった、分かった」と手を軽く振って制した。
「まず、ここは『ため息の草原』と呼ばれている。昔、何か悲しい出来事があったとかいう言い伝えだが、詳しくは知らない。ただ、見ての通り広大で、方角を見失いやすい厄介な場所だ」
「ため息の草原…」達也はその名前を記憶に刻む。
「街道は、ここからだと…おそらく真東に半日ほど歩けば、南北に走る主要街道に出られるはずだ。私もそこを目指していたのだが…」マリアは少し悔しそうに付け加えた。
「アザリアは、その街道を北に数日行ったところにある中規模の商業都市だ。職人ギルドが有名でな、色々な仕事が見つかると聞いて目指している。リューンは逆に街道を南に下った場所にある大きな港町だ。活気はあるが、少々荒っぽい連中も多い」
「ふむ…」達也は真剣な顔で聞き入る。初めて得る具体的な地名と情報だ。
「危険な魔物についてだが…この草原自体には、グリフォンのような大型の危険種はあまりいないと言われている。夜行性の牙狼の群れや、地面に潜む大百足には注意が必要だがな。街道沿いなら比較的安全だが、森や山には当然、もっと危険な魔物もいる。ゴブリン、オーク、そして場所によってはワイバーンなども…まあ、傭兵でもなければ近寄らない場所だが」
マリアはよどみなく情報を語る。少なくとも、地理や魔物に関する知識は確かなようだ。
「…なるほどな」達也は頷く。「大体のことは分かった」
「さて、次は君の番だ」マリアは値踏みするような目で達也を見た。「ハルカ村について、もう少し詳しく教えてもらおうか。どの辺りにあるんだ? それと、薬草採りと言ったが、どんな薬草を探していたんだ?」
嘘をつき通すための、最初の関門が訪れた。




