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後編

 人は意識して行動するよりも、無意識で行動することが多いと言われます。


 例えば、料理とか、あるいは自動車とか自転車の運転とか、あるいはスマホの操作もそうでしょう。

 さもそも、意識して歩く人など、まずは居ません。

 右足を前に、左足を前になんて、考えながら歩くなんて、考えるだけで疲れそうです。

 その意味で、歩きスマホも同様でしょう。

 スマホに夢中になって、知らず知らずのうちに鉄道の踏み切り内に進入し、列車に跳ねられて亡くなるといった事故もあるぐらいです。


 酷くなると、無意識に犯罪を犯す者も居て、これはこれで問題になっています。

 ネットによる誹謗中傷も、実は無意識に行っていると考えられます。

 警察から警告されているにも関わらず、ネットを開くとつい誹謗中傷をしてしまうのだから、こうなるともはや病気でしょう。


 依存と言っても、いいレベルです。

 

 特に人は高齢になると認知機能が衰え、意識的に行動しようとしてかえって混乱するのもありますし、無意識にどこかに徘徊したりします。


 酔っぱらいがどこか知らない場所に行くのも、無意識によるものと考えられます。


 酔いが醒めて正気になった時、絶望してしまうからです。

 

 つまり、人はうっかりするととんでもないことを仕出かすと、そういう存在でもあります。


 しかも、無意識だからどうにも出来ませんし、やったらやったで、自分はそんなことをしていないと強弁します。


 嘘を言っているのではなく、本気でそう思い込んでいます。


 酔っぱらいがする、恥ずかしい迷惑行為もまた、覚えていないからこそ出来るものだからです。


 そんなことはしていないと言うので、画像などで証拠を見せても、半信半疑になります。


 本当か、これって。


 そしてその無意識による判断は、人を愚かな行動に誘います。


 ソロモン・アッシュによる、多数派への同調実験は、これを如実に表していると思われます。


 実験は被験者の周りにサクラを配置し、常に間違った答えを出させることにあります。


 それも堂々と。


 それでもそれが少数なら、間違いを指摘したり出来たかもしれませんが、違う解答を出した者が自分一人だと、段々と自信を無くしていきます。


 そしてついに、被験者は間違いを選択するようになったのです。


 忖度や同調圧力の強い我が日本では、この傾向は更に強く出ます。


 福島第一原発事故の裁判で明らかになったように、津波などの過酷事故対策について原発ムラでは空気の読み合いをするようになり、結局、表立って何も言えませんでした。

 東京電力が何か言ってくれないかと、そう思っていたそうです。

 唯一日本原電だけが津波対策をしましたが、それは裁判では認めましたが、公式には未だに認めていません。


 津波対策なんてしていませんと。


 正しさの証明なのに認めないのは、それだけ空気に逆らえないのです。


 空気を読む、忖度することは日本人にとって絶対であり、逆に空気を読めない者は排除されます。


 誰かに命じられた訳でもなく、ただ何となく忖度し、ただ何となく排除するのだから厄介な話しになります。


 そこに是非も善悪もありません。


 そして空気とは、往々にして間違いを正当化する為のツールとして役立っています。

 先の大戦ですら、空気を理由にしていたぐらいですから。


 そして集団において人々が空気を読む、忖度するようになると権力を構成する人々の周囲は一気に腐敗し、最後はそれすら気が付かない状態になります。


 間違いではなく、うまくやった、あるいは成功体験として受け継ぐようになります。


 そうなると、誰も間違いに気が付かなくなります。


 これは無意識に正しい判断を回避しているので、意識的に考えない限り、正しさはそれ自体を悪と判定されます。


 これで戦争をするのだから、負けて当然でしょう。


 だって、正しく戦争を遂行するのではなく、空気を読んだり忖度しながらするのだから、その持てるリソースは戦争遂行に使われないということになります。


 不可能を可能と言いくるめたり、負けているのに勝ったと言っておもねったり忖度する。


 それでもあえて本当の事を言うと、非国民やら敗北主義者とのレッテルを張られます。


 非国民や敗北主義者の言うことなんて聞く必要はなく、その声は悪魔の囁きであり、これに耳を貸す行為はまさに売国行為であるとされました。


 本気で戦争なんか、していなかったと言えるのではないだろうか?


