ちりん
「瑠璃子~」
台所の方から、お母さんの声が聞こえてきた。靴紐を結ぶ手を止めて、返事をする。
「ん、なあにー?」
「最近...治安悪いみたいだし、タバコのお婆さんのとこの道、通らないようにしなよ」
廊下にひょっこりと首から上だけを出して、お母さんはそう言った。
「え~?駅から一番近道出来るのに...」
「命より大切な物は無いでしょ?」
それでも、部活で帰ってくるのが遅くなってしまうし、できるだけ早く休みたいのだ。ぶー垂れると、お母さんは宥めるように言葉を紡いだ。
「あっ、ヤバい。電車出ちゃう」
「いってらっしゃーい」
それだけ言って、お母さんは台所に戻っていってしまった。
なんとなく、その朝はいつも通っていた小道を通らずに、駅へと向かった。
「じゃね、瑠璃子!また明日ぁ~」
ショートカットにした髪を耳にかけながら、部活でできた友人は別れを告げる。彼女の自宅はもう二つほど駅を通過しなければならないらしい。
「またね」
彼女や他の部活のメンバーとお喋りをしていたら、いつの間にかいつも乗っていた電車を逃してしまっていた。だから、仕方なく、次の電車に乗ったのだった。連絡はしてあるが、いつも家族で食事をとっているので、待たせているだろう。早足で家に向かう。
「...どうしよう...」
煙草の匂いが充満する道で、立ち止まる。
朝、お母さんに止めておくように言われた小道。ここを通った方が、明らかに家に近いが...
迷うが、こうして迷って立ち止まっている時間の方が無駄だ。小道に足を向ける。
途中、いつもは虚ろな目をしたお婆さんが縁側に腰掛け、煙草をふかしているのが目に入った。何も感じていないかのような表情は、今日だけ、面白そうにニヤニヤと笑っていて、気味が悪かった。
できるだけ早足で、背を伸ばして、スマホのライトもつけて歩く。
その小道のおおよそ半分まで行った時だった。
シャン、
鈴の音が鼓膜に響いた。
花の香りがする。
おいで、おいで、と言われているようで。左手にあった、神社の石階段を登っていた。
境内は踏み固められた土で、ローファー越しに固い感覚が伝わってくる。
ふらふらと足を引き摺る。狐の石像が目に入った。
シャン、シャン、
鈴の音は間隔を狭めながら、響き渡る。花の匂いも、どんどんと強くなる。
頭が痛くなるほど鈴の音が鳴り続けた時、それまでとはまた違った鈴…いや、どちらかというと風鈴に近い物の音が鳴る。
ちりん。
視界が明るくなった。藤の花があたり一面に咲いて、その藤の花がぼんやりと光っているようだった。
鼻腔を擽る花の香りは、この藤だったのだろうか、と思う。
気づけば、街明かりを反射して少し明るい空は見えず、代わりに深淵があるだけで。白い光で地面を照らしていたはずの月も見当たらない。全体的に、赤い光が当てられているような感覚がした。
ぼうっと、明らかに異質なその空間の中で、私はほとんど思考できずに突っ立ったままである。
どれぐらい、経っただろうか。
ちりん。
誰かが、私の後ろにいる!
紛れもない、本能。普段の生活で全く動かないそれは、全身の体温を使って、警告を鳴らした。
「こぉんっ」
女の子の、声だ。
身体中、特に背中が痛い…まるで、フローリングの上で寝落ちしてしまったかのように…いや、それよりも酷いかもしれない。
あれ、あたし…なんで硬い床の上で寝てるんだ?
