7th.たった一言
時が止まったような感覚をスティーは感じる。
否――実際に止まっていた。神の力がそうさせたのか、スティー、ミサ、シエラ、能力を駆使する当人であるチェイルを除き、空間の全てが動きを止め、空中に舞っていた木の葉が停止も停止している。
天界に戻ったのではなかったのか? という疑問がスティーの脳内に残り、何で、と顔に書いてあったかのようにチェイルが質問を投げかけずとも答えた。
「私がここにいるのは、天界に還っていないからよ。私がこの下界に留まっていてはいけない? スティーさん」
「そんなことは……」
涙声でスティーがチェイルの質問に答えた。
ただ、ただ疑問だっただけ。そう弁明しようとするもチェイルは「冗談」と首を横に振った。
「少し、考えていたの……」
悩み事を相談するかのように、子供が親に弁明をするかのように、チェイルは少しくらい面持ちで語る。勿論、目を隠す黒い布地でその表情の全ては見えないけれど、何か反省でもしているかのように語る彼女の言葉を、この場にいる誰も遮らなかった。
「人間と、どう接するべきだったのかって」
そう発しながら、チェイルは動きの止まった男たちの方を見やる。
手をチェイルの方に伸ばし、服を掴みがからんと指を曲げ、掴んだと同時にチェイルのことを乱暴に、粗雑な扱いをすることは目に見えて分かった。
「下品な顔、荒い息遣い、吊り上がった眉と眦。天界で私に怒鳴る人間たちと同じ表情……。スティーさん、私……あんなことを言っていたけれど、本当は……人間のこと、大好きだったのよ」
そう言いながら、チェイルはスティーの方へと歩み寄る。
「顔を、見せて頂戴?」
チェイルに言われて、スティーはミサの体に回していた腕を戻し、頭部を覆う部分のみを脱いだ。
シエラに同じく、完璧で誰が見ても「何よりも美しい」と評するその相貌が表れて、チェイルは素直に「奇麗」とスティーに言った。
「目を隠していて、分かるんですか?」
「分かるわ。私にとって目なんて飾りのようなものよ」
スティーの頬を濡らす涙を、チェイルは手で拭う。
そして、今度はミサのほうに顔を向けて名前を聞く。神であることを瞬時に悟ったミサは緊張した面持ちで「ミサです」と礼儀良く答える。
そして彼女に、間髪入れずに「チェイル」と自分の名前を明かす。
原初十二神の名の一つだと気付いたミサは、ますます緊張した面持ちに変わり、怯える。
「怯えないで。そう取って食べたりなんてしないわ? ただ、お話をしましょう?」
そう言って、チェイルはシエラの方を向き「母さんも」と声を掛ける。
言われて歩み寄るシエラは、チェイルに対して、少しだけ口を噤んだ後に、やや厳しめに聞く。
「何をしに来たの?」
その言葉に対するチェイルの言葉はシエラにとっても意外な言葉だった。
「…………謝り、たくて……」
少しばかり恥ずかしそうに、チェイルはそう言ったのだ。
スティーは驚き、シエラもまた目を見開いてチェイルの言葉に驚愕し、「何で」という言葉さえ出てこなかった。
「母さん」
人に謝るときはこれこそが礼儀だと、目を覆う黒の目隠しを外して、スティーに同じ多彩色の美しい瞳を露わにし、面と向かって頭を下げた。
「ごめんなさい」
たった一言にすべてが込められていた気がした。
天界より降りてきては心傷に苦しむシエラの気持ちさえも無碍にして、あまりにも酷なことを口々に述べた。その言葉が正しいとか、正しくないだとか関係なく、言葉を交わし、多種多様関りを持つ種族同士で必ず、考えなくてはならないことだ。
フランという女性に教えてもらった――気付かされた。
天界での経験を思い出した――髪を引かれ、蹴られ、殴られもした。罵詈雑言、不快に体も触られて、人間が怖くなった。だから目を隠して、人間が信じられなくなった。
「酷いことを、言ったわ。それを、すぐにでも謝りたかった――許してほしいとは思っていない……本当に謝りたかっただけ……全部終わったら、すぐに、還るから……」