 つまり、あの時代は戦争と言うより、政治ゲームでもしているようでした。


 だから実際の戦争なんてどうでもよく、政治ゲームで勝利すればそれで良かったのです。


 だから負けても、勝った、勝ったといい、それでもどうにもならなくなれば、決戦をして最後は勝つと誤魔化すようになります。


 まるでギャンブル依存症患者のように、いつかは勝つ、最後はすべてを取り戻せると強弁するようにです。


 まともな判断能力がないのではなく、判断の基準が違ったと言えます。


 つまり権力を持つ者たちは、誰も本気で戦争のことを考えていなかったのです。


 否、考える能力を放棄していたのです。

 

 これを腐敗と言わなくて、何と言うのだろうか?


 そして間違っている者が多数派を占めているのだから、少数派は黙るか従うかの二者択一しかありません。

 だって、それでも黙らなければ、強制的に黙るように仕向けられるからです。


 敗北主義者とか、国賊とか言われるぐらいならまだ良く、殺されたりするのだからたまったものじゃありません。

 

 これが権力が腐敗している状態であり、今の自民党がまさにそうでしょう。


 むしろ、腐敗しなければ自民党と言う政党の存在を維持出来ず、政権与党になれなかったというパラドクスに陥っています。


 安倍元首相がパーティ券のキックバックをやめようとしたのに、出来なかったのがその証拠になります。

 それこそ、そんなことを言われても、ねえと。


 先の大戦で昭和天皇が戦争を回避しようとしても出来なかったように、いくら安倍元首相であっても、それこそ空気読んでくださいよとなるのです。


 仮に生きていても、恐らくはダメでしょう。


 むしろ、安倍さんはいいよ、俺たちと違って、カネ持ってるしとなるからです。


 つまり、腐敗は腐敗したくてしたのではなく、自然とそうなるものでもあります。


 権力は腐敗するものであり、それは遥か昔から論じられました。


 貞観政要という帝王学の本がありますが、そこでもこの権力が腐敗する構造が描かれています。


 貞観政要に書かれている唐の太宗皇帝は、臣下からの直言を大事にし、どのように厳しい諫言でも喜んで聞く、歴代中国皇帝の中でも最高の名君とされます。

 しかし、それでも太宗の治世が進むと、段々と直言も諫言もしてくれなくなります。

 そのことを太宗がいくら嘆いても、諫言するように呼び掛けても、官吏たちは曖昧に返事するのみでした。


 それはどうしてか?


