金魚の泳いだ日
「なによ!アンタなんて、そんなマヌケそうで...愛されて育ってきたみたいな顔して!!」
「やめてください!」
「くそくそくそくそ」
どうしようか、と足元の惨状を見る。先程のお客さんがかなりの横幅があるはずの金魚桶を蹴り倒して行き、水は地面に染み込んで、金魚は跡形もなく消え去った。
これじゃ、売り物が無いんだから商売は成り立たない。
しゃがみこんで水がかかったことで少し湿った地面を撫でる。
ベトベトはしていない。どちらかと言うとサラサラとしている。なんとなく撫で続けていると、視界に白い毛が入ってきた。
「キュウン...?」
「あ、おまえ...澪さんに叩かれた跡は痛くない?」
「キュッ!」
突如姿を現した子狐の頭を撫でると、調子よさそうに鳴く。
「これは...大変なことになりましたね」
子狐の後に続くように現れた蜜はそう零した。
「蜜さん...蜜さんは、どこから金魚を仕入れるか、とか、どこに水道があるか、とかって知ってます、か?そこらへん、あたし、ちゃんと教えてもらってなくて...」
「ええ...まあ、そうでしょうね。大丈夫です。まずは木桶を正位置に戻しましょう」
大きくて、重そうに思えた木桶は、二人がかりでひっくり返し直す。思ったより、と言うよりかは何も無いかのようにそれは軽かった。
「澪さんの術…魔法は見たはずでしたよね?彼女のことだから水を使ったでしょうか。水に関して彼女に勝てる人は居ませんが、この木桶を満たす程度でしたら私でもできますのでご安心ください」
袖から透けている紙のおふだを蜜は取り出した。
蜜の目の前の空間にそれを貼ったかと思えば、不思議な紋様だけを残して紙は消えた。
『 』
ぼそぼそと蜜は目を瞑って何かを唱えた。
「わ」
桶の底から染み出してくるように水滴が生まれる。大きくなっていくそれは、やがて隣の水滴とくっつき一段と大きくなる。水滴だったものは水面を生み出し、桶を満たした。
瞠目、その言葉が今の私に相応しいだろう。澪が使った魔法は、漫画やアニメで見たことのないものだった。けれど、水を生み出すという単純で、でも絶対にありえない現象は私の中に魔法という概念を落ち着かせた。
「すごい…」
熱に浮かされるような声で呟く。
「そう言って下さりありがとうございます」
蜜はクスリ、と笑う。
「次は金魚ですね」
「あっ、そうだ…」
そうだ、金魚が一匹も居ない今の状態じゃ売り物が無くて、店番さえまともにできない。
「どこからか買って仕入れるんですか…?でもあたし、五千円しか持ってない…」
金魚の値段がいくらかさえ知らないが、きっと高校生のお小遣い程度でこの大きい桶を満たせるほどの量の金魚を買えるとは思えない。
「ここでは、貨幣に価値なんてありませんよ」
蜜は目を閉じ、続ける。
「もうすでに、瑠璃子さん…あなたは金魚を生み出せるはず」
何も言葉が出てこない。
「ね、思い出してください。体から金魚が出ていったこと、ありますよね?」
バチッ、手のひらほどの大きさの金魚を空中に泳がせた澪が脳内に浮かんだ。
「ぁ…澪、さん…」
「そうです、そして金魚をその眼で見たこともある…」
羽の言葉に従って金魚の個性を見たことを思い出す。
「は、ね…さん…」
「そう、その時の感覚を思い出してください」
ずっと見開いていた目を閉じる。この不思議な空間に来てからの三日間の記憶を必死に手繰り寄せる。
“その時の感覚”を思い出そうとしている頭に、一筋の光が差し込んだ。感覚を明確に思い出したわけではないが、なんとなく、ただなんとなく、こうすれば良いということが分かった。
神経を胸の前の辺りに集中させる。空気を凝固させるように…
