プロローグ・フォース
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神殿の大門前――スティーはニゲラに向かう方角を教わっていた。
「西に向かう。そうするとバースが統治する街に到着するよ」
距離があるから馬車を手配したとニゲラは言う。
「バースにもスティーが今日向かった事を伝えてある――「楽しみにしている」って言ってたから悪いようにはされないし、多分だけど歓迎してくれる」
この街に来るときの馬車とは違う馬車みたいで、どんな人が御者をやっているのか気になる所。
「バースが統治する街の天使が御者を務めているから、バースの事は彼女から聞けばいい
「――怖い方ですか? バース様は」
スティーが不安そうにそう聞くと、ニゲラは首を横に振った。
「優しいよ。戦闘神の一面は持ってるけど、回復を司る神で子供好きの情が深くて感動ものの物語に物凄く弱いんだ。おまけに料理の達人で、バースの料理を食べたらもう頬が落ちるね」
シエラに同じく、バースという女神に対して誉め言葉がどんどん口から出てくる。
恐らくニゲラもその女神の事が好きなのだろうとスティーは察した――大天使ファリエルも彼女の事を好んでいたのだと言うからそれ程魅力のある神である事が窺える。
もじもじと、可愛らしい表情をスティーに向けながらニゲラは質問した。
「スティーは……複数人を好きになるのは駄目な事だと思うかい?」
「思いませんよ。シエラ様に加えてニゲラ様の事も好きなの、貴女は知っているでしょう?」
「そう……だね、そうだったよ。取りあえず良かったと思う事にする――ああ、それとこれを」
スティーに近づいてニゲラは彼女の首に中央に蒼玉、その内部に金でニゲラの象徴画が埋め込まれた首飾りを飾らせた。天使が言うに、こういったものを神が渡すのは特別な意味がある事をスティーは知っており、大切にすることを誓った。
シエラが自分に付けた髪飾りが共鳴するようにして光る――それを見てニゲラは「歓迎されているみたいだ」と拒絶されたらどうしようか不安だったと言い、口角を上げて最後に「じゃあ、また」と付け加えた。
「はい、行って来ます!」
離れていく背中――ニゲラはくすりと笑って見送った。
ピュトリスを出て、ニゲラより教わった場所に足を運ぶとそこには確かに馬車が停まっていた。高級そうな馬車だ。
御者席には天使の女性が本を読みながら暇を潰している。どれほどの時間を待たせてしまったのか想像すると申し訳なく思いながらも近づいた。
――地味目の天使だ。丸い黒縁の眼鏡を掛け、髪色は黒く前髪は横真っ直ぐに切り揃えられており、髪自体の長さは肩付近まで、本で読んだ限りでは確か「おかっぱ」という名称が付けられていたと記憶している。服の色も上下共に黒一色で、少し近寄りがたい印象――背中に生えた翼だけが白い。
読む速度は遅いみたいで、スティーの二分の一以下。一頁につき一分以上もの時間を掛けており、ゆっくりとした人物であることが窺える。
眼鏡の寸法が合っていないのか、ずり落ちては人差し指で金属部分を持ち上げ元に戻すを繰り返していた。
邪魔をしてはいけないだろうか、迷うもののバースを待たせてしまうのは良くないとして、四カ月前のピュトリスでの経験を反省し、声を掛けることにした。
「あ、あの……」
「ん……」
恐る恐る声を掛けて、天使から返ってきたのはそれだけだった。本を読むのに集中するのは自分もよくある事だし、ニゲラも後ろからスティーが抱き着いたりしても気付かない事だってある――その気持ちはよく分かる。
だが、このままではいけない。
「遅れるとあんまりよくないのではないでしょうか……!」
ちょっとだけスティーが声を張ると、天使は懐から栞を取り出しては本に挟み「それもそうね」とスティーの方を見た。
「あら、可愛い」
「え……」
無表情で言われた誉め言葉――その真意は分からないが、スティーは照れを誤魔化すようにして馬車の中へと入った。
ピュトリスに向かう際に利用したバルタの馬車とは違い今度は人を乗せる専用の馬車――ふかふかとした座席が取り付けられ、横と御者との間には小窓が付いている。
乗る際は後ろの入り口から入り、左右の座席のどちらかに座る設計。
「本来は四人用なの。寂しく感じたら私に話し掛けて頂戴――相手をするわ」
それか、床収納の中にある本でも読んで暇を潰してくれと言う。
「そうそう、自己紹介が遅れたわね。私はメトリー、バース様の従者よ」
女神バースの従者――そう自己紹介を言うメトリーにスティーもまた自己紹介をする。
「その髪飾り、と首飾り――そう……愛されているのね。羨ましいわ」
あまり人と馴れ合わない人なのか、会話もすぐに終わってしまう。自己紹介など、自分の言いたい事を言ったらすぐに会話を終わらせるという感じの天使らしい――スティーはもうちょっとお話がしたい気分だったが、馴れ合いが好みでないならこちらから話し掛けるのも良くない気がして、スティーは床収納から本を取り出して読書に励むことにした。
パルバトまでの距離は――馬車で一日半。
ピュトリスまでの道のりよりかは短い馬車度になるだろうが、メトリーとはそれなりに仲良くなりたいとスティーは感じる。馴れ合いを好まないのは分かっている――嫌がられない範囲で仲良くなりたい、そう思った。
「あの……」
一冊本を読み終わった時、声を掛けると少し時間を置いて小窓が開いた。
「何?」と返されたのは一言だけで、話し掛けても何ら問題ない事に安堵しつつスティーは質問をする。
「メトリー様にとって――」
「様は要らないわ」
「メトリー、さん」
「……それでいいわ。それで、何かしら」
バース様はどんな神様なんですか? ――そう質問をした瞬間だった。
メトリーの雰囲気が一転して、饒舌になった。
本一冊分の言葉を貰ったのではないかという程、メトリーは語り続ける――そこまで詳細的に聞くつもりは無かったのだが、彼女がバースという女神に恋をしていることが良く伝わる。
メトリーがバース様との付き合いの中で思った事、バースの意外な一面や別にある惚れた所などなど、凄まじい言葉の羅列が先程までの雰囲気とは違う。
象徴画の紋様は炎と戦斧が描かれたもの――炎を背景に前面に両刃の戦斧が真っ直ぐに立っている。炎は「燃え盛る命」を表し、戦斧は「命へのあらゆる脅威への抗い」を表している。『回復』を司る神バース、女神である。
戦闘神ながらも聖女としても崇められるという、下界の国々ではそれぞれ神格像が違ったりするらしい。
戦争国家や戦闘種族からは「勝利の女神」として、宗教色の濃い国では聖女として崇められているとメトリーは口々に言う――だが、バースからしてみれば「そんな大層な神じゃない」と自分の評価に否定的とも。
医療技術にも秀で、どんなに危篤状態の怪我人でも完治させるほどの神技をも有するとのこと。
容姿は絶世の美女――燃えているかのような色合いの赤く長い髪、吊り目で琥珀色の美しい瞳を持つ。上背はかなり高くスティーよりも頭一つ分程度高い――メトリーの言葉にスティーは脳内にてその想像を膨らませていた。
「――――でも、私は……バース様に色恋相手として見られていないの」
「えっ」
色恋相手? 女神である以上それは仕方ない事なのでは? と思ったスティーだったが、自分も女神と女性同士で愛し合った関係であったことを思い出し、話の続きを聞いた。
「この前、夜伽に誘ってみたの。そしたら……「オレ、そういうのは真剣に付き合いたい人としたい」って言われて……撃沈よ」
貞操観念のしっかりした女神だという事が分かった。
「バース様の部屋を隅々まで探しても官能本すら見つからない……バース様ってそういう事に興味が無いのかしら」
(ニゲラ様とは違うんですね……)
――ある日の事をスティーは思い出す。
ニゲラの自室。寝台の下にあった数冊の官能本――裸の女性と男性が抱き合い、子作りに励む姿を精密な絵にて描かれた書物。それを見つけた時のニゲラの言い訳はいつもの彼女とは違って、論理的な思考を失っていたのを覚えている。
『私の中をミタシテ』『囚われの姫君~恥辱に喘ぐ~』『天使の閨に』――ニゲラ不在時に好奇心から見つけたそれらの数は合計数十冊。バルタが「控えて欲しいね」と言っていた創造神の官能本などもあったのを覚えている。
(メトリーさんには、ニゲラ様がバース様の官能本を持っていたことは内密にしておきましょうか……)
メトリーからバースに関する話が止まらない。それまでと同じように端的でかつ短い単純な答えが返ってくると予想していたのに、その予想とは裏腹に、メトリーの話は一時間以上も続いていた。
「はい」「そうなんですか」「意外でした」――話をする前のメトリーとスティー、その返事の仕方が逆になっており、スティーは汗を垂らし苦笑するばかりだった。心なしか馬の様子が「やれやれ」と言っているようにも見える。
休憩場所でも、メトリーはバースの話を止めなかった。
次々と新しい情報が入ってくる為、スティーは覚えるのに必死だ。バースの癪に障るようなことを現地で言わないようにするためにも事前情報収集は欠かさない――何せピュトリスのニゲラの神殿でニゲラの印象をあれ程違えていたのだ。
しかし、話を聞くにもメトリーはバースという女神を高く評価しすぎており、半分程度に聞いておくのが良いかもしれないとスティーは思った。
「それで、私はバース様の横顔を見て思ったの――」
話の最初はメトリーがこの天界に生を受けた時の話から始まっていた――今現在、物語における中盤辺り。だが「長すぎです」とは口が裂けても言えない。
