無一文
アザリアの街の片隅、湿った路地裏で、達也はしばし呆然としていた。キャンピングカーを取り戻せた安堵感と、一人きりで追われる身という絶望的な状況。感情がぐちゃぐちゃになり、涙も枯れ果てていた。
(…とにかく、落ち着け俺。状況を整理しろ)
達也は深呼吸し、震える手でノートパソコン…ではなく、スマートフォンを取り出した。さっきキャンピングカーを収納できた、この謎めいたデバイス。
(アザリアに長居は危険だ。魔女疑惑がどうなっているか分からないし、衛兵も俺を探してるかもしれない。でも、すぐに出るにしても、どこへ? まずは安全な場所で情報を集めて、少し休まないと…)
達也は先ほど勝手に起動した地図アプリを開いてみた。驚くべきことに、アザリアの街の詳細な地図が表示されている。自分の現在地も示されているようだ。
(なんだこのアプリ…ネットじゃ地図は見れなかったのに…まあ、理由は後だ。今は使えるものは何でも使う)
達也は地図を拡大し、「宿」やそれに類する建物のアイコンを探した。いくつかある中で、現在地から比較的近く、大通りから一本入った裏通りにある、小さな宿屋らしきアイコンに目星をつける。
(よし、とりあえずあそこを目指そう)
フードを深く被り直し、スマホの地図を頼りに、人目を避けながら裏通りを選んで歩き始める。しかし、すぐに問題にぶつかった。通りにはいくつか看板が出ているが、書かれている文字が全く読めないのだ。
(そうだよな、異世界なんだから…これじゃ宿の名前も分からない)
困り果ててスマホの画面を見つめていると、ふと翻訳アプリのアイコンが目に入った。これも異世界に来る前からスマホに入っていたものだ。
(まさか、これも…?)
ダメ元でアプリを起動し、カメラ機能を選択。そして、目の前にある古びた木の看板に向けてみた。すると…
画面の中で、看板に書かれた見慣れない文字の上に、**【旅人の休息所】**という日本語の文字が、ARのようにリアルタイムで重なって表示された!
「うわっ!? マジかよ!?」
達也は思わず小さな声を上げた。コンパス、地図、そして翻訳まで…。このスマホ、明らかに普通じゃない。転生の際に何か特別な力が宿ったのか? 理由は不明だが、今はただその機能に感謝するしかない。
翻訳機能のおかげで、目的の安宿「木陰亭」の看板を無事に見つけ出すことができた。しかし、達也は宿の古びた木のドアの前で立ち止まる。
(この格好じゃ、怪しまれるよな…元の世界の服に、急いで買った外套じゃ浮くだろうし)
まずは、この世界の一般的な服装に着替える必要がある。達也は再び異世界通販を開き、アザリアの街で浮かないような、シンプルな子供(少女)用の旅装束を探した。古びたチュニックとズボン、丈夫そうな革のブーツ、そして目立たない色のマント。一式で8,000円ほどだ。
(よし、これを…)
購入しようとして、ふと自分の口座残高の表示が目に入った。そこに表示されていた数字を見て、達也は血の気が引いた。
「……え? うそ、だろ…? 残り、9万ちょっとしかない!?」
ポーション代、診断の巻物、ホワイトガソリン、バンドソー、外套…そして今回の服代。命や自由には代えられないと使ってきたが、塵も積もれば山となる。転生前の貯金は、既に危険水域に達していた。
(やばい! このままじゃすぐ金が尽きる! ホワイトガソリン代も高いし、宿代だってかかるのに!)
強烈な焦りが達也を襲う。何か、金を稼ぐ方法を見つけなければ…。その時、達也の頭にある考えが閃いた。
(そうだ…通販で買ったものを、こっちで売れば…? この世界の物価は分からないけど、元の世界の物で、こっちにないものなら高く売れるんじゃ…?)
例えば、香辛料。特に胡椒は、中世ヨーロッパでは金と同じくらいの価値があったという話を聞いたことがある。
(試してみる価値はある!)