 治世が進み平和な時代が続くと、官吏同士で婚姻関係を結び、例えば誰それの仕事に問題があると直言しても、それが自分に跳ね返ってくるからです。


 自分の親の兄の嫁さんの弟の息子がそれだったら、仮に血の繋がりが直接無くても人間関係が複雑に入り組み、何も言えなくなるのです。


 こうなると太宗がいくら嘆こうが、官吏に直言せよと呼び掛けようが、段々と情報が皇帝の耳に入って来なくなります。


 言えば、讒言したことになるからです。


 皇帝に密告した、チクった奴となります。


 これは現代でも、よく見られる現象でしょう。


 そしてこの瞬間、権力は権力者の手から、その周辺に移ったと言えます。


 こうして権力が腐敗する構造が作られ、より強固になります。


 その結果、建前上の権力者は孤立してしまい、裸の王様と化したのです。


 だって、専制君主以外の者に忖度したり気を使ったりするようになったのですから、それは実質的に専制君主には権力は無いと見なされたからです。


 逆に権力者の周辺は、権力を私するようになります。


 その権力の一端を仲間と見なした人々に分配し、独占することで権力を維持するようになります。


 仲間にならない、正義感の強い者は権力構造から弾かれるからです。


 これが権力が腐敗する構造であり、いくら立派な人がトップになろうとも、国を動かす官吏がこうなると、それこそそうはおっしゃいますけどとなります。


 それを嘆いてか、あるいはダブルスタンダードに陥った皇帝を諫める為か、当時大臣であった魏徴は、終わりを全うできない十箇条を太宗に上奏しました。


 詳しくは貞観政要かネットに譲りますが、それは非常に厳しい内容でした。


 簡単に言えば、人を良く見て登用せよとか、朝令暮改は忌むべしといった、ある意味で当たり前の内容でした。


 しかし、すでに権力の腐敗が進行している最中だったので、この当たり前は当たり前ではありませんでした。


 太宗はこの上奏分を大変喜び、直言や諫言が行われた際には、どのような内容でも言論が理由で罰したりしないと宣言しました。


 こうして二十三年に及ぶ太宗の治世は、後に貞観の治と呼ばれ、権力者が手本とすべき時代とされました。


 では、今はどうか?


 選挙区では議員を頂点にピラミッド構造が出来上がり、いくら清廉を売りにしていても、支持者たちは前の議員は良かったなあと愚痴を言うのはまだマシな方で、選挙では嫌がらせめいたことをします。


 集会に来ないとか、献金してくれないとか、あるいは演説の会場を押さえる事が出来ないとか。


 下手をしたら、ライバルに情報を流したりします。


 これは日本人にとって、ある意味で当たり前のことであり、空気の読めない者、周辺に気を使ってくれない人はダメな人間になります。


 利権はあって当たり前であり、いくら代替わりしたからといって、もうそういうのはやめましょうと言うのは、重大な裏切り行為に他なりません。


 こうして、選挙区でうまく立ち回る議員が当選し、清廉を売りにする者は無能者扱いされて落選しないでも、選挙では結構苦労する羽目になります。


 そしてそういう横の繋がりを維持する為にも、盆暮れの付け届けはもはや普通のことであり、そういったことをしない者を礼儀を知らないとか、俺たちを馬鹿にしている存在と認識します。


 これだからエリートはとか、お坊ちゃんは苦労知らずで困るねと。


 やがてそれは、敵であると認定します。


 これが長年の慣習となり、不正とか腐敗とか何も感じなくなります。


 ある議員が地元選挙区の有力者に、付け届けをして公職選挙法違反で有罪になったのも、特に何か不正をしようとか、票をカネで買ったとか、あるいは忖度したとかそういうことではなく、ごくごく当たり前のことをしたまでになります。


 我々だって、上司のご機嫌取りをしたり、上司のお子さんに贈り物をしたりするのも、それをしないとえらい目に遭うからです。


 まあ、今はそういうのは無いみたいですが。


 こうした長年の慣習は、人々の感覚を麻痺させ、しかもそれによって選挙区が安定するなら、それに越したことはありません。


 何故なら、彼らは長年の支持者であり、つまりはタニマチのような存在なんですから、挨拶は普通のことになります。


 そして挨拶に手ぶらでするのは、それこそ礼儀知らずになります。


 お車代、お菓子代、アイスクリーム代と、色々な表現を使うところ、後ろめたい気持ちがあるのか、あるいは共犯関係を表しているのかそこはよく分かりません。


 テレビの取材でも、議員が平気でそういうことを述べているんですから。


 つまり、そこに不正とか利権とか違法行為とかがあるのではなく、至って普通の行為、つまりそれが盆暮れの付け届けになります。


 しかしそれによって、新規に参入出来ないようになるので、やはり腐敗と言わざるを得ません。


 それをいいか悪いかを、誰が問うかです。


 それを決めるのが、有権者のはずだからです。




 つまり、問われているのは議員ではなく、我々なんです。



 それが、民主主義と考えます。

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