林檎あめ
「こんにちは、瑠璃子さん」
なんとも中性的で甘い声。脱力感に苛まれていた私の思考回路に染み渡る。
「あ、だれ、ですか」
「私は斜向かいの店の店員です。店主に代わって挨拶をしに来ました」
水晶のような綺麗な目の色。顔の下半分は布で隠されていて、よく分からない。ただ、少し透けて見えている為、その顔が作り物のように整っていることは分かった。
「お暇な時はいつでも歓迎いたしますので、遠慮なくいらっしゃって下さいね」
にこり、と目を細めた。
「あなたの名前って…」
「ああ、そうですね…蜜、とでも呼んで下さい」
蜜…
「女性なんですか?」
「?…ああ、生物学上は男性と言っても差し支えありませんね。女性だと思ってもらっても何ら問題はないですが」
よく観察してみると、背は男性の平均ぐらい、だけど妙に華奢。骨格や着物の着こなしは男性そのものなので、本人が言う通り、生物学上は男性で間違いはないのだろう。
「あ、じろじろ…すみません」
思ったことを口に出して謝罪しようとすると、ちゃんと文として成り立たない、奇妙な日本語を紡いでしまう。
「んふ、大丈夫ですよ」
あたしの言動や行動が蜜の瞳にどう映ったかは分からなかったが、蕾が綻ぶ瞬間のような美しい笑みを浮かべた。
「何か、あったのですか?」
…何か、で済まされないような出来事しかさっきから起こっていない。
気がついたら、家に帰っていた途中の筈なのに、知らない、本当にあたしの知らないところにいるところとか。この場所は、あたしが知っている法則が通用するとは到底思えない。そんな不思議な場所なのだ。
そして、梨菜。こちらの方があたしのメンタルを抉っているのだと思う。高校に入って以来の友達だが、彼女のほとんどを知っていると自負していた。かなり、仲が良かったのだ。でも、仲が良いだけで本当の彼女を全て知っていたわけではない。金魚をわざと殺すようなことをするような人間じゃないことだけは確かなんだ。だから、そうするしかない理由があるのだろう。いや、あの梨菜はそもそもあたしの妄想かもしれない。…それは、あたしが梨菜をそう思っているみたいで嫌だ。ぐるぐると、腹の中で重い考えが凝っている。
「何でも、ない、です」
こんなことは初対面の人に言うべきことじゃない。それぐらいの分別はできる。
「それを、私に言えないのは私と初めて会ったからですか?それとも、私が信用できませんか?」
「いや…!いえ、」
そんなに軽薄な見た目はしてないはずですが。と冗談のような口調で蜜は誤魔化す。
そのまま、蜜はしゃがみこんで、金魚の泳いでいる水の中に手を入れる。金魚達は彼の手から逃げていくと思われたが、戯れ付くようにその手に集まった。
「ですが...このように考えることも出来ます」
何も知らないからこそ、全てを喋ることが出来る。
甘い、甘い、蜜なんかじゃない。最初から甘さを持った毒も同然だ。だけれど、変な場所で縋れるものがあるならば縋りたくなるだろう。
ゆっくりと、群がる金魚たちを弄ぶかのように蜜は手を動かす。
「…」
気づいたら、口を開いていた。伝えることを目的としていない言葉達に、蜜は何も表情を動かさなかった。ただ、それが心地良くもあった。共感も否定もしないその視線はいっそ無機質さも孕んでいたが、それでよかった。
「そうですか」
あたしが全てを話し終わって大きく深呼吸をした後に、彼が発した言葉。やっぱり肯定も否定もしない。興味さえないのかもしれない。
「すっきりしましたか?…これはプレゼントです。あなたの為の」
一つの大きな林檎飴を蜜があたしに差し出す。どこから取り出したのかは見ていなかったが、少なくともあたしは彼が男性の握り拳一つ分ほどの林檎飴を持っているような膨らみを見つけることはできなかった。少し、怪訝そうな目で林檎飴を見つめてしまった。
「毒は入れてませんよ」
にこり、と蜜は目を細める。
蜜はあたしの手を取って、林檎に刺さった竹串を握らせる。血が通っていないのではないかと疑うことができるほど白いその手は、先程水に入れていなかった手さえもひやりと冷たかった。
