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[翌朝 / リベルの安宿「銀の寝床亭」の一室]
差し込む朝日で、達也は自然と目を覚ました。昨夜はリリアに抱きつかれたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。腕の中(というより隣)を見ると、リリアはまだ静かな寝息を立てて眠っていた。長い銀色のまつ毛が、白い頬に影を落としている。こうして眠っていると、昨夜までの悪戯っぽい表情や、人を食ったような態度は鳴りを潜め、本当にただの幼い少女のように見える。
(…結局、こいつのペースに巻き込まれっぱなしだな…)
達也は苦笑しつつ、リリアを起こさないように、そっとベッドから抜け出そうとした。昨夜の疲れはまだ残っているが、体はだいぶ楽になっている。
しかし、達也が身を起こしかけた、その時だった。
眠っているはずのリリアの眉間に、深い皺が刻まれ、苦しげな表情が浮かんだ。そして、うわ言のように、か細い声が漏れ始めた。
「……やめて……違うの……私は……そんなつもりじゃ……」
最初は聞き取れないほどだったが、その声は次第にはっきりとしていく。明らかに悪夢にうなされているようだ。
「……お願い……そんな目で見ないで……違う……違うって言ってるのに……!」
リリアはぎゅっと目を閉じ、首を小さく横に振っている。その声は怯え、そして悲痛な響きを帯びていた。
「私は……化け物なんかじゃない……! 人を傷つけたいわけじゃ…! だから……お願い……! いや……っ……!」
最後は、ほとんど悲鳴に近いような、切ない嗚咽になった。
「リリア…?」
達也は、リリアのあまりにも苦しげな寝言に、思わず息をのんだ。昨夜までの、あの掴みどころのない、いつも飄々としていた(ように見えた)彼女からは想像もできない姿だった。「化け物じゃない」――その言葉が、達也の胸に重く突き刺さる。彼女が抱える闇、過去の傷の深さを、垣間見た気がした。
(こいつ……いつもあんな風にヘラヘラしてるけど、本当は、ずっとこんな悪夢に……)
リリアに対して抱いていた怒りや羞恥心は、いつの間にか消え、代わりに純粋な心配と、わずかな同情のような感情が湧き上がってくるのを達也は感じていた。そっと肩を揺すって起こしてやるべきか、それとも…。
達也がどうすべきか迷っているうちに、リリアは自身のうわ言で、はっと目を開けた。その赤い瞳には、一瞬、悪夢の残滓である怯えと混乱の色が浮かんでいたが、すぐに目の前にいる達也の姿を認め、ハッとしたように表情を取り繕った。
「ん……あれ……? おはよう……」
いつもの、少し眠そうな、甘えるような声。しかし、達也にはそれが少し無理をしているように聞こえた。
そして、リリアは体を起こすと、まるで悪夢を振り払うかのように、あるいは安心を求めるかのように、まだベッドの端に座っていた達也の体に、ぎゅーっと抱きついてきた。
「……」
温かい(いや、吸血鬼だから少しひんやりしているかもしれない)体が密着する。甘いような匂い。昨日までなら、達也はパニックになって抵抗していただろう。しかし、今は違った。
もちろん、まだ顔は少し赤くなるし、心臓もドキッとはする。だが、先ほどの苦しげな寝言を聞いた後では、リリアのこの行動が、まるで拠り所を求める子供のように感じられたのだ。
(……もう、慣れてきた、のかね…俺も)
達也は内心でため息をついた。激しい拒絶をする代わりに、少し困ったような、それでいてどこか彼女を哀れむような複雑な気持ちで、腕の中で自分に顔をうずめている(ように見える)リリアの背中を、撫でることはしないまでも、ただ黙って受け入れていた。もはや、彼女を完全に突き放すことはできないような気がしていた。
達也の心境に、確かな変化が訪れていた。それは、警戒心が完全に消えたわけではないが、リリアという存在を、単なる厄介な同居人ではなく、何か別の、もっと複雑な感情を持って見始めている証拠だったのかもしれない。
「おはよう。…飯にするか」達也は努めて普段通りに声をかけた。宿の朝食は別料金なので、手持ちの食料で済ませることにする。
達也はアイテムボックスからカラフルなパッケージの物体を二つ取り出した。リリアはそれを初めて見るようで、「え? それは何だい? また新しい保存食かい?」と不思議そうに見つめている。
「ああ。『カップラーメン』っていうんだ。これも俺の故郷の食べ物でな」達也は説明しながら、カセットコンロでお湯を沸かし始めた。「この紙でできた容器の中に、乾燥した麺とかいう食べ物と、味付けの粉が入ってるんだ。で、ここにお湯を注いで、蓋をして3分待つだけで…」
達也が実際にお湯を注ぎ、蓋をして待つ様子を、リリアは信じられないものを見る目で追っていた。「お湯を入れるだけ!? それだけで食べられるようになるのかい!? まるで魔法だわ…!」と、初めて見るインスタント食品の仕組みに目を丸くして驚いている。
やがて3分経ち、達也が蓋を開けると、湯気と共に醤油の良い香りがふわりと漂った。リリアは「おお…! 本当に湯気が! 匂いもいい!」と感嘆の声を上げる。
「ほら、これも美味いと思うぞ。熱いから気をつけろよ」達也がフォークを渡すと、リリアは恐る恐る、しかし好奇心いっぱいに麺を啜った。「ん! これも美味い! 昨日のカレーとは全然違う味だけど、このスープの味も…なんだか癖になるな! あなたの故郷はどうなってるんだい!?」と、興奮気味に感想を述べた。
