商業ギルド
ノートパソコンの前で、怒りと疲労に意識を失うように、達也はベッドに突っ伏して眠ってしまった。牢屋での恐怖、脱出の緊張、そして孤独感…限界を超えていた心と体は、深い眠りを求めていた。
***
[2023年4月30日 朝]
コンコン、と控えめなドアのノック音で、達也はゆっくりと意識を取り戻した。体を起こすと、窓から明るい朝日が差し込んでいる。どれくらい眠ったのだろうか。
「お嬢ちゃん、起きてるかい? 朝ごはんを持ってきたよ」
ドアの外から、宿の女将の優しい声が聞こえる。達也は慌てて寝癖を直し、ベッドから降りてドアを開けた。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
女将はにこやかに言いながら、湯気の立つスープと焼きたてのパンが乗ったお盆を部屋の小さなテーブルに置いてくれた。「さあ、熱いうちにお食べ。昨日も大変だったんだろう?」
「あ…ありがとう、女将さん…」
達也は差し出された温かい朝食に、思わず胸が熱くなった。昨夜の親切といい、この女将は本当にいい人なのかもしれない。
達也が朝食に手をつけると、女将は心配そうな顔で隣に座り、「それで…これからどうするつもりなんだい?」と切り出した。「お金もないみたいだし、見たところまだ若いお嬢ちゃんが一人で、このアザリアでやっていくのは本当に大変だよ。 何かアテでもあるのかい?」
女将の真摯な問いかけに、達也はスプーンを置いた。一晩眠り、少し冷静になった頭で考えていた。この女将になら、少しだけ話してもいいかもしれない。いや、むしろ、この状況を打開するには、誰かの助けが必要だ。
「あの…女将さん」達也は意を決して顔を上げた。「実は、私には、ちょっとだけ特別な力があるんだ」
「特別な力?」女将はきょとんとしている。
達也は周囲に人がいないことを確認し、女将にだけ見えるように、そっと手をかざすフリをした(実際にはアイテムボックスを操作している)。そして、昨日通販で購入した胡椒の入った小さな袋を、何もない空間から手のひらの上に出現させてみせた。
「これは…『アイテムボックス』っていう、空間に物を仕舞ったり、取り出したりできる力なんだ。だから、手ぶらに見えても、少しは荷物を持ってる」
女将は、達也の手のひらに突然現れた小袋を見て、一瞬、目を丸くして息をのんだ。しかし、すぐに「ほう…」と深く頷いた。
「アイテムボックス持ちかい。なるほどねぇ、どうりで昨日もあんな物珍しいペンを持っていたわけだねぇ。噂には聞いていたけど、実物を見るのは初めてだよ。それは…確かに大変な力だけど、使い方によってはとても便利だろうねぇ」
意外なほど、女将は落ち着いて受け止めてくれた。
その反応に少し勇気づけられ、達也は続けた。
「だから、この力を使って、私の村…故郷の珍しい品物――例えば、この胡椒みたいな香辛料とか――を少しずつ売って、お金を稼ごうと思ってるんだ。それで、ちゃんとした商人として、いつかはこの街でやっていきたいと考えてる」
女将は達也の話を真剣な顔で聞き、そして感心したように、しかし同時に心配そうに言った。
「なるほどねぇ、商人になりたいのかい。偉いじゃないか。その力と、お嬢ちゃんの故郷の品物なら、面白い商売ができるかもしれないね」
そこで、女将はふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね。あんた、名前はなんて言うんだい?」
突然名前を聞かれ、達也は少し考えた。マリアには本名を名乗ったが、この女将さんにも正直に言うべきか? 少し迷ったが、隠す理由も特にないかと思い直し、正直に答えた。
「…タツヤ。シバ・タツヤだ」
「タツヤかい。少し変わった響きだけど、良い名前だね」女将は優しく微笑み、改めて表情を引き締めた。「でもね、タツヤちゃん。アザリアで本格的に商売をするなら、まずは商業ギルドに登録して、許可を得ないといけないよ。それに、アイテムボックス持ちだってことは、絶対に他の人にペラペラ喋っちゃダメだ。昨日も少し話したけど、悪い奴らに目をつけられたら、本当に厄介なことになるからね。その力は、慎重に使うんだよ」
女将は、母親のような口調で、現実的なアドバイスと心からの忠告を与えてくれた。
「商業ギルド…」達也はその言葉を繰り返す。
女将の理解と具体的なアドバイスを得て、達也の心に、絶望だけではない、微かな希望の光が差し始めた気がした。まずは、この胡椒をどこかで売ってみるか? それとも、商業ギルドとやらに行ってみるべきか? 達也の異世界での商人への道(?)が、お人好しの女将の助けを得て、少しだけ輪郭を見せ始めた瞬間だった。