メトリーの頭の中で、彼の女神の周りに薔薇が浮かんでいる印象さえも想像してしまう。
(……良い神様であるのは間違いないようなので、良かったです)
スティーは、考えることを放棄した。
「ちょっとだけ長く話しすぎたかしら」
ちょっとだけ? とは言えなかったが、スティーは「そうかもしれないですね……」と疲れを見せながらも言葉を濁す。
今居るのは、コイセラと呼ばれる街の宿泊施設だ。
――この街は天界においては数少ない主神の居ない街で、下界と同じく金銭などによる取引が行われている街。神からバレないように、天使からもバレないようにと人間たちはその事実を隠している様だがメトリー曰く「神を欺けると思っている時点で駄目ね」と厳しく評価されていた。やるなら堂々としてろ、とメトリーは言う。
店主は恰幅の良い男性。年齢にして四十代くらいの容姿をしており、固い生地の履き物を履いていて上半身に穴にも身に付けていない――「丸見えですよ……!?」と顔を両手で覆うスティーに対して彼は力こぶを見せていた。
「男の上半身に価値があるのは腹が引っ込んでて筋骨隆々である時だけよ」とメトリーが自分の価値観を包み隠さず言った時の彼の顔は、同情を抱いてしまう程落ち込んでいた。
「料金、取られなかったですね」
「隠すのに必死なのね。天使や神に他の街の人間が赴いた時は料金は取られないと聞くわ――つまり、自分たちは金銭の取引はしてませんよと言いたいのね」
「駄目な事なのでしょうか」
「正直なところ――――駄目では無いわ」
ずこっとスティーは転けた。
他の街では金銭取引が無い故に「天界での金銭取引は御法度である」という価値観がこの街に住む人間に価値観として結びついたらしい。
「寧ろ神はこの街の仕組みを誉めてる方よ? 例えばゼロフル様の天使は下界によく行くから、下界に行く前にこの街で下界での暮らしの事前練習が出来るし……バース様も「行ってみたい」とか行ってこの街に来ようとしていたわ――止めたけど」
「え? どうして……」
「見て」
スティーが疑問を投げ掛けると、メトリーが窓を少し開けて外の様子を指し示す。
彼女が視ているのは少年と五十代くらいの年齢であろう男性のやり取り――お金の詰まった袋を男性が少年より奪い取り、少年が彼にしがみついて抵抗をする。
「た、助けないと――――」
「残念だけど……干渉するのは宜しくないわ。問題になれば、尻拭いをしてこの街の代表に頭を下げるのは干渉した天使の主神。この街の代表は金にがめつくて性根も腐ってる――バース様の性格から、色々と利用されるのは目に見えてる」
この街の代表は良い意味でも悪い意味でも腹の据わった人間なのだと、メトリーは外の二人を見ながら言った。
「貧困層と富裕層で扱いが分かれるのはいつだって、金銭のやり取りがある事が尤もの原因だわ」
バースは「他人の不幸をそうそう見過ごせない」――メトリーが危惧しているのは彼女の言い分でも言われたが、干渉した事で責任が生じて後が面倒になること。
「金銭取引の練習は、ピュトリスで行うのが一番良いわ」
「ピュトリスって……そういうのありましたっけ……」
「そういう練習道具があるの。私たちもバース様と一緒に行った時やったわ」
「金銭取引の事は聞きましたけど、そういう道具があるのは初めて知りました」
「ニゲラ様からしたら、現物を見て覚えろって言いたかったのかも知れないわね」
――少年の事は助けられなかった。
心の中ではもやもやが渦巻いているが、スティーは目をぎゅっと瞑り眠りについた。
――パルバトは賑やかな街だ。
煙草等の喫煙は禁止されているが、嗜む程度であれば酒は許されている。比較的自由な街で、その街風景はピュトリスとはまた違った楽しみを得られ、雰囲気もまた異なる。
その敷地は創造主であるシエラに次ぎ神の中では二番目に大きい。中央にあるバースの神殿を囲むようにして名無しの無人街区域があり、北には女性のみが住まうペトリロットという名の区域、南の方向にはダリジンという名の男性のみが居住する区域がある。
西と東は特に居住する種族や性別の決まりはないが西と東でそれぞれベズベラ、アクロスという名が付けられている――グランティアという催し物が行われる闘技場はアクロスに存在し、その際はこのアクロスが一番賑やかになる。
この街の主神バースが『回復』を司るだけあって、この街の主産物は薬や治療術。戦闘神の一面から武器製造も盛んである。
街への入り口は特に決まっておらず、検問すらもされていない為ちらほらと他の街の居住者も見掛けられる。
その甲斐あってかペトリロットとダリジンの居住者を除いて友好的――一部訂正、後者の街への入り口は内部からでしか許されていない。
もし、外壁に守られたその二つの街にバースの許可なく入ろうものなら、バースによる神罰が下されるとメトリーはスティーに案内をした。
ピュトリスやパレバトと違い、街の形は定まっていない。
「ピュトリスとは全く雰囲気が違いますね!」
「ここはベズベラ、アクロスには東に向けば――――は当たり前ね。兎に角、無事について良かったわ」
「はい! ありがとうございます!」
辺りを見渡せば沢山の人が声を出し、賑わっている――催事が近い事でいつもよりも賑わっているとメトリーは言った。
「グランティアは明日。無人街の外側の太い通路を歩けばアクロスに着く――ダリジンは壁に囲まれてるから」
「そこを通るしかない、ですよね」
スティーの答えに、メトリーはくすりと笑う。
手綱を引いて、去っていく彼女にスティーは深く頭を下げた。
** *
無人街には悪魔や堕天使、魔族が出るとメトリーはパルバトについて話す時、最初に言っていた。
だからこそ、行く時は複数人と一緒に無人街の近くを通りなさいというのは、彼女の忠告だ。生憎、忠告をした等の本人は馬車――人々が出ている時に馬車では通れなという事でスティー自身が断りを入れたのである。
確かに、一旦人を引かせる手間があるとしてメトリーはそのことを了承し、前述の忠告をしたのだ。
「すみません。ちょっとお時間よろしいですか?」
近くに居たふくよかな体を持った人間の女性に話し掛ける。
両手に羊肉の腸詰串を持ち、話し掛けたスティーに対して彼女は「なあに?」と口に食べものを頬張りつつ答えた。
「アクロスに行きたいのですが……」
「ああ、アクロスね。今居るのはベズベラの南西だから、ダリジンの囲い壁に沿って行けば必然的に着くはずよお?」
「い、いえそうではなく……」
「もしかしてお嬢ちゃん、悪魔や堕天使の事で怖がっているのかしらっ」
「はい、とある天使様に気を付けろと言われまして……なので複数人で行けと」
「なるほどね……でも大丈夫よ?」
大丈夫、と言う女性にスティーは「え?」と聞き返した。
何が大丈夫なのかは分からないと言いたげな彼女に女性は持っていた腸詰串を平らげる。
「私、いつか夜中に肝試しで無人街に行ったけど――なあんとも無かったから! どこを見ても悪魔や堕天使の姿なんて無し! 安心して一人で行くといいわよお?」
「ですが……ですが……」
「それからも何度も行ったけど、全部五体満足で帰れたもの。大丈夫大丈夫」
「う~ん……」
何度も行った、と言うならば大丈夫なのだろうか――そう思うスティーだったが、その疑問は正しく安全である根拠は何一つなかった。
目の前の女性の運が良かっただけ。
「それに、私忙しいの。グランティアって正直私にとっては荒っぽくてニガテ~好きな人の気持ちがよく分からないわよお」
「そ、そうですか……」
なら、大丈夫か――女性に騙す気など毛頭なかったが、スティーは騙された。
「すみません、お忙しい中失礼しました!」
女性にペコリと頭を下げ、走り去る。
(念の為、明日行きましょうか。どこかで宿屋に泊まって、体力を回復させて行った方が良いですよね)
――翌日、無人街。
「あれ……?」
気が付けば、スティーは道に迷っていた。
細い路地裏、人気のない街並み――人が居たならば道を聞けただろう。
先程見つけた地図はざっくりとしか描かれておらず、ダリジンの囲い壁もいつの間にか見失い進むこと数時間。
(空が暗くなってきました……ど、どうしましょう……!!)
何がいけなかった? どこで道を間違えた? もう一度ベズベラに戻る? しかし方角が分からない以上どこに進めば戻れるのか見当も付かない。まさに八方塞がり。
この世界にはもう自分一人しか居なくなってしまったのでは? と錯覚してしまう程に静けさの深まったこの状況がますます不安な心情をより深いものに変え、もはや泣きそうでもある。
東西南北の知識はあるものの、その方角がどの方向なのかは知らない。ニゲラから教えて貰うべきだったかもと今更になって後悔し、声が掛かるまで縮こまっていた。
「そこで何してる」
男性の声だ――短い黒髪に、ややほっそりとしていて体にはしっかり筋肉が付いた男性。
服装はメトリーのように黒を基準としているが上半身は彼女と違って半袖、手の甲には刺青らしき模様がある。身長はスティーの頭半分高い程度。
なぜこんなところに人が? なんて疑問は今のスティーには無かった。
何振り構わず道を教えてくださいと言う彼女に男は表情を変えない――無表情のままだった。
――その目線はスティーの髪飾りと首飾りに交互に向けられていたのだが、それにもスティーは気付かない。
「あのっ! これからアクロスという街に行きたくてっ! でも迷っちゃって……」
「見りゃ分かろうが……中心近くにも関わらず辺鄙にも見えようこんな場所で、迷う奴なんざ百は居る」
「良かった~! 私だけでは無いんですね!?」
「ああ」
男はくるりと方向を変えた。付いて来いと行っているのだろうか。
(羽が黒い……?)