地面を踏み締める音が隣から聞こえてきた。その後すぐに、桶の中からぽちゃん、という何か小さいものが水に落ちる音。
ぎゅっと懸命に閉じていた瞼を上げると、優雅に翻る赤色のヒレが目に入った。
急いで膝を折りたたみ、桶の中を確認した。
一匹、たったの一匹だけだけど、桶の中に金魚が泳いでいた。
「蜜さん!これ!」
「はい、正真正銘、瑠璃子さんの力で生み出した金魚です」
「えっ?!」
袖で口元を隠しながら微笑んだ後、蜜は一枚のおふだを手渡してきた。
「このままでは非効率的ですから。これをお使いください。“力”を込めるだけで大丈夫です」
草書体のような文字と、それに被さるように薄く不思議な紋様も描かれている。
「消耗品ですから、消えてしまっても気になさらないでくださいね」
貰ったおふだを顔に近づけたりしながら、まじまじと観察するあたしを見ながら、蜜はそう言った。
「えっ…あ、ありがとうございます…」
悪いな、と思いながらも、どうにもこちらの常識が通用しないことが見えていて、感謝だけを口にする。
「ふふ、どういたしまして」
元通り、金魚が何匹も泳いでいる桶を、小狐と一緒に眺める。
金魚を生み出す作業は、本当に不思議な光景だったと思う。
光が集まっては金魚の姿が空中に現れ、重力に従って水の中に落ちていく。蜜はすでにその場を去ってしまっていて、あたしとこの小狐だけがその光景を見ている。やっているあたしからしても不思議な光景だったのだから、第三者から見ればもっと不思議に感じるかもしれない。
ゆっくりと深呼吸をする。
この空間で暮らしている人は当たり前の光景かもしれない。そんな考えが浮かんだ。
事実、金魚が突然出現した時、蜜は驚いたようなそぶりを見せなかった。
「すごいねえ…」
前脚を桶に掛けている小狐の頭を触ると、鼻をあたしの手に押し付けるようにして頭を動かす。
「そういえば、おまえに名前はあるの?」
「きゅ、う?」
二人…いや、一人と一匹が同じように首を傾げる。
うーん、やっぱりこの小狐も普通の生物ではないだろう。異様に軽いし。
もふもふと小狐の体を弄っていたら、足音が聞こえた。
「お客様…」
さっきも見た人が現れた。
「ご、ごめんなさい」
根元のあたりが黒くなっている金髪のロングヘアが印象的な、桶を蹴ってひっくり返していった人だった。
「たこ焼き屋の人にも諭されて…カッとなって、この水槽を蹴っちゃって、ごめんなさい…」
ギャルっぽい見た目だからキレやすいのかと思っていたけど、根はとても良い人だ。何かしらがあるのだろうけど、それを推測するのは後回しだ。私がすべきことは…
「金魚掬い、遊んでいくだけでも、やっていきませんか」
謝罪を受け入れる言葉さえなく、迎え入れる言葉を口にしたからか、目の前の若い人はポカン、とした表情となる。
「いいん、ですか」
「はい、もちろん」
金魚を一匹は持ち帰ってもらうように、あの扇子には書かれていたけど、後回しだ。
ポイを手渡す。
「金魚掬いなんて、何年ぶりだろう…」
しばらく金魚たちを観察した後、出目金に狙いを定めた彼女はポイの紙を全て水につけて、上に持ち上げる。
予想通り紙は破れる。
けれど、とても満足そうな顔をしていた。
「ありがとうございます。楽しかった」
泣きそうな顔で彼女は言った。
おそらく、あたしと同年代であろう彼女はあたしより遥かに多い苦痛に悩まされている。
「また、いつでも遊びに来てください」
わずかな私の力で、彼女を慰めることはできない。ただ、なんとなく、心を少しでも支えることができたのなら良いなと思った。
「ありがとう、」
大粒の涙を流しながら、彼女は笑った。