…もしかしたら、このひとは人間ではないのかもしれないな。と、ストンと思う。こんなに周りが黒一色しかないのにものははっきりと見えるこの空間にいるんだ。不思議な生物がいても可笑しくはない。
器用にも蜜は私に竹串を握らせたまま林檎飴を保護していたプラスチックの袋を取り外していた。
「おお、綺麗な色ですね」
その袋が取り外された瞬間から、熟れた林檎の証明である黄色が混じった紅は上の方から深い青色へと変化していった。その魔法のような現象に釘付けになる。途中で、真っ赤な金魚が浮き上がって来たのも含めて、本当に信じられないような光景だった。
「店主が作ったんです。今日は挨拶に来れませんが、これだけは渡したかったみたいで」
「この、色って…」
「うちの林檎飴は色の変化が特色なんです。袋を外した瞬間に竹串を握っていた人の色に染まる仕掛けがしてあるんです。その瑠璃色は、瑠璃子さんの色ですよ」
どんな仕掛けなのだろうか、と思うも、目の前のひとは絶対に教えてくれないだろうという気がした。
「味にも自信があるので、ぜひ楽しんでくださいね」
前歯を立ててひと齧りすると、薄い飴が割れる軽快な音と共に砂糖の甘さと林檎の甘酸っぱさが口に広がった。
竹串の先端を見つめる。そういえば、学校でお弁当を食べてから何も食べていなかった。お腹は不思議と空いてはいなかったが。
夢中になって林檎飴を食べている途中で、蜜は音も無く姿を消していた。不思議なひとだ。
竹串の先端を見つめる。不思議と言えば林檎飴も。芯の部分や種が一切見当たらず、その代わりに甘酸っぱい果実が目一杯詰まっていた。林檎と彼は言っていたがこれもまた、あたしの知っている林檎とは違うものなのかも知れない。
…この竹串、どうやって処理すればいいのだろうか。ゴミ箱なんてもの見当たらないし、ポケットに入れておくのも一つの手だが…なんだか嫌だ。
「ごめんください」
伺うような、それでも芯が通った凛としている女性の声が耳に届いた。竹串の処理に困っている間に店前に来ていたみたいだ。
「すみません!」
びっくりして立ち上がると共に、竹串を取り落としてしまった。重力に逆らわないそれは踏み固められ乾き切った土に落ちていく。拾おうとする間もなく地面に到達した竹串は白くなって溶けていった。…あの、梨菜の金魚の時みたいに。
ひゅ、と息を呑んだ。
「えっと、どうしたんですか?」
「な、んでも、ありません」
接客中だったことを忘れていた。すぐに女性に向き合う。
中背で、少し痩せ気味。茶色の質素めな浴衣は、華やかな帯を目立たせている。
…竹串と、金魚は同じものなのか?摩訶不思議な出来事が目の前で起きて、そちらに思考を向けない事など出来ない。
金魚も、竹串も、一様に煙みたいに地面に溶けていった。
ポイを手渡す。女性は嬉しそうにポイを眺めた。
「よし!」
そう言って女性はしゃがみ込み、邪魔だったらしく肩ほどまでの髪の毛を耳にかけた。
その間もあたしは金魚と竹串から思考を離せない。だけれど、結論が出ないからか、だんだんと目の前の女性の行動に意識が移っていく。
「…この子、かな!」
華やかな尾をひらめかせながら悠々と泳ぐ赤の金魚に目星をつけたようだ。じいっ、と機会を窺っている。
「今だっ」
彼女のポイの先にその金魚が来た時に、少し水の中にポイを入れ金魚を掬い上げた。そして、金魚は彼女の手にいつの間にか収まっていた器の中に入った。
そう言えば、渡してないのに梨菜の時も水の入った器を持っていたな。
あたしはそれほど金魚掬いを遊んだこともないし、ましてや金魚掬いが得意ということもないけれど、目の前で金魚を掬い上げた女性はとても金魚掬いが上手だと思う。
足元に沢山転がっているビニールの一枚を拾い上げ、金魚桶の水をビニールの袋に入れる。
「貸してください」
そう言うと、嬉しそうに笑みを浮かべる女性は金魚が入っている器を差し出す。
入っている水と共に金魚をビニールに入れる。あまり大きくないビニールの中だと少し窮屈そうに見えるが、大きな尾のせいだろうから、金魚からしたらあまり窮屈ではないかもしれない。
「手を…」