その男は――堕天使。スティーはそれに気付かない――男が笑みを浮かべていたのにも、気付かなかった。
――スティーが迷っている間にも、グランティアは始まっており今や終盤。
グランティア催場の主神専用の観戦席で、バースはスティーの姿を探していた。
「只今戻りました」
「ああ、おかえりメトリー。スティーは?」
「彼女は昨日ベズベラで降ろしました。もう来ているかと思われますが、見当たりませんか?」
「う~ん……事前にどんな容姿かは聞いているけど、見当たらないな……無人街で迷っているとかか?」
「迷っている可能性は低いでしょう。複数人同行させるべきと忠告をしたので、素直な彼女ですから従っているとは思います――もしかしたら同行者と話し込んでしまっているとか、そんな感じでしょうか」
「そっか……」
バースの心の中に引っかかるものはある。
複数人同行させて来るなら問題はないとは思うが、もし一人で来ていたら危ない。
(グランティア、ちょっとだけでも見て欲しかったな……)
グランティア決勝戦――優勝者はヴェルダンという男性の天使。
他と比べ軽装で、その体格も小さいが筋肉はしっかりと付いており、その容姿は若々しく人間で言う所の二十代後半といったところだろう――茶色い髪は長め、ボサボサなのは自信を鍛える以外に無頓着だった証拠でもある。
彫りの深い顔立ち、鼻筋は整っており多くの女性を魅了する。瞳は鈍い灰色で、闘志に燃えた熱い目をしていた。
彼は優勝した暁に贈られるものを「主神との闘志の交え」とバースの疑問に答え、了承した彼女は観戦席より降りる。
止まる歓声、武者震いを抑えるヴェルダン。
両者の間には緊張が走っていた。
「おめでとうヴェルダン――もっと良い物が他にあっただろうに、皆戦う事が好きだな」
「貴女と闘志を交えることを夢に見ない闘士は居ませぬ」
「そうかな。じゃあ、始めようか――――――――っ!?」
バースが構えを取った瞬間、彼女の表情が変わる。
「……?」
異変に気付いたのはヴェルダンただ一人。
焦り。額には若干の冷や汗――ヴェルダンの闘気に気圧されている訳ではないのは確か。
彼女の頭の中で――――「報せ」があったのだ。
* * *
――頬を殴られた時、殴られたことに始め気付かなかった。
「髪飾りと首飾りを寄越せ」と言われ、断った瞬間にはもう拳がスティーの柔らかな頬に叩き込まれていたのだ。
「その髪飾りには創造主の象徴画、その首飾りには知恵神ニゲラの象徴画――その二つがあればバース様にも勝てるだろうなァ。何か特別な恩恵がありそうだからな……」
身体を起こし目を泳がせ、スティーは何が起こったのかをようやく察し、痛みを感じた。
「寄越せ」
再び、堕天使の命令が少女に下された。
「無――――」
無理です、と言葉を発そうとした瞬間に今度は蹴りがスティーの側頭部に直撃。
喧嘩などした事のない少女に堕天使は容赦などしなかった。
「加護ってのは鬱陶しい……ロクな怪我をしないから中々死なん。だが内部にはそれなりの衝撃が入るから内部には損害が及ぶ。勉強になったか? お前ら」
「今までのは加護がねえからすぐ死んじまってたよな。今日は実践授業宜しくマーギンさんや」
奥の方からもう一人の男の声がした。
「宝を体に身に付けて、この無人街に足を運ぼうなんて「強盗してください」って言ってるようなもんだろ? ベゼル」
現れた男の名前はベゼルと呼ばれた。
怯えるスティーの前にしゃがみ、彼女の少し腫れ始めた顔を手で掴み上げながら嗤い蔑む。
「ハハハハハッ!! お嬢ちゃん……これからは来世に活かす勉強だぜ? 今までカミサマにお世話になってのこのこぬくぬく平和的に、いざこざ無く、諍い無し、怪我もせず、愛されて、可愛がられて、にっこりニコニコ毎日笑顔での~んびり暮らせてたのがこれからさァ……ボロボロの紙切れみてえに、布切れみてえにぐちゃぐちゃの滅茶苦茶、このべらぼうに整った顔もパンパンに腫れあがらせて、男共に壊れるまでしっぽり穴使われてェ!! 殺されるって思うとどんなキモチ!? ハハッ!! ハッハハハハハハハハハハハハ!!」
「悪魔的だな発言が」
「悪魔だよォマーギンさん。アンタだって元天使のはずなのにやること成す事悪魔的じゃねェか堕天使さァん」
(堕天使……悪魔……)
二つの種族名に、スティーは恐怖した。
堕天使――悪意に穢れ、堕ちた天使を呼称したもの。神でしか裁けぬ故、神の悩みの種の一つである。
横暴、暴力的、差別的で悪魔に並ぶ悪意の権化。魔法は使えなくなるが、持っていた加護や寵愛は使える神のみでしか奪えない――加護や寵愛を持つだけでも、それは脅威であった。
――悪魔を生んだのは『歪』を司るベンサという男神。
歪んだモノを生み出す力を与えられた彼の生み出した存在――「悪魔」という存在は親に似て歪んだモノを持っていた。
歪みは、直さなくてはならない――即ち「回復」が必要である。
悪魔を正すのはいつだって――『回復』を司るバースとその従者である天使たち。
堕天使はベンサとは何ら関係は無いにしろ歪んでしまったものの一つだろう――こちらもまた直さなくてはならない。
――そんな存在を目の前にしてスティーは「逃げなければ、逃げなければ殺される」――そう直感した。
「たっ……たふけてください……命だけは……」
ひたすらに怖かった――最初に堕天使だという事に気付かなかった自分の馬鹿さを猛省し、目からはボロボロと大粒の涙を溢しながら命乞いをした。
泣いているスティーの服にベゼルが手を掛ける。
引き千切ろうとするも破れず苛立ちを爆発させた彼の暴力を、スティーは三回程喰らった――一度目は平手打ち、その次に顔への膝蹴り、そして最後には腹に蹴り。
「けふっ……こほっ……かはっ!」
加護が在れど痛みはというものを感じ、殴られればその分の損害は内部に浸透する――マーギンの言う通りである
加護の効果は外傷や骨折を防ぐ他に内部の致命傷を受ければ即時回復効果、毒性無効、病にならないという性質のみ。
――頬への痛み、鼻の痛み、そしてズキズキと痛む腹にスティーは咳き込んで、蹲る。
「うぅうううぅ……ごぇんなさい。ごめんなさい」
痛みに悶えながらも、スティーは涙をボロボロと流してひたすら謝り始めた。
マーギンは「だったらそれ二つ寄越せ」と言う。
「こ、これは……たいせつな……」
「寄越せやァ!!」
「い、痛いっ!! 誰か……誰かー!! うぎゅっ!?」
髪を引っ張り持ち上げられ、辺りへ助けを呼ぶスティーに今度はマーギンの平手打ちが入った。
同情の欠片も含まれていないような仕打ち――マーギンには善意の様なものは既に存在しない。
男は殺す、女は犯して殺す毎日をこれまで行っていた。
――マーギンは元闘士、バースとの戦闘を夢見て鍛錬に励む天使の一人だった。
鍛えても鍛えても、何かが足りず、いつも準決勝戦に行く前に敗北する。周りの者はそれでも鍛えると躍起になっていた――心中乾いていたのは自分だけ。
それを思い出す度に腹が立ってくる、腸が煮えたぎる程に憤りの感情がこみ上げてくる。
剣を交える事が本当に名誉か? と疑念を抱いた途端から淀み始めたその心の反映か堕天した。
バースと同じ性別――女を嬲って殺して、少しだけ心が潤う事を知ってからはこうだ。
――マーギンの表情には笑みが浮かんでいた。
バースと肩を並べられるほど奇麗な顔に、拳をぶつけ、ぶつけ、叩きつけ、ひたすら叩き込んで、いつかはあの女神もこんな目に遭わせてやりたいと妄想して。
「ハッ――――ハハハハハハハハハハハハハハッ」
「ぎゃっ……うっ……!? っ――――!?」
あの女神がこんな声を上げていると妄想していると、腹の奥底から湧き出てくる興奮に歯止めが効かなくなっていた。
(バース様……バース……バースッ! バァースッッ!!)
殴り、蹴り、引き、再び殴り、蹴って、叩いて、首を絞めて――それでも加護があると死にはしないことがマーギンにとっては都合が良い上、これまで溜まっていたであろう苛立ちをぶつけるにはもってこいの逸材――彼は恍惚な表情を浮かべていた。
(神バースと同じ……加護ッッ!! それを持ってる奴を……)
――――今、嬲っている。
「イイ……最高だ……気持ちがイイ!! もっともっと殴らせろよッッ!! 楽しんでもイイよなァベゼルゥ!!」
「あと五分だけね。俺もしたい」
五分が経った時にはもう、スティーは抵抗らしい抵抗をしなくなっていた。
――ベゼルからも同じ仕打ちを受けた。
敵う訳ががないと理解している。元より喧嘩などした事はなく、力も普通の女の子と変わりなく、出来ることは命乞いと涙を落とす事だけ。
「バース様……メトリー様ぁ……」
その名を口にした後に漸く暴力が止まった、マーギンから迫られた。
「神バースは兎も角、なんで側近の名前を知ってる……? お前、関係者か? 不味いな……」
手を離され、どさりと倒れたスティーを見下ろしながらマーギンが額に手を当て、少しだけ焦りを見せた。
「おい、奥に二人ほど悪魔が居る。そいつらに鉛筆と紙を借りて手紙を書け――『私は大丈夫です。心配なさらず』ってな」
髪飾りと首飾りは暴力を受けている中で抵抗を止めた時に奪われた。
シエラとニゲラの顔を思い浮かべながら心の中で謝ることで精一杯――マーギンから言われたことにも従うしかなく、ゆっくりとした動きで奥へと進んで行く。
「早くしろ」
「~~~~~~っ!?」
背中を蹴られ、前に倒れ痛みに悶える。
――両耳共に聞こえ辛くなってきており、内部への損傷も激しく途中からは吐血もしていた。頭で考えることもほとんどできなくなっている。息をするにも苦しいし、うまく立てない。
「ぐすっ……」
泣くにも肺が痛くて辛かった。
(シエラ様……ニゲラ様……どうしたらいいですか……? 辛いです、痛いです……助けてください……)
逃げなければ殺される、とスティーは再び思った。
鉛筆と紙を二人の悪魔から貸してもらってからそしてバースたちを心配をさせぬように書けと脅されて、ようやく先程の二人の目から外れて――逃げるなら今だ、と。
シエラから貰った大切な髪飾り、ニゲラから貰った大切な首飾りを早くに手放す失態。
失態……奪われたのは自分なのだからこれは自分の失態だ、甘えちゃいけない――とスティーはすすり泣いた。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………私もうダメです。痛いのはもういやです)
心は折れかけていた。
(シエラ様に、ニゲラ様に髪飾りと首飾りを取られたことを言ったら……きっと怒りますよね……)
叩かれるだろうか、怒鳴られるだろうか、それとも髪を引っ張られる? 怒られたことなど先程まで一回たりとも無かったから分からなかった。怒られるという事をこれ以上とないくらいに恐れた。
壁に手をやって、体を支えながら進む。
(――――――!)