異様な事態が起きた。それだけがなんとなくわかった状態で、急いで起き上がった。
「キュウ…」
白くて、手のひらに乗せることができるであろうサイズの小狐が、あたしの隣に座っていた。
「は…」
私が寝転がっていた地面は、石畳で、どこまでも続いていた。わからない。ここから見えないだけで、終わりはあるのかもしれない。だが、十メートルも先は、暗闇に飲み込まれてしまっている。
嫌な予感がして見上げてみると、そこに知った空や天井はなく、ただ真っ黒だ。
「コンッ!」
「…何、着いてこいって?」
ちょこちょこと何歩か歩いた小狐は、あたしを振り向いて、一鳴き。あたしが投げかけた質問に答える様子はないが、またちょこちょこと歩きだす。
小動物でも、たった一人でいるよりかは心強い。そう結論付けて、それに続くようにしてあたしも歩き出した。
目的地はそんなに遠くはなかった。
石畳以外暗闇に飲み込まれている空間の中で、それは石畳にくっついているかのように存在していた。
よく、夏祭りで見かける屋台。その中でも子供たちに大人気であろう、金魚掬いの屋台だ。ただ、そこに人影は無く、たまに金魚がぽちゃん、と跳ねるだけ。
小狐は、その屋台の中へと入っていき、店主用であろう見窄らしい木の椅子の前でようやく止まった。
「コン」
その木の椅子の上には、金魚のイラストが描き散らされた和紙が置かれていた。
「これ、読めば良いの?」
「コン!」
今度の問いかけには答えるのか。
若干呆れながら和紙を手に取ると、いつも使っている紙と少し違う、ザラザラというか、ふわふわというか、そんな感触がした。
『瑠璃子さんへ
店番を頼みます。 遞イ闕キより』
ぐちゃ、と塗り潰されたかのように、差出人の名前が読めなくなっている。いや、文字全体が達筆でギリギリ読める程度だから仕方ないのか?ただ、あたしに宛てた置き書きで間違いないようだ。
だけれど...情報量が少なすぎる。店番と言っても、何をしていれば良いのかさえ分からない。
紙のあちこちを見ると、裏側に鉛筆で走り書きがしてあった。
『扇子に全て書きました』
「せん、す...」
あった。金魚が悠々と泳いでいる木の桶に、それは浮いていた。
手を入れると冷たい水の感覚がする。
紙でできているだろう扇子は破れないだろうか。いや、インクが滲んで読めないかもしれない。
恐る恐る扇子を広げると、そんな不安を裏切り水は玉となって扇子の上を踊った。撥水加工がしてある紙だったのかもしれない。
『 一、 お代は貰いません
一、 必ず一匹を店主から進呈します
一、 ポイは一人一つまで
一、 金魚は大切にしてください 』
金魚が泳いでいる紙にそう、相変わらず達筆な文字で書かれていた。
というか、全て書きましたと書いてあった割には、本当に大切なことが書かれていない気もする。例えば、ここはどこなのか、とか、この小狐は何なのか、とか。
本当に、どうすれば良いのだろうか。頭を抱えて途方に暮れていると、声がかかった。
「すみません」
パ、と振り返ると、見慣れたショートカットが揺れた。でも、その身を包む布は、いつもの制服では無く、華やかな着物だった。
「りなっ、」
どうしてここに…そう言おうとして口が開いたが、梨菜の瞳が不思議そうに揺れて、喋っても無意味だと悟った。
「店主さん?どうして名前を知っているの?」
「いえ…あたしは、ただ…店番を任されただけ、で…」
濁さなければならない。そんな気がした。
「あ、ポイ…」
足元に落ちていたポイの袋詰めから、一つ手渡す。
「ありがとうございます」
ニコリと笑って見せたその顔は、別れ際に見せた笑顔と全く変わってなくて。なんだか、あたしだけが一人でいるみたいだ。
いつの間にか梨菜の手には水の入ったカップが収まっていた。桶に先端を入れたポイに水が滲む。
梨菜は黒い金魚をポイで追いかける。
きっと取れないだろうな、と眺めていると、案の定捕まった黒の金魚はポイの紙の部分を破り、逃げていった。
「…あ、残念、でした、ね…」
「いえ、そうでもないですよ」
悲しそうに口角を上げた。
「ありがとうございました」
梨菜が踵を返そうとしたところで、扇子に書かれてあったことを思い出す。
「待って!…ください」
網を手に取り、あの金魚を探す。梨菜が、追いかけていた、黒い金魚。
ぴちぴちと跳ねるそれを、水をたっぷり入れたビニールの中に落とす。
「決まりなんです、貰ってください」
「…ありがとう」
紐を彼女の手に掛ける。その途端、梨菜は手首を下に下ろした。
掛かっていたものが無くなったビニール袋は、びちゃ、と地面に叩きつけられた。紐で縛られていた口は緩まり、水と一緒に金魚も石畳の上に出された。ぴちぴちと少し跳ねたあと、薄くなって石畳に溶けていった。
目の前で起こったことを理解できず、はく、と息を呑むことしかできない。わざとやった、梨菜が、わざと金魚の命を…
「ごめんなさい」
梨菜は、学校の中でも端正な顔立ちを歪め、涙を溢した。
そんな顔を見るのは初めてだった。友人の知らない一面を見たことで、一気に無力感が押し寄せる。
「…ありがとうございました」
何も、あたしは声に出せないまま、梨菜はその姿を暗闇に溶かしていってしまった。