食事をしながら、達也は昨夜保留にした件について切り出した。
「なあ、リリア。昨日の返事だけど…アンタが言うみたいに、危険なことに巻き込まれるかもしれないのは、正直怖い。でも…まあ、一人でいるよりはマシかもしれないし、アンタが色々教えてくれるなら…その、なんだ…一緒に行動するのも…やぶさかではない、かな…」
しどろもどろになりながらも、達也は同行を受け入れる意思を伝えた。
「! 本当に!?」リリアはパッと顔を輝かせた。「やった! じゃあ、改めてよろしくね、タツヤ!」(結局、名前で呼ぶことにしたらしい)
「…ああ。よろしく。でも、変なことしたら即解消だからな!」達也は釘を刺す。
「はーい」リリアは楽しそうに返事をした。
***
朝食を終え、部屋を片付けた二人は、今日の目的である商業ギルドへと向かった。昨日仮登録を済ませた窓口へ行き、本登録をしたい旨を伝える。
「本登録には、簡単な読み書き計算能力の確認が必要です」
男性職員が言い、一枚の羊皮紙とペン、インク壺を差し出した。そこには、いくつかの計算問題が、達也には全く読めない異世界の文字と数字で書かれていた。
(うわっ、やっぱり読めない…! 数字も形が違うし、どう書けばいいんだ…!)達也は内心で青ざめた。昨日リリアに代筆してもらったが、いつまでも頼るわけにはいかない。
「どうかなさいましたか? 簡単な問題のはずですが」受付の男性が怪訝な顔で達也を見る。
「あ、いや…ちょっと待ってください」達也はそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、こっそりとカメラを起動した。(隣のリリアは「またそれ使うの?」と呆れたような顔で見ている)
達也はスマホの翻訳機能を使って、問題用紙にかざした。画面上には、問題文が日本語に翻訳されて表示される。(『銅貨3枚のリンゴ5個と銅貨2枚のミカン8個で合計は?』…計算自体は暗算でできるな)
問題は解答の記入だ。達也はスマホの翻訳アプリで、答えとなるアラビア数字に対応する異世界の数字の形を確認する。そして、意を決してペンにインクをつけた。
「えっと…この形は、こうか…?」
達也はスマホの画面と用紙を何度も見比べながら、震える手で、非常にぎこちなく、一画一画確かめるように、恐る恐る数字を書き始めた。まるで初めて文字を習う子供のように、線は歪み、インクが滲みそうになる。
「……(ぷっ…! なにそのミミズが這ったみたいな字! 下手くそすぎー!)」
隣のリリアが、吹き出しそうになるのを必死でこらえ、肩を震わせている気配がする。うるさい、と達也は内心で毒づく。
受付の男性も、達也のあまりに拙く、時間のかかる書き方を見て、少し眉をひそめたが、黙って待っていてくれた。(まあ、まだ幼い娘のようだし、字を習い始めたばかりなのかもしれんな…計算はできているようだし)と内心で解釈してくれたのかもしれない。
かなり時間はかかったが、達也はなんとか全ての解答(数字だけだが)を用紙に書き終えた。額には汗が滲んでいる。
「…は、はい、できました…」
息を切らしながら用紙を提出すると、受付担当者は、その拙い文字で書かれた解答を一瞥し、計算自体は正確であることを確認した。
「…ふむ。時間はかかりましたが、計算は合っていますな。読み書きは…まあ、これから勉強すればよろしいでしょう。よろしい、合格です」
少しだけ複雑そうな顔をしながらも、彼はそう言って正式な「商人ギルド登録証(木札)」を達也に手渡した。
「ありがとうございます」達也は登録証を受け取り、少しだけ誇らしい気持ちになった。
「では、最後に」職員は居住まいを正し、リベルでの商業活動に関するルールや注意点について、詳しく説明を始めた。
「まず、我々商業ギルドは、登録商人への情報提供、商人間の紛争仲裁、取引における信用保証などを行いますが、それには所定の手数料がかかります。また、ギルドが運営する共同倉庫や運送依頼なども利用可能です」
「次に税金ですが、リベルでは売上高に応じて一定の税率が定められており、定期的にギルドを通じて都市に納めていただく義務があります。脱税行為は厳罰に処せられますのでご注意を」
「禁止されている取引もいくつかあります。奴隷の売買、禁制の魔道具や薬品の扱い、他ギルドとの協定に反する悪質なダンピング行為や詐欺などは、発覚次第、登録抹消および処罰の対象となります」
「また、リベルは自由な街ですが、地区ごとに暗黙のルールや危険度も異なります。特に港地区での夜間の取引や、亜人街での商習慣の違いには十分注意してください。トラブルに巻き込まれても、ギルドが常に介入できるとは限りません」
「その他、新人商人向けの講習会も定期的に開催しておりますので、よろしければご参加ください。ギルド内の掲示板には、商人向けの依頼なども…」
職員の説明は、丁寧だが事務的で、かなり長々と続いた。達也は真剣に耳を傾け、時折リリアに小声で意味を確認しながら、頭の中に情報を叩き込んでいく。異世界で「商人」として生きていくことの複雑さと厳しさを、改めて実感していた。隣のリリアは、最初のうちは聞いていたが、途中からは完全に飽きた様子で、指でテーブルを叩いたり、欠伸を噛み殺したりしていた。
長い説明が終わり、二人がようやくギルドの外に出た時、空は既に高く昇っていた。