チェイルの瞳に涙はなかったが、スティーから見た横顔は、少し怯えているようにも見え、例えるなら母親に怒られることを怖がりながらも自分のした過ちを明かしながら謝る子供のような、そんな印象を覚えた。
「チェイル」
シエラが名前を呼んで、チェイルはびくりと体を震わせて、叩かれるのではと目を瞑る。
「私、友達が出来たんだ。一方的に突き放しちゃったけど、話している時は凄く楽しかった。世界のあらゆる事象だとか、星の動きだとか、九割九分九厘九毛から九の涅槃寂静に至るまで知っていることの方が多いけれど――残りの一の涅槃寂静は、凄く濃くて、自分の思い通りにならなくて、理想とは程遠くて、なんで知らなかったんだろうって……何で知ろうとしなかったんだろうって思うくらい、楽しかった」
その声音は決して、怒っているものではなかった。
「チェイルは、私の知らない知りたくなかったことの方が、人間に対する気持ちでは多かったから、私に言えた言葉が前のことだったんだよね。それは正論で、同時に大事なことだったんだと思う。チェイルに言われたことを、私なりにも考えてた――勉強になったよ」
顔を上げたチェイルが見たシエラの顔もまた、怒ってなどいない。
「ありがとうチェイル。教えてくれて」
感謝の言葉に、チェイルは涙を流した。
俯いて、ただただ「ずるい」とシエラに言う。
「そんなの聞いたら、還りたくなくなるじゃない……羨ましい……私も、母さんの楽しかったこと、知りたかった……」
チェイルの本音が、小さく呟かれた。
「そんなのもう……自慢じゃない」
「ごめん」
「本当に……ごめんなさい……」
「うん」
「私…………それでも人間が怖い……でも、変わっていけるかしら」
「それは、わかんない」
「嘘でも、出来るって言ってくれたっていいじゃない」
「……チェイル。謝るのは私だけじゃないんでしょ」
「ええ、そう。フランさんにも謝らなくちゃ……それで「全部」――天界での私の仕事は、ゼバルが一時的に請け負ってくれるって言ってくれた。ルドルフさんの事も探してくれるって約束してくれた」
「そっか……ゼバルか。裁定厳しいだろうから、亡者にとっては地獄のような時間に感じるだろうね」
* * *
世界が巻き戻る瞬間を、初めて見た。
『輪廻』を司る神が故に出来る芸当――権能を行使する瞬間などシエラが何かを創造する際に幾度と見てきたが、」何かが生成されるのとは違って、概念や光景として見るのは初めてだ。
森の中にいた男たちが自分から後ろ向きに帰っていく様子は滑稽にも見える。
喋る言葉の音を逆にすると、出鱈目な単語の音になるらしい。きっと音があれば笑ってしまいそうだ。
落ちていく木の葉までもが木の枝にもう一度接着されたかのように戻る。
「凄い……」
ミサが思わず漏らした。
――これが神の力。世界すら変える能力。チェイルという女神の『輪廻』の力とはこれほどなのか。
「さあ、貴女方がこの街に来た瞬間にまで戻るのだから、そこにいた場所と同じ場所にいなければいけないわ。私と一緒に行きましょう?」
『輪廻』の女神と言えど、不干渉と定めた人間が居た場所までは戻せないと、スティーたちが元居たであろう場所の方角を指差しながら言った。
「とりあえず、外套を被っておいた方がいいわね」
「シエラ様、チェイル様の分の外套を……」
「大丈夫よ。動きを止めて戻すから、問題ないわ」
結局、チェイルはシエラに押し付けられる形で外套を着用することとなった。
彼女との会話の中で、判明したことが一つ――どうやらこの外套は原初十二神相手にはあまり効果が無いそうだ。更には原初十二神より位の下の神の一部も見破る可能性があるとも知った。
「恐らく、ゼバルには効果が無いでしょうね。司る事物からして、彼は一瞬で見抜くわ」
何やら誇らしげに、外套の中からチェイルが鼻を鳴らして言う。
そんな彼女にミサがゼバルの司る事物について聞いた。
「『罪過』を司る神――ゼバル。貴女、彼の象徴画の刻まれた装飾品を持っているなら、知っておいて損は無いわよ」