明かりが見えた。きっと悪魔の居る場所だ――と理解した途端にスティーは別の方向へと進んでいた。
悪魔は他人の心情など関係なしに自分の気分でしか動かない為に、相手の痛みや苦しみを一切考えない生き物であるとニゲラの書斎にあった本に書いてあったのをスティーは思い出したのだ。
(何処かに進めば、ベズベラかアクロスに着くはずです。そうしたら助けを呼んで、バース様の所に行って、シエラ様とニゲラ様の所に連れて行ってもらって――――そしたら、髪飾りと首飾りを取られたことを……沢山謝って……)
怒られてもいいから、叩かれてもいいから、沢山謝ればきっと許してくれるはず。
ベズベラに、アクロスに抜ければきっときっときっと――――。
「バースさまに会える~~~――と思ったぁ?」
煽るような言葉が聞こえたと同時、人の感触にぶつかった。
始めて見る悪魔である。
「オジョーチャン……悪魔ってのはねぇ……知覚器官が優れてんだよね。誰かが近くに来て、別の方向に急に向かい始めたら不自然でしょ。こんな無人街でさァ? こんな迷う街で明かりの方向に向かわない人間変だし。フツー「すみませーん。道教えてください迷ったんです」って聞くよねえ」
悪魔が肩に手を回し、今度は目で追えない速度で首を絞められ持ち上げる。
「かっ――――――!?」
「それにしてもさあ……可愛いねえ可愛いねえ、君くらい可愛いの神バースと何回か目にした創造神と神ニゲラくらいだよ……ボコボコにされてても可愛いのヒキョーじゃね? さっきの「助けてー!」ってもしかして君かなあ? 後でマーギンとベゼルに告げ口して? 俺にヤられながら仕打ち殴られ続けるっての想像したらもうたまんねえ……最高だろ……!!」
声に熱を帯びさせて、頬を紅潮させて悪魔は興奮した様子を包み隠さず言った。
スティーはもはや絶体絶命、助かる選択肢などもう見つけられようにもない。シエラとニゲラから貰った髪飾りと首飾りは自分の位置を報せる効果もあるが、奪われた以上自身の位置を伝えられない為バースがスティーを見つけられる前は惨い仕打ちを受けるのは明白だろう。
スティーは失神した後に地に落とされ、そして引きずられて暗い路地の奥へと連れ込まれた。
スティーが目覚めた時、目の前に居たのは二人の悪魔だった。
悲鳴を上げようにも声が出なかった。先程首を強く絞められた時に声帯に何らかの異常を起こしたと見られ、声を出すにしても掠れ声しか出ず、もう助けを呼ぶ気力もない。
場所は大きな布で天井が作られた人工的な拠点――奥の方には木箱が数十個ほど乱暴に積み上がっており木箱の山と言った単語が連想される。
ここまでの道のりは失神していた為分からない――現実から目を背きたくなる程の絶望の連鎖だった。
先程は暗くてよく見えなかったが、ここは明かりが点いておりその容姿も今は良く見える。先程スティーの首を絞めていたのは細身の悪魔で身長はスティーと同じ程度、男性としては小柄な方だろう――黒いボサボサの髪に金色の瞳、耳の上あたりにちょこっとした角が生えており、左片方しかないが膜の張られた爬虫類の如き翼が生えていて、ボロボロの黒い服を着ている。
彼はスティーの身体を舐め回すような厭らしい目で眺め、同じく厭らしい笑みを浮かべていた。
「さっき逃げようとしてたんだよお~。悪い子だろ?」
「なる、ほど……こちらの……欲を、掻き立てる……興奮させてくる……色んな意味で、確かに、悪い、子だ」
奥に座っている悪魔が答えた。
スティーの恐怖を煽るような容姿――黒くて長い女性的な髪に、少し開いた目には光の無い黒い瞳が見える。
その表情は無表情、特徴で特筆すべきはその体毛――服は着ておらず、顔は人間的で肌が見えているというのに体には深い毛が生えており動物的。
体躯も大きくスティー二人分の幅、座っているのにスティーの身長の五割分の高さがある。大きさに秀でた霊長類の体の上にちょこんと頭が乗っている見た目で、角は生えていない。
(ひっ――――)
そして、スティーは生まれて初めて男性器という物を見た。
猛り立ったその物体はスティーの前腕程の大きさで、毛の中から醜怪なモノが顔を覗かせているような印象――人間の性行為というものはニゲラと過ごした日々でどういうものかは理解しているが、目の前のソレを無理矢理に相手させられるのかと思うと背筋を凍らせ、怯える。
「この前の、女の子は……何回かで、壊れちゃったから、今度は、加護持ちだし、楽しめる……気持ちいい、興奮する」
「いやいや、ゴルベック。オメーがやると後のオレらが気持ちよくねーのよ広がっちゃって」
「お前たち、のが、小さい、のが……悪い……簡単に、広がるような、臓器を、持ってる、人間の、天使の、その他の……女も、悪い……そうだろ、ベスタル」
その会話は女性が聞けば裸足で逃げるような醜く残酷で不快極まりない会話だったが、如何せんスティーは逃げられなかった――ここで襲われる未来しかスティーには見えなかった。
** *
「マーギンさんよ。その飾り二つで何が出来るんだ?」
ベゼルの問いに、マーギンは「見ろ」と言って髪飾りと首飾りを見せる。
「創造神の象徴画が埋め込まれているだろう。首飾りには知恵神ニゲラの象徴画」
なるほどと頷くベゼルはそれがどうした、と聞き返した。
すると、マーギンはこの二つの象徴画の効力をそれぞれ説明する。
創造神の象徴画は全ての神を含めて最高の恩寵と加護、効果を得られる――例で言えば魔法を使う際の魔力消費を無いものとする、描いた魔法陣による魔術の発動をより強力なものにする。持ち主へ発せられた攻撃魔法が無効になるなど様々。
――知恵神ニゲラの象徴画の効果のうちマーギンが知っているのは知覚能力の高補正、持ち主の身体の環境対応能力の進化補正等々だ。
「――それがあれば、神バースにも勝てると思わねェか? あの最強の神を地に伏せて、あの卑猥な体つきとその味を堪能して、奇麗な顔を穢してやりたいと、思わねェか?」
「ハハッ! 思う思う!!」
最高じゃないか、とベゼルは口角を上げた。
――卑劣で下劣、元天使とは思えない発言。
そこまでして神バースに勝ちたいのか、と真っ当に鍛錬に励む天使たちこの場に居たならば言うだろう。
――確かに試合で負け続けた事は悔しいかもしれない、屈辱だろう、あの神バースに少しでも一泡吹かせてやりたいと思うかもしれない。
だが――負けたのは、地に伏したのは自分自身の鍛錬不足が成した結果だ。
神バースは、敗者に対して決して見下すことなどしない神だ。
何が気に入らない? 本来天使がするはずのパルバト全域の偵察などを「鍛錬があるし、忙しいだろう」と言って何の文句の一つも言わずに自身一人で全部負担するその神の何が? どこが気に入らないというのだ?
天使としてこのパルバトに生を受けた時に世話をしてくれたのは誰だ? ――神バースである。
来るもの拒まず、去るもの追わず。子供好きで、子供には滅法甘くてなんでも許してしまうのが代表としての玉に瑕というのが少ない欠点の一つ。
過去に一度、人間を殺したことはあった――それ以来人を殺したことは一度たりともない。
天使たちは見ている――その殺した人間が埋葬された墓に毎年赴いて花を手向けて、墓の手入れをする神。
涙脆くて、可愛いもの好き、人の笑ってる様子を見るのが好きで、言ってる言葉自体は男っぽいがそれは本人曰く「格好が良いから」と茶目っ気ながらも品格溢れる優しい神。
――その神が気に入らない? ならば何故この街に居る? 天使たちは問うだろう。
目の前の女神が、焦りを感じながら自分と戦っていることをヴェルダンだけが気付いていた。
――グランティアにて、ヴェルダンとバースの戦闘が行われていた時にまで遡る。
(バース様が、何やら焦っている……技の練度もいつもよりか……低い)
ヴェルダンがそう感じたのは、防戦に徹しつつ自分が戦闘以外の事を考える余裕が生まれているのにも異常性を感じたからだ。
早く終わらせなければ、早くに倒れてくれ――そんな意思を女神の拳に感じる。
彼女の表情は複雑――相手である自分が倒れてくれない事への焦りと、少しだけの苛立ちが表れていた。
「どうしたヴェルダン。私と戦いたかったんだろ?」
煽るような言葉に、ようやくヴェルダンはバースが何かしらの事情を抱えていることに確信を得た。
これまでのグランティアの彼女の試合を見ても、そんな煽り言葉を発するなんてことは一切なかった――ただただ純粋に観客に楽しんで欲しい思いをその立ち振舞いからは感じていたのに。
何より――戦闘前にこちらの体力を回復させてこなかった。いつもなら「疲れてると良い戦闘が出来ない」なんて相手を気遣ってくるのに、今回ばかりはそれが無い。
つまりは――――らしくない。
「ヴェルダン……?」
「――――身内の不幸ですか?」