達也は焦りを抑え、服と一緒に、アイテムボックスに入れても嵩張らない小袋入りのブラックペッパー(ホールと挽いたもの、数種類)をいくつか購入した。合計で1,500円ほどの追加出費だが、これが金になるなら安いものだ。
これで少しは目立たないだろう。達也は、人気のない路地を選んで素早く新しい服に着替えた。少しぶかぶかだが、元の世界の服よりはずっとこの街に馴染んでいるように見える。
深く息を吸い込み、達也は安宿「木陰亭」の古びた木のドアへと、今度こそ手を伸ばした。心の中には、不安と、わずかな希望、そしてささやかな企みを秘めて。
――とその時、達也の思考に、雷に打たれたような衝撃が走った。
(待てよ……? あれ……? 俺、そういえば……)
これまでの出来事を思い返す。マリアとの会話。騎士たちとの対峙。商人一家とのやり取り。その全てが、ごく自然な日本語で行われていたことに、今更ながら気づいたのだ。
(なんで……? 俺は普通に日本語で喋ってたし、マリアたちの言葉も、全部日本語に聞こえてたぞ……? 異世界なんだから、言葉が違うはずだろ!?)
異世界転生ものの定番として、言語の壁は当然あるものだと思っていた。なのに、自分はそれを全く感じていなかった。目の前の危機に対処することで精一杯で、そんな基本的な、そして最大級の疑問点に思い至らなかったのだ。
(スマホの翻訳アプリはカメラを使わないとダメだったし…じゃあ、なんだ? 転生した時に、なんか自動翻訳スキルみたいなものでも手に入れたのか? それとも、この世界の人間が、都合よく日本語を喋ってるってのか? いや、そんな馬鹿な…)
理由は全く分からない。だが、言葉が通じているのは事実だ。これもまた、この不可解な異世界転生における、大きな謎の一つだった。
(…まあ、いい。今は考えたって仕方ない。言葉が通じるなら、それに越したことはない)
達也は首を振り、目の前のドアに意識を戻した。新たな謎は抱えつつも、まずは今夜の寝床を確保するのが最優先だ。彼は意を決し、コンコン、と安宿「木陰亭」の古びた木のドアをノックした。
少しの間を置いて、ギィ…と年季の入った音を立ててドアが開いた。中から顔を出したのは、眠そうな目をこすりながら、ふくよかな体型に白いエプロンをつけた中年の女性だった。この宿の女将だろう。
「はいはい、どなた…って、あらあら?」
女将は、フードを被った小さな達也の姿を見て、少し驚いたように目を丸くした。「こんな夜更けにどうしたんだい? 小さなお嬢ちゃん」
達也は無言でフードを取った。女将は達也の顔(自分で見ても整っている方だとは思う、少女の顔だが)をまじまじと見つめ、次の瞬間、パッと顔をほころばせた。
「まあ! なんて可愛らしいお人形さんみたいなんだ! 迷子かい? それとも家出でもしてきたのかい?」
屈託のない笑顔で、女将は達也の頭を撫でようとしてくる。
「ち、違う! 迷子でも家出でもない!」
不意に容姿を褒められ(しかも少女として扱われ)、達也はカッと顔を赤くして俯いた。照れくさいやら、腹立たしいやら、複雑な気持ちだ。女将の手を慌てて避ける。
「あらあら、ごめんよ」女将は悪びれずに笑っている。「で、用件は何だい?」
達也は照れを隠すように、ぶっきらぼうな口調で言った。
「と…泊まりたいんだ。一晩だけでいいから。空いてるか?」
「泊まりたい? お嬢ちゃん一人でかい?」女将は少し訝しげな顔になったが、達也の身なり(新調したばかりの、しかし質素な旅装束)を見て、何か事情があるのだろうと察したのかもしれない。「ふーん…まあ、うちは安い宿だからね、ちゃんとしたベッドがあるわけじゃないけど、それでもよければ空き部屋はあるよ」
「それでいい。いくらだ?」
「そうだねえ、うちは食事なしで一晩、銅貨15枚だよ。もし朝食も付けるなら銅貨25枚。どうする?」
女将はそう言うと、カウンター(古びた木の台だ)の上に、指先で数枚の茶色くくすんだ硬貨を並べて見せた。それは中央に四角い穴が開いており、表面には何か模様が刻まれているようだが、よく見えない。これがこの世界の「銅貨」らしい。
「どうかって言われても…」達也は「銅貨」という単位に戸惑いつつも、とにかく支払わなければならないと思い、慌ててズボンのポケットを探った。そして、ごそごそと取り出したのは、転生前に使っていた二つ折りの革財布だった。
パタンと開き、中に入っている千円札や百円玉を見せる。
「これで…足りるか?」
「……?」
女将は、達也が差し出した奇妙な紙切れ(千円札)と、見たこともない模様が描かれた金属の円盤(百円玉)を、きょとんとした顔で見つめた。
「…お嬢ちゃん、それはなんだい? 見たことないお金だねぇ。悪いけど、そんなものじゃ泊めてあげられないよ。アザリアで使えるのは、ちゃんと王国が発行した銅貨か銀貨、あとは金貨だけさね」
女将は困ったように首を振った。
「え……?」
日本の通貨が全く通用しないという現実に、達也は呆然とその場に立ち尽くした。じわりと、また涙が滲んできそうになる。無一文。この異世界で、頼れるものもなく、今夜寝る場所さえない。
「そ、そうか…そうだよな…。ごめん、この国のお金、俺、一枚も持ってないんだ…」
達也は消え入りそうな声で、正直に打ち明けるしかなかった。
女将は達也の言葉に驚き、「ええっ!? お金も持たずに一人旅かい!? いったいどうしたんだい、親御さんは?」と目を丸くして心配そうに尋ねてきた。
「…色々あって…今は一人なんだ。行く当てもなくて…」
達也は俯き、しどろもどろになりながら、事情(もちろん嘘と部分的な真実を混ぜて)を説明した。
女将は腕を組んで「うーん」と考え込んでいる。困ったような、同情するような、複雑な表情だ。このままでは追い返されてしまうかもしれない。
(何か…何か、お金の代わりになるものは…?)
