個性を
「キャウッ!」
自身よりよほど大きい生物にぶたれた小狐は、為す術無く地面に転がった。
けだもの、風情?色々衝撃が大きくて、地面に横たわる小狐を唖然と見つめることしか出来ない。
「…貴女…るりこ、瑠璃子」
する、と赤い目の美女の手があたしの頬を撫でた。
「林檎飴屋の林檎飴、食べた?」
「え…ぁ、は、」
あたしを覗き込むその澄んだ瞳は、躊躇なく生物を打つ人の持つ物じゃないように見えて。
「蟇悟アアか螳晄ァサは来た?」
「ぉらは?おわぅるし?」
誰かを指しているはずの言葉は、耳鳴りがするように聞こえて聞き取れない。
「くそっ、遞イ闕キが…」
まただ。ところどころ日本語とは思えない言葉を美女は発する。
「…貔ェ髻ウ」
「え」
「今の聞き取れた?」
「あ、え…」
「貔ェ髻ウ」
「で、を?」
諦めのような、悲しみのような、そして怒りも混じったような感情をその瞳に宿した。
「…いいわ。私のことは林檎飴屋の連中は来たの?」
「林檎飴…あ、来ま、した」
「名前は聞いた?」
「えと、蜜、さん」
「蜜…なるほどね」
触れたままだったその白魚のような手をあたしから離し、一歩後ろに下がる。
「私のことは澪と呼んで」
みお、簡素だがとても似合っている名前だ。
「瑠璃子は蜜に何か貰った?」
「はい、不思議な林檎飴を」
色々不思議な林檎飴だった。瑠璃色に変わる飴、種子が無い林檎。そして、地面に溶けていった竹串。
「食べた?」
「美味しかったです」
「はあ…今度から貰ったものを安易に口にしないで」
「はい…?あ、」
明らかにお客さんではない振る舞いをする彼女であればこの不思議な空間について何か教えてもらえるかもしれない。
「竹串…とか、金魚とか…地面に溶けていったんですけど…あれって」
「魔法」
「へ?」
「魔法だと思って」
「ま、魔法?」
あたしの脳内に、ふわふわの衣装を着た女の子が召喚される。妙に装飾がついたステッキを振って、不思議な文言を唱えて…いやいや、アニメじゃあるまいし。
「信じられないわよね?…良いわ、見せてあげる」
ポカンとした表情のあたしに溜息をついた後、一歩、二歩と近づく。あたしと澪を足元で隔てていた金魚の桶に足をつっかけそうになった時、澪の足裏は空を踏んだ。
思わず息を呑む。そこに透明な何かがあるかのように澪の右足は空中で止まった。ふわり、と質量を感じさせない動きでもう一方の足も宙に浮く。…完全に、澪は浮いていた。
「深呼吸をして」
澪の足元ばかりに目を向けていたら、額同士がくっつきそうな程澪の顔が近付いていた。手を取られ、しっかりと握られる。その体温は、人間ではあり得ないほど冷たかった。でも、負の温度までいかないぐらいの、まるで常温の水のような感覚だった。
言われた通りに深呼吸をすると、花のようないい香りがした。
「目は閉じないで、体は動かさない。力も抜かないで」
流石に初対面のひとの顔がこんなに近くにある状態で目を閉じるほど警戒心がない訳がない。ただ、澪は目を閉じた。
「そう、そのまま…」
それだけ言うと澪は口を閉じる。
少し待っていると、異変に気づいた。
澪の手の芯がなくなった。水みたいな触感。そして、幽霊みたいにあたしの皮膚をすり抜ける。ただ、あたしの体全てをすり抜けているわけではない。まさか、あたしの体の中に入ってきている?
ひた、と額に冷たい感覚。澪の端正な顔が目の前に迫っていた。
「わ…」
びっくりして小さく声を上げる。
澪は動じず、あたしの体内に入ってきているであろう手を胴まで持ってくる。
あたしはもうパニックだ。動かすなと言われていたから何もできない。それがさらに脳内の困惑を加速させる。
ずるり。何かが体内から引き出される感覚がした。澪も閉じていた目を開き、あたしから離れていく。
石畳の道に降りた澪の両手には真っ赤な金魚が一匹、いた。
「これぐらいやったら魔法を信じられるかしら?」
驚き過ぎて言葉さえ出てこないあたしを横目に、金魚を泳がせながら澪は消えていった。
…疑問は解消されるどころか、増えてしまった。
「澪さん。不思議でしょう?」
「わ、」
「ふふ、すみません。あまりにも絵に描いたような絶句でしたので」
背後に蜜が立っていた。
屋台の中に入ってきているのにも気付かない程にあたしはびっくりしていたのだろうか。
「彼女、このあたりで一番の魔法使いなんです。私の師匠でもあるんですよ」
「え、蜜さんも、魔法、使えるんですか?」
「はい、私がかけたものではないですが、色の変わる林檎飴は魔法がかかっていたんですよ」
「へえ…」
なるほど。確かに不思議なものではあったが、その仕掛け自体が不思議なものだったとは。というか、このあたり?