図星――――バースが動揺する。
「っ…………」
「身内が不幸に遭っている、だけども今この瞬間自分が抜ける訳にもいかない、観客全員に喜んでもらいたい――――貴女は本当に、人思いの神だ」
観客席の方から戸惑いの声が出始めた――「何をやってる早くしろ」と一人の男性が声を張った。
「私は――――万全な貴女と戦いたい」
下を向いていたバースが驚いた表情でヴェルダンに顔を向けた。
「身内の方が大事でしょうに――――かつて親を殺された私はそう思います。グランティアは明日に引き継ぎましょう」
バースは精一杯の感謝を口から発し、出口へと走る。
二日開催が約束された時――観客が湧いた。
** *
「バ――――――」
瞬きの間にベゼルが一文字ほど声を発し、マーギンの瞳がようやく路地の情景を捉えた時だった。
ベゼルは最上位悪魔のうち一人――それが今、満身創痍で壁に埋まっていた。
「――――あ? ベゼル……?」
悪魔が攻撃を受けたであろう瞬間——マーギンには何も聞こえなかった、何も感じなかった。
ニゲラの象徴画が埋め込まれた首飾りを身に着けていたというのに? ――目の前の現実を脳が否定しようとしている。ゆっくりと心臓が鼓動を激しいものに以降しようとしている。
マーギンが振り向くより早く、女神の声が掛かった。
「洒落てるじゃねーかその髪飾りと首飾り――――マーギン」
時間が圧縮されたかのような錯覚をマーギンは感じた。
後ろにいる人物が誰なのか――声だけでなく気配でもう既に脳が察していた。
まだ天使だった頃に、まだ真っ当に闘士をしていた頃に、グランティアで戦闘を繰り広げていたあの光景の中……主神専用の傍観席からこちらを見ていた女神。
――目を見開いて、持っていた葉巻が指からするりと抜けて、それが地に落ちるより先に振り向けば、琥珀色の瞳がこちらを見ていた。目線がこちらを射抜いていた――呼吸の一つ一つを間違えば瞬時殺されるのではないか? と感じた。
「パルバトでは禁煙ってのは分かってるよな」
「っ…………」
「オレが煙草を嫌いだからってのがその理由だが――まあ、それはどうでもいいか」
額から、背中から――全身の発汗が止まらなかった。
背筋にヒヤリと冷たいものを感じる、脳内で警鐘がガンガンと鳴り響く。
「ところで、マーギンお前――羽が黒いが、墨汁でも被ったか? お前が元気なのは何よりだが、オレの意思とは裏腹にこの無人街では悪魔や魔族……堕天使が悪行三昧なのだとさ……それらを中々捕まえられてねえオレの責任だが……その悪魔に襲われていたであろう所に頃合い良く来れて安心した。と思う」
咎めてこない状況に、自分が予想したのとは別の言葉にマーギンは混乱していた。
――怒られていない状況が逆に不安を煽ってくる。バースは自分が堕天使であることに気付いていないのか? というとそうではなく、気付いているはずなのだ。それなのに何故? こちらの油断を誘っているのかという推察だが、マーギンはバースがそんな真似をする訳がない事を知っている。
(やるしか……あるまい……問題ない……創造神の象徴画と知恵神の象徴画の効力を信じて――――)
瞬時、マーギンが仕掛けた。
狙ったのはバースの首筋付近、並の闘士では反応すら出来ない一撃。
その攻撃に効力は確かにあった。身に付けるより前のマーギンよりもその一撃の速度や数倍ほどで、彼の心の中ではこれが象徴画の力かと感動さえもあった。
「――――――残念だ、マーギン」
気が付けばこちらが倒されていた――落胆する女神の声をマーギンは聞いた
いつ攻撃されたのかも検討すら付かない。
手刀を入れたはずの女神はこちらを見下ろし「スティーはどこだ?」と問い掛ける。
聞き覚えの無い単語に聞き返した瞬間に体に浮遊感を感じて、壁に叩きつけられた。
「かはっ――――」
「そこに散ったと見られる血は誰のだ? オレが来た時に既にあった――そこの悪魔の者でもねえ。新しいし、ついさっき出来たであろう血痕……スティーは加護を持ってるから外傷は考えられない……とすると、内臓に甚大な傷害を与えたんだろ? か弱い女の子を嬲るのは楽しかったか? 殴るのは気分爽快だったか? 嘘を吐くなよマーギン」
マーギンがバースの腕に手を掛け、離そうと抵抗を試みるも胸倉を掴む女神の腕はピクリとも動かなかった。
――何という膂力、引きはがせない。そして象徴画の効力を以てしても勝てない程の脅威的な戦闘能力には驚かされる上言葉も出ない。
「その髪飾りと首飾りはスティーのものだな。返してもらう」
マーギンの髪から髪飾りを、首に掛けていた首飾りを取り、バースは自分の懐の中へと入れた。
手を離され、マーギンは地に落ちる。
「お前の処分は後にする。殺さないのですかなんて聞くなよ? 殺しても何の得もねえ、やった分やられろ。他人の幸せ壊す奴がこれからをぬくぬくと幸せに暮らせると思ってちゃ――いけねえよな。覚悟しておくんだな」
そう言われた瞬間、マーギンは一撃を貰い気絶した。
** *
苦し紛れの抵抗――圧倒的な膂力を持つゴルベックからすればスティーの抵抗は何ともない状態のはずだったが、彼は苦戦していた。
髪を引っ張り持ち上げて、服を破ろうとするも繊維の一本すら千切れない――蹲った少女一人に手こずっていたのである。
「腹が、立つ……ベスタル……お前の、魔法で……何とか、出来るか?」
「いや……そんな代物俺も初めてだわ。その服、多分神器の類だぜ」
最上位悪魔である二人――ゴルベックとベスタル。
たかが人間の少女一人にてこずるなど、二人からしても屈辱的だった。
わらわらとゴルベックの体毛が逆立っていく、目は見開き瞳が真っ赤に変色する。怒り、猛り、憤り――即ち憤怒。こうなったゴルベックは怒り収まるまで止まらない。
立ち上がり、彼はスティーに向けて太い腕を振るった。
太い腕は細い体を捉え、少女の体は木箱の山に突っ込む。間髪入れずにゴルベックは怒りのまま木箱の山ごと少女に連打を叩きこんでいた。
一方でベスタルは「壊すなよ」と他人事で止める様子もない。
加護が無ければ骨は砕け、内臓は潰れ挽き肉状に、どれがどの内臓かも分からない程に、原型など留めずに死んでいただろう。
五分、十分――傍からすればすぐに過ぎ去るような時間だったが、スティーには何時間にも感じた。口の中は鉄の味、ただただ体中が痛い、腹の中が気持ち悪い、呼吸が許されない状況からくる苦しさ、今だけは加護を捨て去りたい、誰かに託せるようになりたいとスティーは切に願った。
「ゴルルルルルルルルルルルルルォォォァァ……!!」
言葉らしい言葉を失い、獣の如き唸りを上げるゴルベックの前には拉げた箱とその破片の中にボロボロでうつ伏せに倒れ込んでいる状態のスティーの姿があった。
「オイオイオイ……それ生きてる? もう虫の息だろ。やりすぎなんだよいつも」
「コイツガ……ワルイ……ダガ、カタチ、アル……ガンジョウ……」
悪魔のする事はいつだって自分本位――自分の気分によって他人を害するかそうでないかも変わる。
怒れば殴り、犯し、殺し、もしくは食らう。
殴打による轟音が響く中――足音に気付いたのはベスタルだった。
立てられたその足音がわざとらしかったのは何らかのメッセージか――「逃げるなら今だ」「もしくは覚悟を決めろ」と、聞く者すべてに自信の存在を気付かせるような、そんな足音だ。
誰かはまだ分からなかった。だが――
「ゴルベック。わかるか?」
ベスタルの言葉にようやく足音に気付いたゴルベックが、殺意の方向を足音の主へと変えた。
「――――この無人街の利用目的は、お前らの居住の為じゃねえ」
女神の声が路地裏に響く。
――ベスタルはマーギンに聞かされていたことがある。神バースという存在が如何にこちらの抵抗を許さぬであろう強さを持っている事を。
スティーの埋まる拉げた木箱の山を越えて逃げるが吉であることを、直感でもう既に察していた。
「神殿じゃ収まり切れねえケガ人の治療室代わり。行く当てのねえ天使の一時の住屋――それがこんな悪魔共の根城かのように扱われてるとはなあ……」
バースの全容が壁より現れた瞬間、ベスタルが初めに仕掛ける。
――ゴルベックとは違い速さに特化したのがベスタルという悪魔であり、その一撃を見切った者はこれまでに出会った天使や人間の中には居なかったと彼は記憶している。
音速を超え、人が「見えた」と認識された瞬間には彼らの自分の首が切断されているはずの一撃――それをバースは摘まんで止め、ベスタルに反撃を見舞う。
「ッッ!?」
――何をされたのか、ベスタルは理解できなかった。
気付けば女神の拳が自分の右頬にめり込んでいた。壁に叩きつけられるまで痛みすらも感じなかった。
(ありゃ? ――――俺今殴られ……体が動かな……待て待て……攻撃された? いつ? いつだ?)