達也は必死にアイテムボックスの中身を思い浮かべた(女将にはポケットを探っているように見えただろう)。武器や高価なものは怪しまれる。食料は…。そうだ、あれなら!
達也はアイテムボックスから、一本のボールペンを取り出した。それは、元の世界ではどこにでも売っているような、ごく普通のノック式のボールペンだった。
「あ、あの!」達也はおそるおそるボールペンを女将に差し出した。「お金はないんだけど…これで、泊めてもらうわけにはいかないか? これは、その…俺の故郷の、ちょっと珍しい筆記具なんだ。インクも替えられるし…」
女将は差し出された奇妙な棒を、訝しげに手に取った。プラスチックという素材も、ノックするとペン先が出入りする仕組みも、彼女には初めて見るものだ。
「ほう…? 筆記具? 羽根ペンでもないのに、どうやって書くんだい?」
試しに近くにあった古びた帳簿の端にペン先を走らせてみると、力を入れなくても滑らかな線が引けることに、女将は「おやまあ!」と小さく声を上げた。
女将はボールペンを興味深そうにいじりながら、改めて達也の顔を見た。涙目で、困り果てて、それでも必死に訴えかけてくる小さな少女(に見える)の姿。そして、この物珍しいペン。
「……ふふ、しょうがない子だねぇ」
しばらくして、女将は諦めたように、しかしどこか楽しそうに笑った。
「アンタがあんまり可愛いし、そのペンも面白いから、今回だけ特別だよ。本当はダメなんだからね? さあ、部屋へ案内するよ。こっちにおいで」
「え…? ほ、本当か!?」達也は信じられないという顔で女将を見た。
「ああ、本当さ。ただし! 明日の朝には、ちゃんとこれからどうするのか、私に話すんだよ。いいね?」少しお説教じみた口調だが、その声は優しかった。
「あ、ありがとう! 本当にありがとう!」達也は女将に何度も深く頭を下げた。
女将に案内されたのは、屋根裏にあるような、狭くて少し古びた部屋だったが、掃除は行き届いており、清潔なベッドと小さな机がある。鍵を受け取り、ドアを閉めて一人になった瞬間、達也はドッと全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
(助かった……!)
なんとか今夜の寝床は確保できた。女将の温情に、心から感謝した。
しかし、安堵と同時に、今日一日の出来事が生々しく蘇ってくる。盗賊の襲撃、マリアとの共闘(?)、そして騎士たちの理不尽な「魔女」疑惑と拘束、牢屋の冷たさ…。
(あの騎士ども…! 俺が何をしたっていうんだ! 助けてやったのに、魔女扱いしやがって…!)
込み上げてくるのは、恐怖よりも、強い強い怒りだった。理不どのない仕打ちへの、抑えきれない憤り。
達也は怒りに震える手で、アイテムボックスからノートパソコンを取り出した。そして、ベッドの上に座り込み、今日味わった屈辱、恐怖、そして騎士たちへの燃えるような怒りを、感情のままにキーボードに叩きつけ始めた。それは、出来事を整理するというよりは、行き場のない感情を吐き出すための行為に近かった。
カタカタカタカタ…! 部屋には、達也の荒いタイピングの音だけが響いていた。