それだけ言うと、ずいっ、と手首が目の前に出された。紐を引っ掛けると、女性はビニールの袋の中の金魚を眺める。
その喜びの表情といったら、今にでも鼻歌を歌いながらスキップをしだしそうだ。
そこでふと、扇子に書かれていたことを思い出した。
「ま、待って、少しお待ちください」
網を拾い、少し小さめな黒の金魚を掬い上げる。少し急ぎながら先ほどと同じように、ビニールの中に水と一緒にその金魚を入れる。
「店主からのプレゼントです」
「…あー、えっと」
困ったように眉を下げる。要らなかったのだろうか。
「私は、この子をちゃんと愛でてあげたいんです。だから、せっかくのご厚意ですが…」
「いえ!大丈夫です!」
袋の口を締めていた紐を緩め、水と一緒に小さい金魚を桶に落とす。ぽちゃん、と水が跳ねた。
「ありがとうございました」
「は、はい!またのご来店を、お待ちして、おりま、す…?」
こういう時はなんて言うのが正解なのだろう?心底、マニュアルみたいなものが欲しいが、あたしの手元にあるのは箇条書きで店の規則を書かれた扇子しかない。
「ふふ」
だけど、目の前の女性が気分を害したような様子はない。良かった。
「ありがとう...ようやくここに来ることが出来たんです。もしかしたら、また来ることは出来ないかもしれません」
とても悲しそうに目を伏せる。
「もし、また来ることが出来たら、夫も連れてきます」
...ここに来ることは、難しいのか?そんな疑問が湧き上がる。
そういえば、あたしはここに来る時、どんなことを、していた...
女性が頭を下げた。びっくりして思考が引き戻された。
「ありがとうございました」
そう、感謝され、ほっこりとした温かい気持ちが心に広がる。
「いえ…こちらこそ」
何もすることがない…木製椅子に座ってぼうっとしていると、肩に軽い何かが乗った。
「コン」
この屋台にあたしを導いてきた白い小狐が乗っていた。梨菜が来てから、いつの間にか姿をくらましていたのだ。あたしの感情の処理が追いついていなかったから気にする暇なんてなかったが。
小狐に手を伸ばすと、甘えるようにじゃれついてから、あたしの腕に乗り移る。不安定じゃないか?と思ったが、すぐに膝上に移動した。そしてこちらをじっと見詰めて来るものだから、なんだか愛しく思える。
「どこに行ってたんだよぉ」
「キュウン...」
まるで弁明するかのように鳴いたが、その真意を知ることは出来ない。
うりうりと突いたり小狐の頬を揉んだりして、手持ち無沙汰を誤魔化す。
...そういえば。あたしはここに来る時...
ここに来る時、下校途中だった。いつもより遅い時間だったから、急いでいて...富志稲荷神社という神社の前で、鈴の音がした。釣られるようにして境内に入っていって...暗転。
思い出してゾッとした。本当に信じられない出来事だ。
「お前は何か知っていることが無いの?」
「キュウン?」
小狐は不思議そうに首を傾げた。
家族が心配しているだろうし、明日も学校があるから帰りたいのだが…蜜に聞いてみるか?
うーん、と唸っていると、シャンッと鈴の音がした。神社で聞いたようなぼうっとするような音ではない。神経が研ぎ澄まされるような、脳に響く音だ。
同じ感覚で聞こえてくるその音はだんだんと近づいてくる。
石畳の道から女の人が姿を現した。
一目で抱いた感想は、アンティークドール。見事な金髪を持ったその美しい女の人は着物を着ていたが、とても似合っていた。優美な装飾がされた下駄から鈴の音が鳴っている。
吸い込まれるような赤い瞳が迷いなくあたしを見据える。儚げな雰囲気だがしっかりとした足取りでこちらへ向かってきた。
「あなた…」
一メートルも無いほどに近づいた時、その美女は口を開く。あたしはその長い睫毛が金色に輝いているのを場違いだが感動していた。
そういえば椅子に座ったままだった。ふと思い出したように立ち上がると、足場をなくした小狐はあたしの右肩に飛び乗った。
「チッ…獣風情が」
その美貌に似合わない言葉を吐き捨てるように言ったその人は、あたしの肩から小狐を叩き落とした。