起きたことを脳が理解しない状態――ベスタルは混乱状態に陥る。
バースの拳に殺意などは一切ない。ベスタルへの報復たるその攻撃が、手加減された一撃である事を知ればスティーにてこずっていた事よりも屈辱的に感じるだろう。しかし、今この状況下においてはそれもどうでも良い事だった。
逃げなければやられる、という思考が二人の悪魔の頭に過る。
先程まではスティーが持っていた思考が、悪魔二人の脳を染める。
――立場が移転した。
「――無人街を提案したのはオレ。失敗だったかもしれん、ニゲラとは違って学の浅いオレなりに考えた事が、大事なもんに傷を付ける結果になった」
「ウゴクナ」
「メトリーは悪くない、スティーも悪くない。原因はオレ――――責任はオレにある」
「ウゴクナァ!!」
ゴルベックの制止も聞かず、バースは彼の下へと歩み寄っていく。
躊躇など無かった。全てはスティーを巻き込んでしまった自分への怒りのまま――一歩一歩、ゴルベックへと歩み寄る。
「どう償えばいい? 母さん――――オレは馬鹿だから早々には思い浮かばないんだ」
「ナ……ナニヲイッテイル……!?」
ゴルベックからすれば、向かってくるバースが今の状況とは全く関係のない事を呟いているかのような状況だ。その呟きの内容も最早何を言っているのかも訳が分からなかった。
先程まで暴力を振るっていたスティーの事を人質に、バースの動きを止めることも彼は考えていたが、最速の悪魔であるベスタルを瞬時返り討ちにしていたところを見るに、そのような暇さえ与えてくれないのはもう明白、不可能な行いとも考えられる。
そうなれば抵抗あるのみ――ゴルベックは剛腕を振るった。
ベスタルへの一撃で戦力の差が激しい事は自分でもわかっていたが、ゴルベックはそれでも襲い掛かった。
――下界に住まう獣は兎を狩るにも全力で、と聞いたことがあるがこの女神は違う。ベスタル程の悪魔が相手でさえも、彼女のその素振りからして全力とは程遠かった――なんたる戦闘能力。
ベスタルが死んでいないことを見るに悪魔に対してすら殺す意を見せないその甘さ、否優しさか。
そうこう考えているうちに、初めの一撃がいなされる。
ゴルベックの拳に対してバースは手の甲をただ添えて、羽虫でも追い払うかのような所作で力の方向を難なく変えて、拳は彼女の顔の横紙一重という所を通過、放たれた二撃目もまた同じようにしていなされるが、ゴルベックは考えなかった。
「――――オオオォォォァァァッッ!!」
続けて三撃、四撃、五撃六撃七撃と拳が放たれた――バースは全く相手にせず、児戯に大人が付き合ってやっている、とでも言わんばかりの態度を見せていた。
非常に屈辱的――怒りの度合いは益々増えるもどうしようもない。ゴルベックは闘気を上げ、追撃を見舞った。
攻撃の激しさからくる衝撃は凄まじい。
マーギンから聞かされていたバースに対する評価というのは間違っていなかったのだ、
ゴルベックに体力の限界が近付いてくる。
「…………満足したか?」
そして攻撃が止められた時、女神が発したのはそれだけだった。
息を荒くしているゴルベックとは違い彼女は落ち着いている。
――今度はバースが攻撃する側に変わった。
彼女の攻撃は凄まじいものだった――抵抗すら許されず反撃に出る隙もなかった。腹、胸、脚、顔――二本しかないはずの腕、そして同じく二つの拳が無数に増えたかのよう。
抵抗しようと前に拳を突き出しても、その拳は空を切る。
今度は背中から女神の拳を喰らう。振り向いてもその姿を捉えられず、ゴルベックは「チョコマカト……」と怒りの丈を向上させた――だが、幾ら怒りの丈を上げても当たらないものは当たらない。その苛立ちが発散されることはほぼ不可能と言えた。
脳裏に過るのはマーギンとの会話――女神バースの事を、彼は「神の中でも異質に強い」と評価していた。
ゴルベックは攻撃を喰らう中で不思議に思う――何故、そこまで強いのにも関わらず他を淘汰しようとしないのかと。強いものこそ、全てにおいて正義の中枢となり悪もまた正義となる……はずなのに。
(ナゼ……)
解答――バースのその拳は、人の為に振るうものと彼女自身強く思っているからだ。
――汝、強き者であるならば、か弱き者の矛となれ、救いとなれ。
それは――主より賜わった己が信条、道理、掟であり法である。
「オレは、『回復』を司る神バース――回復とは即ち、弱き者の「安寧」即ち「安息」……」
「回復」の権能に恥じぬべく、お前たちに対する「か弱き者の矛」として拳を叩き込んでやる、とバースは強く強く言った。
そして――ゴルベックの顔面に一発の打撃が加える。
一切の無駄すらない綺麗な一撃だった。
「グッ……!!」
ゴルベックは意識を刈り取られた。
――背中から倒れ失神するゴルベックを見下ろしながら、女神は少しばかり乱れた髪を再び結び直し砕けた木箱の山へと近付くが、スティーの姿は無かった。
――バースとゴルベックが攻防を繰り広げている最中、スティーは意識を取り戻し、入ってきた方角とは逆の方角へと進んでいた。
歩こうにも体の節々が痛む所以四つん這いとなり、ゆっくりと進み逃げる。
後から来た人物は味方であったかもしれないのに、どうしてじっとしていなかったのか? と疑問を投げ掛ければ、スティーは「味方である確証はない」と答えるだろう。
スティーはバースの容姿を知らない、声も知らない。
それに、今のスティーの体はボロボロである。視力は下がり、聴力は無いに等しく、今は生きる事に全ての力を注ぐべく行動したのだ。
手を周囲に振って、壁に手が当たればその感触を頼りに道を進む。
(泣いたら……痛い……)
涙を流す度に鼻の奥がツンと痛む、とスティーは涙を必死にこらえた。
――人の事をこんなにも怖いと思った事など無かった。冒険という物をするにはやっぱりどうしても人と関わらないといけない。これからどんどん強かに生きて行かなければならないはずなのに、序盤の序盤でこれだ。怖気付いてしまっている、傷に怯え痛みにも怯えて情けない。
誰かのせい? ――否、これは自分のせい。
自分の運が悪かったせいだ。あの女性の助言を鵜呑みにしたのは誰かと言えば自分ではないか。あの女性の運が良かった可能性をまず第一に考えなかったのが一番の反省点。
寧ろ今の経験は強かに生きる為の勉強になったのではないか? そう考えれば前向きに生きられる。
(そうですよ……これくらいでへこたれていてはいけませんよね……シエラ様、ニゲラ様)
痛みを知れた、暴力がどういうものかを勉強させられた。
(シエラ様もニゲラ様もお優しい方だから……暴力がどういうものかは教えなかったんです。きっと、きっとこれは何かの縁だったんです――視界も聴力も弱くなってしまいましたが、いつか必ず回復の目途が立つはず……)
下界には魔法がある。回復魔法を覚えさえすれば、今は障がいが生じているこの状況も改善されるはずなのだ。
下界の人間はこういう経験も良くする者なのだろうか? もしそうだとしたら本当に凄い、とスティーは感じた。
(これは何かの試練……のはずですよ……)
スティーの足から力が抜けた。
叫んだり、暴力から身を守ろうと力不足なりに抵抗を続けたせいで体力を消耗し続けたせい――体力も付けなければいけない。
(バース様の下で、体力を付け……そして護身を身に付けて……――――)
決意が固まる直前に、微かに足音を聞いた――空間に響いている。
靴底の踵部分が石床に当たる音を確かに聞いたのだ。こつこつという音を耳にした――一般市民か? だがこんな暗い道を歩く一般市民など居るだろうか。
悪魔か堕天使、今度は魔族の可能性が高い。
(逃げ……逃げましょう。急いで逃げれば……)
必死に、壁伝いの状態でスティーは足を引きずりながらその場を離れた。
その足音の主はバースだったが、スティーからしてみればそんな事実は知る由もなく、その脳裏に過るのは悪魔による暴力と堕天使マーギンの仕打ち。殴られ、蹴られ、髪を引かれ――もしかしたら逃げた事で殺されるかもしれない。
(前向きに……前向きに考え――――イヤ……怖い……殺される……殴られ……)
股間に生暖かい感触を感じた。
その感触に自分が失禁した事に気付き、臭いを辿られたら見つかるとスティーは更に速度を上げ足音から逃げる。
街灯などは近くに無い上、視力の落ちた彼女の状態では最早八方塞がり――四面楚歌もいい所。
足音の主の方が圧倒的にこちらよりも速度が上、早くに隠れられるところを見つけたいがそれらしき場所も無い。確実に終わったと察した瞬間にスティーは自分の死を覚悟した。恐らくだがこれから姿を現す人物は屈強な人物であろうから抵抗虚しく殺されることは間違いない。
「ぁ……ぁあ……」
喉笛から掠れた声が出る。
ぼんやりとした視界の中に、人型の影が見えた時――相手に晒したのは命乞いをするという情けない行動だった。
「――――おねが……カハッ……お願いします!! 殺さないでください!! 死にたくありません!!」
喉の痛みを無視して叫んだ。
「許してください……!!」
蹲って両手で頭を守るようにしながら、額を地に付けひたすら叫んだ。
「何でもします!! 働けと言われれば働きます!! 出来ない事でも精一杯出来るようになるまで力を出し尽くします、だから……!! だから助けてください殺さな――――ぐっ……ゴホゴホゴホッッ……っ……――――ぁ……」
必死の行動の最中、喉がひっくり返ったかのような激痛を感じて、大量の血を吐いたと思えば声が出なくなった。
コヒューという気の抜けるような音しか喉からは鳴らせなくなった――ただでさえ傷付いていた喉笛、命乞いを叫ぶという負担の掛かる事をしたせいで遂に声を失った。
頭も痛い――――終わった。
(死――――――死にたくない……シエラ様……ニゲラ様……)
両耳を塞ぐように、温かい感触が添えられる――殴られることは無かった。
蹴られることも、髪を引かれることも、引きずられることも、叩かれることも、投げられるようなことも一切なかったのだ。
痛みが引く、耳が通常通り聞こえるようになったことを直感し、視界もぼんやりとした状態からしっかりと見える範囲にまで回復――喉の痛みと体の痛みも引いた。
「っ!? ゴホッッ――」
気管に残る血液を全部吐いたところで、声も出るようになった。
全ての痛みが引いた時に体を包む温かく柔らかい感触に溺れた――抱き締められた。
鼻腔に通る優しい匂い。甘い果物のような香り――物凄く優しい香りだ。女性的で、この人の傍にいれば嫌な事も痛かったことも全てひっくるめて癒してくれる。そんな錯覚を覚えた。
「――――怖かったろ? 痛かったろ? ボロボロじゃないか。お腹も空いただろう、好きなものをお腹いっぱい食べな……オレが沢山作るから。髪も肌も汚れてしまって……すぐに風呂に入ろう……ごめん、ごめんな……私が、迎えに行けば、良かった……私が……悪かったよスティー」