犯罪に巻き込まれるなど、不運に見舞われるなどに対するお守りになると言う。
さすがに原初十二神の象徴画の刻まれた装飾品には劣るも、生活する中できっと役に立つ、ともチェイルは語る。
これほどまでゼバルという神を褒めるチェイルに、スティーが好きなのかと問う。
「好きとかでは無いわ。私が一番尊敬している神――それがゼバル。沢山助けてもらった」
今着けてる目隠しもゼバルから貰った物なのだと語る。
――『臭い物に蓋をする』って諺がある。おっ母から聞いてよォ……遠い遠い星の諺だそうでなァ。良いィ言葉だ。だからよォ、チェイル……蓋ァしちまえ……おめぇの趣味に合うかァ分かんねェけど、コレェ着けときなァ。
「ゼバル様……ニゲラ様が「私より遥かに若い神なのに、私より老けてる感じがする」って言ってました。ニゲラ様が肖像画を描いてくださいましたが、お爺さんって感じの男神様でした」
「お爺さん」という単語に、チェイルは「確かに」と笑った。
ゼバルという神は妻帯者ですらいないものの、祖父と孫という関係性を夢見ているのだと言う。何でもない道を、孫ではないが孫のような存在と歩いてみたいと毎日のように言っているらしい。
「ちょっと変わってますね」
そう言った後、スティーははっとして謝った。
だが同時に会ってみたいとも言う。
「いつか……会えるわ」
* * *
四人――四人だ。四人に戻った。
ハンナ、ミサ、そしてスティーとシエラの四人のこの街に来た時の四人。一人は、時を巻き戻った事を知らないまま。
外套で全身を覆い、他者から見たときは性別が逆にしか見えなかったあの時の四人。
さっきまでチェイルたちとは仲が戻ったかのように楽しく話せていたはずなのに、なぜか気まずく感じる。物語の一文にあった状況の一つに、確か同じようなものが書いてあった気がする。
共通の知り合いが帰ってしまって、お互い見知った顔ではなくて、終始無言の状況。
「………………」
交流的な能力面で言えば、シエラの方が高い故に、スティーは少し頼ろうとした。
ミサに何か話しかけて、それに便乗する形で…………。
(それは……いけませんよね)
スティーが外套の中からちらりと、ミサの顔を窺った。
彼女もまた気まずいのか、こちらを見向きもしない。
「…………――――あ、あの……」
声を掛ける。なんてことのないその行動に、耐えきれないほどの重みを感じて、スティーは一言吐いて言葉に詰まった。
チェイルはもういない。彼女はシエラに対して謝った。
「スティーさん」
先程のチェイルに似て、スティーがびくりと肩を揺らした。
何か、酷いことを言われるかもしれないと思ってか、スティーは覚悟する。
「スティーさんが、私と話すことを避けていたのは――ちょっとだけ嫌だった。私が何か嫌なことをしたのかなって思って……でも、そんなことなかったって知って、ちょっと安心した」
外套の裾を握って、スティーは次の言葉に心臓の鼓動を大きくした。
「でも、私とのことで悩んでくれてたんだね。良かった」
「わ、私は…………」
「蠟燭の火」
「え?」
「泣きそうだった時に、じっと見てたことが私にもある。火って奇麗だよね」
何時間でも見ていられる、とミサはスティーに共感した。
「――――ごめん、話全然違うや。何が言いたいかって言うと、気にしないでって私は言いたいの。確かに家が燃えたのは辛かったし、お父さんとお母さんが私たちのためにくれた家で、すっごく大事だった物だけど、私はハンナの方がずっと大事。大事で、可愛い……家より価値がある」
スティーは顔を上げ、ミサの方を見る。
そして、ミサがスティーの両手を手に取って、感謝を述べた。
「ハンナがいるから毎日の仕事だって頑張れてた。そんなハンナと、私の命を救ってくれたことの方がずっと重要で、私たちにとっては忘れちゃいけないことだと思ってる――――私はね、スティーさん。貴女たちにずっとお礼が言いたかった」
スティーの頬を、涙が伝う。
「ありがとう」
「ありあとう!」
そのお礼の言葉に、スティーも、シエラも、救われた気がした。