「このあたり、ってことは…他にも人が居るんですか?」
「ええ、この金魚すくいの屋台と林檎飴屋のほかに、澪さんの浴衣屋、射的屋台、お面屋、たこ焼き…もし店番をしてくれる相方ができたら回ってみるのも楽しいかもしれませんね」
…突然、暗闇の壁に包まれていたように感じていたこの空間が、輝き始めたように感じた。心踊る夏祭りの屋台のお手本のようなラインナップじゃないか。
「お嬢ちゃあん、楽しそうに目を輝かせちゃって。そんなに“蜜”の言葉に惹かれちゃったぁ?」
左肩に何かが置かれる。それが人の腕だと気づくのに時間は掛からなかった。
「…店番は?」
「ウゼェ客が来たから追い出して閉めてきた」
「はあ?」
悠々とした表情がずっと変わらなかった蜜は眉を寄せる。まだ二回目の邂逅だが、とても珍しいものを見た気分になる。
「すみません、瑠璃子さん。鄙ッ…こいつの相手を少しお願いします」
「バイバーイ、蜜ゥ」
「鄙シッ」
蜜がこいつ、と指した背の高い男性はひらひらと蜜に手を振った。その広くも狭くもない蜜の背中が暗闇に隠されていった。
「さて…」
改めて、あたしの隣に立つラベンダーのような髪色をもつひとを見上げる。蜜と同じように薄く透ける布で鼻から下を覆っている。
「蜜から多少は僕のことは聞いているかな?林檎飴屋店主の…うん、羽と呼んでくれ」
「はね、さん」
猫を思わせる目尻が少し上がった目を羽は細めた。
「おや、瑠璃子ちゃん?神様がいらっしゃったようだ」
あたしを見下ろしていたレモンに少し蜂蜜を溶かした瞳を動かす。それに釣られて、あたしも視線を動かした。
「お客様…?」
「いらっしゃいませぇ!!今日はどんな“金魚”がご入用ですかねえ?」
黒髪を高い位置で纏めた背の高い女性が暗闇から姿を現した。とても姿勢が良く、凛としている。
「あ、クソ客ゥ!!」
「クソ客とはなんだい、クソ客ハァ?!」
羽が驚いたように声を上げると、その言い様にお客様は目を吊り上げた。
「久しぶりに来れたから林檎飴屋に寄ったんだけどねえ、 な ん で か 人がいなくてねえ」
「おかしいなあ、陷懆痩は居たはずなんだけどなあ?」
「そんな奴は知らないよ!あんたさんの助手さんならすれ違ったけどねえ」
「陷懆痩とすれ違ったんじゃん!ならこっちに来んなよ!」
「あたしも毎度林檎飴は飽きちまったからねえ」
「あぁ?僕の作った林檎飴に飽きたっつったか?」
「四回も行ってやったんだから感謝しな!」
「そりゃどうも、ありがとうごーざーいーまーすぅ!!」
言い合いがひと段落したらしい時に、思い切って口を挟んだ。これ以上店先で口論を続けられるのも困るからだ。
「えっと、すみません!ポイを、どうぞ!!」
羽がくそきゃく、と呼んだ女性はその澄んだ黒い瞳で私の顔を覗いてきた。
「…店主ゥ、こんな別嬪さん、まさか誘拐してきてたりしないよねえ?」
「ったりめーだろ、僕の方が美形だし」
「口を閉じな」
女の人はあたしのほっぺを掴み、もにもにと揉み始めた。
「…にしては、生気がある気がするんだよなあ」
「ふぇ?」
呟いた気がしたが、あたしには聞き取ることができなかった。
「ああ、ごめんね、ポイだね、ありがとう」
ポイを受け取るその手を見ると、風貌はネイルでもしてそうなのに、爪は短く切りそろえられていた。そしてその手は少しだけ荒れていて、詳しい訳でも無いが、あたしでも分かった。
「お母さん...」
「あら、よく分かったね。あたしはクソガキ三人の母親さ」
そして、からからと笑う。
「そうだねえ、もう男には飽き飽きだから、次は女の子が良いな。金魚屋の嬢ちゃん、女の子をサービスしてくれよ」
「えっ、は、はい!」
勢いで返事をしてしまったが、金魚の雌雄の見分け方なんて分からない。考えを巡らせていると、羽があたしの耳元で囁いた。
「オスメスを見ようとしないで。一人一人の個性を見分けるんだ。じっと、じっと、一人を見つめる...」
不思議な響きだ。羽の声とあたしの深い所の感性が共鳴しているかのように感じた。
それに逆らわず、されるがままになっていると、視界が狭くなるのを感じた。視界が狭くなるのと同時に、ふわりふわりと光が浮かび始めた。それが、羽の言う一人一人の個性なのだろう。
個性を見つめていると、女の子を見つけた。
「この、子...と、この子、あと...この子」
「お、本当かい?じゃ、」
浴衣の袖を肩まで捲りあげ、あたしが一番目に指差した金魚を狙う。
そこまで来たら、もう早かった。鮮やかにすくい上げ、ポイの上に乗った金魚は暴れ、ポイは破れてしまった。
「下手くそ」
「店主はあたしを嘲笑える程上手いのかい?そりゃあ見ものだね」
「あ、い、一匹はサービスなので...」
先程ポイを破った金魚を網で取る。水をたっぷり入れたビニールにその金魚を入れて口を縛ると、女性に差し出した。
「女の子でもポイを破る程やんちゃだと、困りものかもしれないねぇ。ま、大切にするよ」
困ったように眉を下げながら、でもどこか嬉しそうに笑いながら、女性はそう言った。
女性はまたね、とだけ言って帰ってしまった。羽も、すぐに林檎飴屋に戻っていった。
...うん、意外とやっていけるかもしれない。
そんな自信がどこからか湧いてくる。
そんなものはただの空想だった。