涙声。必死に涙を堪えるも全ては堪え切れていない、搾り切るような声でスティーは言われた。
そこに嘘など欠片もなかった――バースの心にあったのは命だけでも無事だった事への安心感と見つけられた喜び、痛く怖い思いをさせてしまった事への後悔、そしてこれからはスティーが困っている時は全力で助けになるという決意である。
抱き締められた事から、スティーは次には泣いていた。バースは彼女が泣き止むまで待った。
――泣き疲れて眠るスティーを背負って、神殿まで戻ることにした。
背にスティーの体温と、首筋に掛かる寝息を感じながらバースは彼女が生きていたことに最大の安堵を覚えた。
――身体を覆う心地良い感触、火の揺らぐ光に目が覚め、倦怠感が襲う中スティーは重い瞼を開ける。
知らない天井、周りを見てみると横には可愛らしいぬいぐるみの数々、そして綺麗に片付いた空間――誰かの部屋だ。
部屋に一台設置された本棚には世界情勢の参考文献であったり、料理の製作参考本の他に生物図鑑が収納されている。部屋の広さは個人が使うには十分すぎる程広かった。
寝台の大きさは平均的な体躯の人間が四人川の字で寝ても人半分程あまりのあるくらい大きく、スティーの横には棒状の抱き枕が寝かされており毛布は肌触りもよくふかふかで重みも丁度いい。何より物凄くいい香りがした。
「ん……」
声が出るようになっている事に改めて気付いた――違和感も無いし、完治している。
上体を起こし、自身の体の状態を見ても怪我一つなく完治している――何かしらの力で治されたようだ。服装も変わって薄紅色の寝間着を着せられていた。
「――――っ!?」
寝台の横、床のほうを見てみたら誰かが蹲っていた。
見覚えのある姿……ピュトリスより馬車でパルバトに送迎を任されていたメトリーだった。
彼女がしているのは蹲るような姿は土下座と言い――謝罪形態の王様である。
スティーは「メトリーさん? 何を……?」と声を掛け――メトリーは淡々と、それでいて申し訳なさそうに言った。
「貴女が酷い目に遭ったのは全部私のせいよ。本当にごめんなさい――久しぶりの仕事だからとぞんざいな業務……調子に乗っていたわ」
声が震えている。
「め、メトリーさんのせいでは無いかと……」
「そんな事は無いわ――私が最初から馬車でアクロスの方に行かせればこんなことにはならなかった」
「私の、せいです。複数人ではなく一人で無人街をうろうろしていた私の、せいで間違いはありません」
「……貴女も「自分のせい」という認識なのね……貴女を連れ戻ってきたバース様も「自分のせい」だと猛省してた。元よりあの街に貴女を降ろしたのは私なのに……」
「でも……無人街付近を歩いたのは私ですよ?」
「さっきも、言ったじゃない……アクロスで降ろせばこんなことは起こらなかったのよ。お願いよ――私を責めて頂戴」
――無人街の近くを通る時は天使といた方が安全という事もあり、どちらにせよ怠慢を期したのは自分であるとメトリーは言った。
気にしていない、と言えば嘘になる。悪魔という存在に恐怖心なるものを抱いてしまったし、もう無人街には近づかないかもしれない。いずれこの恐怖心に克服の時期がやってくるだろうとは思っても、それは今ではないとわかる。
――しかし二人のせいにしようとするつもりは毛頭ないのだ、とスティーは思っていた。
「あの無人街に、悪魔だとか……その……あのマーギンさんという方が現れるようになったのはいつからなんですか?」
「十数年前と少しよ」
――それまでは平和だった、と土下座から正座に姿勢を変えたメトリーは語る。
無人街に悪魔は居たが、手を出してくることはほぼ無かったし、死人も出ず天使が悪魔を追い出すのが仕事――のはずだったらしい。
「マーギンが堕天使に堕ちてから、バース様や私たち天使の監視下より悪魔は姿を眩ますことが出来るようになった――マーギンは私たちの仕事の内容を覚えているから、そういうのが分かるのよ」
「魔族の方は……?」
「居る可能性が微細ながらもあるってことだけで、恐らくは居ないわ。それと堕天使もマーギンの他に居るかもしれないから複数いるという前提で注意喚起をしていたの」
そう言うと、メトリーは重ねて謝罪を繰り返した。
「――――何でもするわ」
「えぇ……」
そう簡単に「何でもする」と言っては駄目なのでは? とスティーは反応に困る様子を見せた。
「そ、そうです。バース様は……?」
「パルバトの政策を変えに、パルバトの住民たちそして天使たちと話をするそうよ。……グランティアの開催も数年に一回ほどになるでしょうね……毎年開いていると天使が鍛錬に集中してしまうことで治安維持の妨げになることがやっとわかった、と言っていたわ」
「私の……せい、ですよね」
顔を下に向けるスティーにメトリーは「いいえ」と言って続けた。
「貴女が此処に来る以前にも似た事件はあったわよ。さっき言ったでしょう? これはバース様が自分の肌で感じて、そして自分の目で見て、痛感させられたってだけよ……痛感させたのが貴女なの。バース様が辛くて涙を流した姿、初めて見た。彼女から貴女の強かに生きようとする姿の事を聞いた……天使よりも屈強で、自分よりも強くて敵いそうにないってバース様は……言っていた。私も、貴方のことを尊敬する他にないわね」
そして、メトリーは美しく微笑んだ。
「疲れがまだ溜まっている様だから、もう二時間程寝ると良いわ。バース様もその辺りで帰ってくるでしょうし、彼女がご飯を作ってくれる。絶品だから楽しみにしておきなさい――眠れるまで、何か本を読んであげる。異界の本だから、初めて聞くはずよ」
「それは……楽しみですね」
結局、二時間どころか翌朝まで熟睡してしまい――スティーがバースと対面したのは翌朝になった。
バースとの邂逅を期した先程では、暗かった為に彼女の姿を目に映すことは叶わなかったし、更には泣き疲れて寝てしまったし、覚えているのはその匂いと柔らかな身体の感触とさらさらとした髪の感触だけ。それだけでも女性からしても「羨ましい」と感じるくらいの魅力を持っているなのだが、その姿を目にしてみると、スティーはシエラとニゲラとはまた異なる美しさに絶句した。
メトリーの言っていた通りの容姿――髪を後ろで一つに纏め、割烹着という服装を着ており右手を腰に当ててこちらを見ている。
「――――お初にお目にかかります……」
緊張し、体を強張らせながらもスティーは挨拶をした。
「堅苦しい挨拶は抜きにして欲しいな。スティー」
最初は礼儀を重んじた挨拶で、と思っていたが断られ簡単な挨拶を済ませて――料理を振舞ってくれることになった。
――十数脚の椅子が並ぶ長さのある大きな卓上机、ここで側近の天使たちは食事をするとメトリーが言った。
その椅子のうち一つに腰掛け、スティーは背筋を伸ばして料理を待つ。
厨房に続く出入り口からは料理をする音とその香りが漂い、くるると腹の虫が鳴いた。シエラとニゲラから「バースは料理が上手い」とスティーは聞いている。
シエラの事をスティー以外の神は「母」として呼称しているが、バースの方がよっぽど母親っぽい印象をスティーは感じる。割烹着も良く似合っているし、ちょっと席を立って厨房を覗いてみても料理をしている様子はまさに母親の姿。
まな板を包丁の刃が叩く音、ぐつぐつと鍋の中の湯が煮え滾る音――バースと家庭を共にすればその様子も毎日のように見れるのだろうか。
「バース様の料理を普段から口に出来るのは側近の天使たちくらいなの――特別よ」
「へえ……」
バースが作る料理というのは特別という訳でもないそうだが、食べられる人は限られているという事か。
「――――とは言っても、実を言えば、この神殿に来れば、いつでも食べられるけど……何故か特別視されているわ」
聞けば、その料理の腕は下界の全ての料理人が人生のすべてを捧げても到達できそうにないレベルにまで行っているそうだ。下界の人間が口にした際の逸話の一つとして、満腹になっても食べ続けてしまい数日のうちに体重が二倍に増え、過剰な肥満になってしまったとか。
それを聞いてしまうと、スティーは食べてもいい料理なのかと心配になってしまった。
「大丈夫よ。バース様もそれを境に反省して、食べさせ過ぎないようにしているわ」
――そして、話しをしていれば目の前に料理が出された。
汁物料理と肉料理、野菜料理といった栄養の釣り合った献立。スティーは目を輝かせて箸を取る。
「そこまで特別なものでもないが……召し上がれ――頂きます」
前に座ったバースがそう言って、彼女も箸を手に取る。
――肉は甘酢風味、柔らかく良い火加減で米によく合い気付けば茶碗の中は空になっており、お替りを所望。スティーの隣で食べているメトリーに関してはもう茶碗三杯目に到達している――少食だったのではと思い込んでいたがそうではないらしい。
下界の人間の気持ちが分かったとスティーは頬袋でもあるかのようにどんどん口に放り込む。
そして飲み込み、スティー自身気になっていたことを聞く。
「そういえば、天界でお肉って、どうしてるんですか? このお肉は見た感じ牛肉のようですが……」
「天界で流通している肉類はベーゲルという魔物のものだ。この魔物は別生物と番になると番と同種の形になるし、その肉質も同じものになる特別な魔物で――それに肉を切り取っても切り取っても際限なく再生する不死身の生物なんだ」
その魔物が天界の人々のたんぱく源及び肉食生活の糧となっているのだそうで、天界にしか生息していないらしい。
下界で人間が贄として出したものが天界で送還されるというのが本来の食物確保の流れだが、生き物を贄として出すのは創造神であるシエラが禁じていると、バースがスティーに教えた。
「ベーゲルは天界だと珍しい生き物でも無いが、下界では「繁栄の象徴」と伝説の生き物として崇められてもいるんだ」
食事をしながら、バースとメトリー、スティーは話をする。
パルバトであったこれまでの一大イベントや、バースが従者として男性天使たちを迎え入れようとして結構な数の女性天使から反対意見を貰ってその男性天使たちの帰り際項垂れる姿の話など。
あとは――昨晩捕まった悪魔やマーギンの話も。
――彼はこれから処罰を下されるようになるらしかった。悪魔は下界へ降ろされ人間に討伐を任せるらしいが、堕天使はそうもいかないとメトリーは言う。
「悪魔さんが下界に降ろされるのは何故なんですか?」
「良くも悪くも、悪魔を討伐することを許されるのは下界の人間なんだ。天界の人間も人間で神や天使と同じ制約を課せられているから、悪魔の討伐を下界に任せているんだ」
「そう……なんですね。何故ですか?」
天界で悪魔が殺されても蘇る――下界で討伐されればそれが無くなるという理由がバースの口から語られた。
「スティー。いずれ昨日の奴らと遭遇することがあるかも知れない……その時は――」
「分かってます」
だからこそ強くなります、とスティーは決意を顕わにした。
その目に曇りなどは一切なく、バースは嬉しそうに微笑んだ。
食後――スティーとバースは入浴を共にしていた。
昨日と同じ寝間着のままで、身体をお湯で清めるのも間が空いている。寝ている間に体を布等で拭かれているもののスティーからしてみれば若干の不潔さを感じていたこともあり、バースの誘いに乗ったのが数十分前の事である。
脱衣所にて、一糸纏わぬバースの身体つきにスティーは思わず「ほわ……」と間の抜けた声を出す。
程よく付いた筋肉――がっちりとしている訳でもなくその線は非常に女性的であり無駄は一切ない。乳房はスティーよりも一回り二回り大きい――衣服を着ている際はさらしを巻いているのだそうで、揺れるそれは形も張りも極まれり。
彼女の水浴びを一度目にした男性から『極上を感じてしまうと、それ以降は大抵極上でしか満足できなくなる』という意味の「焼き付けば易く離れぬ」という諺が生まれる程、その裸体は美しい。
――メトリーが移動中に言っていた過剰とも感じられるほどの評価をスティーは妥当であると今理解した。
「入ろうか」とバースが言い、スティーもそれに答えてその背中に付いて行く――平静を装っているが、バースはバースで内心心臓の鼓動を激しくしていた。
――浴場の広さは百程の数が一斉に入浴をしようとも余裕な程広く、蒸し風呂や水風呂、奥に行けば砂風呂など風呂の種類は豊富で、その数は天界で一番。他の街から利用しに来る天使及び他の種族は多数。湯船のお湯は健康に良い成分が含まれているのは言うまでもないだろう。
その広い浴場にて体を洗い合いしている姿は女性天使たちの目を引いていた。
バースと入浴を共にする天使はメトリーがその割合を多く多く占めている。メトリー自身もかなりの美人なのだが、今回はそれを凌駕する容姿の美少女が共にしているその状況――その様子が絵画として出回れば数百億は下らない程度の価値が評価されるに違いない。
体を洗った後は、バースの案内でそれぞれの浴室をスティーは楽しんでいた。
「す、スティー。あの……神殿には今空き部屋はあるん、だけどさ……その、えっと、良ければオレと一緒の部屋に……とかどうかな、って思うんだけど」
浴場より出る時、そのバースの誘いにスティーは了承の意を示し、彼女の自室で過ごす事となった。
部屋に戻った後、スティーの髪を櫛にて解かしながらバースが切り出す。
「……強く、なりたいんだっけ」
「はい」
短い返事をした。本棚にあった一冊の本を開いて、読みながら。
その為にこの街に来たと言っても良い――昨日にあれほどボロボロにされて、自分は弱い事を強く刻み込まれた。肝に銘じられて、彼等に負けないくらいに強くなることで、下界を旅するにしても不便はないと感じたのだ。
だが、バースは櫛で解く動きを止めて「ごめん……」と申し訳なさそうな声で言った。
「私は……正直、スティーに危ない事は教えたくない。殴る、蹴る、そして何かの武器で叩く突く斬る。それは悪魔とマーギンに昨日嫌という程身に学んだはずだ――「相手に痛い思いをさせる」ものであるということを、さ」
だから、戦闘術を教える事は出来ないとバースは声を震わせながら言った。
――スティーにとっては期待外れの言葉だろうと思っていた。
もしかしたら用無しだとして出て行ってしまうかもしれない――そう思って、でも目の前の少女には怪我をしたりさせるようなことは教えたくないとバースは思いを告げた。
「本当に――――ごめん」
「謝らないでください」
バースが改めて謝った時、スティーが即答した。
びくりとバースの方が震える――「嫌われた?」と彼女は不安げに表情を歪めた。
静寂が続く――あの暴力を受けなかった場合、自分はどう答えていただろうか、とスティーはまず始めに考えた。
「それでも私は学びたいです」と言うに違いない。元よりこの街に来た理由は最強と称される彼女、神バースに護身及び武力、即ち体術を身に付けに来たというものだ。
だが――暴力を沢山浴びせられた昨晩の経験を通した今の自分には、彼女の言い分がすんなりと理解できた。
もう殴られたくない蹴られたくない。暴力に対する怯えという物は恐らく――消え去ることは当分無いだろう。
「わっ……私は、スティーの事が好きだっ。これは友達とかそういうのではなく…………こ、ここここ、恋仲になりたい……という……そういう「好き」で――――だから、もうこれ以上スティーが傷付くのはイヤで……どうか、分かって欲しい……お願いだ、お願い……します」
** *
――この経験を、これからずっと昨日の事のように思い出す事だろう。
生まれて間もない少女がボロボロの状態で――自分よりもずっとずっと強かに生きようとしていた。
その強かさに、バースは心を奪われていた。自分よりもずっとずっと強いその様に、バースは強く惹かれていたのだ。
スティーを見つけるまでは、普段なら簡単だった――大猩々のような姿をした悪魔が自分と対峙し、抵抗を見せる前に一瞥した場所にスティーが居ると見込んで、そしてその場所が砕けた木箱の山となっていたところを見るに、少女にとっては凄まじく悲惨な仕打ちをしたのだと理解した。
次に憤り、殺してはならないと冷静さを保ちながら撃退して――木箱の破片を退けても退けても見つからない少女の姿に、背筋がヒヤリとして心を焦燥感が染めていた。
しばらくして、身体を引きずったような血痕を発見した。必死に生きようと逃げ延びようとしたのだろうとわかった途端……強かに生きようという少女の行動に心動かされたのだ――ここで歯車が回り始めたのだろう。
加護があるにも関わらず、血痕がある事から見て内臓に損傷、かなりの重傷――満身創痍と分析していた。
上空に信号用の静音花火を上げて、堕天使一人悪魔三人の処理を天使たちに任せることにして、自分はスティー探し。
暗闇でも昼間同然に見れて、且つ周囲の状況を感じ取れる自分ならすぐに探し出せると踏んだ。点々と血も落ちていたからどう進んで行けば、スティーの下に辿り着くことも容易だと。
見つかるまでの道のりで思っていたのは反省とこれからの事だ――無人街という仕組みを設立させたことが、目的に反して逆に住民への恐怖心を植え付ける結果を生み出した。男性はすぐに殺されてしまう、全ての女性は悪魔やマーギンに嬲られて途中命が絶え、蘇った後も、その記憶が相まって良くて男性恐怖症、最悪「もう消えて無くなりたい」と自害を繰り返す――何度彼女等への心傷治癒を試みたことか。
スティーもそうなってしまうのか? と不安を感じた瞬間に、被害に遭った人の姿と教えてくれた恐怖心を思い出して涙が零れた――なんて謝ればいいだろうか、どう責任を取るべきか。
天使の鍛錬の優先して、彼等の仕事も自分一人の身に担ってやろうとしたのがいけなかったのかも知れない。神と言っても身体は一つしかないことで出来ることにも限度があると気付くのが遅かった。
限界を悟られないように、そして人間たちにとっても都合の良い神になろうとし過ぎた。
「うっ……ぐすっ……うぅっ……」
泣きたいのは今も痛い思いをしているスティーの方だ、辛い思いをずっと抱えて苦しんでいる被害者たちだ。
――自分に言い聞かせようとしても益々涙が溢れてくる。止まらないし、視界もぼやけるから余計見つけ辛い。
こういう時、ニゲラならばどうしていた? 頭の良い彼女の判断はいつも本当に凄い。ピュトリスの住民からは不満の一つも聞かない。
自分が良い神になれるのはまだまだ先の話だ――嫌われる未来も遠くないだろう、と思った。
やっとの思いでスティーを見つけて、彼女が喉を潰すまで命乞いをして、制止をしようとも言葉が出てこなかった。
「死にたくない」と、「何でもする」と、「出来ないことも出来るようにする」と――その強い言葉に気付かされた。
でも――――もうこんなことが彼女の身に怒らないように、平和に過ごして欲しいと切に願ったのだ。
「体の動かし方とか、効率のいい運動とか――――それを教えてくれるのであれば、諦めます」
その言葉に、バースは言い表せようもないほどの安堵を覚えた。
「ありがとう……私で良ければ」
――スティーがそれからバースの傍で過ごした期間は五か月。
彼女にとって、バースという女神は卑怯な女神だ。普段格好の良い雰囲気を出しているのに「あと少しでシエラ様の下に戻ろうかと思います」というと世界の終焉を目の前にしたかのような表情を見せ、あれやこれやと言い分を付けて滞在する期間を延ばしに延ばし、スティーは過ごしていた。
女神バースの事は――好きだ。
シエラとニゲラ、ファリエルが彼女のことを好きになった所をどんどん見ていくうちに――そうなっていた。
そろそろ帰る素振りを見せて、彼女に「待った」を掛けられるのが何ともくすぐったい。少し意地悪をしていたかもしれないが、スティーは慌てるバースがあまりにも可愛く感じて、ついやってしまう。
柔軟体操に加え、身体を動かす練習がてら舞を踊る時も彼女が傍にいるのが当たり前に感じる程二人の間は密接になっていた。
手拭いを噛み締めて嫉妬を隠さないメトリーも面白かったが、彼女にとっては泥棒猫なのだろう――しかし、バースの恋する表情が彼女の心を射抜いたようで、後半に至っては「今日のバース様はどうだった?」と聞いてくる始末だ。
しかし――そろそろ下界に行く準備をここで終盤としなくてはならない。
(シエラ様も待っている……もう延ばすことは遠慮した方が良さそうですね)
翌朝に、今度は確固として「そろそろ、終わりにします」とスティーは告げた。
もっと話したいし、触れ合っていたいのはやまやまだが――――今回ばかりはもう無理だ。
「そ、そう……そっか……」
我儘を我慢するバースに、スティーは自分の気持ちが通じたのだと安堵する。
「私も……一緒に……」
全てを我慢することが出来なかったのか、バースの口から呟きが漏れる。
「良いですね――と言いたいところですが、シエラ様とした約束は二人で行くことなので」
「も、もっと一緒に居たかった……」
バースの本音を耳にしつつ、持って来た鞄を掛け、シエラより貰った髪飾りを飾り直し、ニゲラより貰った首飾りを首に掛ける――そして、バースより貰った腕輪を装着する。
中央部分には大きな紅玉――その紅玉にはバースの象徴画が埋め込まれており、腕輪全体は金のもの。
「暫くは、シエラ様と共に過ごします。貴女に頃合いが出来たら、ニゲラ様と共にでも下界に来てください」
だから、それまでは離れ離れだとスティーが言うと、バースは一転して嬉しそうな顔になり頷いた。
(その顔、本当に卑怯ですね……)
「そ、そうだ。五か月前に見せたグランティアの試合――どうだった? 感想を今欲しいな」
「そうですね……」
最後に一つだけ会話を、とあざといバースにスティーは言う。
「凄くかっこよかったですよ。惚れ惚れです」
そう言って、スティーは部屋を出て、神殿を出た。