プロローグ・セカンド
――本当は、最終的に失敗するのではないかという不安があった。
途中経過でも失敗を繰り返し――自信を失くしかける度にシュアとメアル、そしてノアが慰めてくれてそれで、何とかやる気そのものを繋ぎとめていた。
時間間隔は数百年と少しぐらいだったが、本当はどれ程の時間が経っていたのかという自覚はあった。
猿人類が地上で誕生してから、心に現れるのは焦りばかりで――元人形少女となったこの子との旅は、夢語りに終わってしまうのではないかと思ってしまっていたのだ。
シュアとメアルには感謝しかない。途中、自暴自棄になりそうになりそうだった時も文句を何一つ言わずに朝食昼食夕食と作ってくれていた。ノアに関しては他の神と同じように「母さん」と自分を呼んで、場を和ませてくれもした。
あともうちょっと、あともうちょっとで完成するのでしょう? と応援してくれて、どれだけ創造神の心の拠り所になっていた事か。
あの日の人形が見守っている――恥ずかしい所は見せられない、と固く決心した時からが一番成功の多い作業だったと記憶している。
神は永遠の命を持っているから、あの日語った「永遠に一緒に居たい」という自分の願いを叶えるべく永遠の命を持つ存在へと創った――死に別れが一番辛いから。
あの子のように、純粋に自分を見て欲しいなと思いながら少女に着せる服を縫い上げた。
愛してる、大好きです、ずっと一緒に居てください。そんな言葉をこの少女の口から聞けたらどれ程幸せな事だろうかと理想を思い描いて――多分、自分は嫉妬をするだろうけど、沢山の人に愛されて欲しいと願いながら、最後に少女の鼓動を動かした。独占欲が無いと言えば嘘になるが、他に愛する人が出来たなら受け入れようと思う。
「ん……うぅ……」
頭が覚醒してきて、声を漏らしつつ上体を起こす。
泣き疲れて寝てしまったのだとそこで自覚して、泣きすぎたことによるほんの少しの頭痛と横に手をやった時、柔らかい感触を通じてようやく完全に目が覚めた。
「おはようございます」
部屋の入口の方から声が掛かる――女性姿のファリエルだ。
「今日は早めの起床ですね。いつもは昼頃に目覚める貴女が……感心しました」
少し冗談交じりに、彼女が持っていた御盆から一杯の水を創造神に渡す。
「あ、ありがとう……」
創造神の神殿の近くに湧く聖水――全ての病気に効くその水を喉に通せば頭痛が収まり、素直にも礼を言い先程と同じような台詞を大天使が発する。
そして今度は近くに置いていたのか、枕を拾って言った。
「先日、投げられた枕が泣いていますよ……謝らないんですか?」
「だ、誰に……?」
「枕に、です」
なんじゃそりゃ、と創造神は苦笑する。
それを言うなら八つ当たりをしたのはファリエルになのだから謝るなら彼女にだろう、と創造神は「ごめん」と一言詫びを入れた。
すると、ファリエルは枕を顔の高さにまで持ち上げ、裏声で「イイヨ!」と発する。
「ははは……」
出来た天使だ、と創造神は心の中でファリエルの事を褒め称える。
そして、人形少女が目覚めるようになったのは彼女のおかげである事も察していた。「運命」を、否――きっかけたる何かを自分の居ない時に授け、目覚めさせたのだろう。
これから暫くは、四人に頭が上がらないかもしれないと創造神は予想した。
寝ている少女を起こすのは申し訳ないと創造神は部屋の机に置いてある人形の下へと近付いた。
思い出の人形だ――「ずっと傍に置いてください」ととある日の少女と交わした約束を反故にする訳にはいかない。
どうしようかと悩んだ末に創造神がたどり着いた結論、人形を持ち上げ――別の物へと変化する事だった。真ん中に金剛石の装飾がされ、その金剛石の中には神々がそれぞれ持つ象徴画と呼ばれる紋様が入った髪飾りの神器。
――人形少女の身に付けている事で傍に置く約束も果たせると感じたのだ。
(ここ最近……私、情緒が安定していないな……)
悲しんだり嬉しくなったり、また悲しんで嬉しがって不安を覚えて、表情豊かと言えば聞こえはいいが……今尚もすやすやと寝息を立てる少女に情緒が安定していないことを理由に嫌われないかと不安が出てくる。
(ほらまた……今度は不安が……)
そして、創造神はしっかりしなければと両の頬を両手で挟むようにぱちんと叩く。
丁度良い頃合いで廊下の方から朝食の準備が出来たと声が掛かり、創造神は部屋を出る。
世話になったと改めて礼を言うのは少し照れ臭いものがあると感じた。
ファリエルは神殿に帰ってしまったのかもう居ない為三人の天使に礼を言った――「今まで言えなかったけど、いつもありがとう」と、顔を少し赤くさせて言う。
何で急にそんな事を、と問われて創造神は「今のうちに、何か変っていかなくちゃと思った」と音量は小さいながらも答え、彼女に対して三人の天使は各々顔を見合わせた後に吹き出した。
「わ、笑わないで……これでも、私にとっては大きな一歩なんだよ……」
創造神はそう訴えるが、天使三人からすれば彼女が内心感謝を自分たちに向けていたことは知っていたと語る。
それでも、声を出して礼を言うのとでは訳が違うと創造神は顔を更に赤くさせて言った。
「ふふ……創造神様は少し人間っぽい所がありますね。自覚があるのかは分からないですけど、威厳のある振舞いを装っていたりして時に失敗をする時とか」
そんな神は知っている限りではごく少数だとシュアが汁物をかき混ぜながら言った。
「そ、そうかな……」
自分の知らない自分の一面――自分では神として結構威厳を出せていると思っていたのだが、それほど威厳と呼べるものを振りまけていなかったのかと少しばかり落胆する。
「悪口じゃありませんよ? 兎にも角にも、今は朝食ですから辛気臭い顔をされず食べてください」
そうシュアが言って創造神の目の前に朝食を置く。
米、焼き魚、野菜、汁物――調和のとれた栄養の偏りのない献立。
「いただきます。命に感謝を」を食への感謝を述べた後、箸を使って温かいうちに口へと放り込む。益々、料理が上達してきたシュアの料理は寝起きの空腹に良く染みる。
隣にノアが座り、彼女も続いて食事を開始した。そしてシュアとメアルが前方に座り食事をする。
「あの少女はどうされました?」
「……今は寝ている。起こすのも少し気が引けたから後で食べさせよう。箸の使い方とか、色々と教えないと」
「もう既に十六歳程の肉体年齢なのでしょうから、ノアの時とは訳が違いますね。離乳食とか考える手間も省けます」
メアルのした質問に、創造神はごくんと食べ物を飲み込み答えた。
メアルの言う通り、少女の肉体年齢は十六歳程度とある程度の成長をした状態からの生まれ。人間の食事をいきなり与えても問題ない状態であるが故の判断だが、箸の使い方は創造神の言葉通り教える必要があった。
「箸を使うには少し早いのではないでしょうか。あれ初心者には結構難易度高いですよ?」
「うーん……」
創造神は悩む。
赤子ではないにしろ、生まれたばかり同然の少女への育て方――神と同じような生まれ方だが、彼等は最初からある程度の知恵と知識がある所以苦労はない。
初めての経験に、三人して頭を悩ませていた。
時刻は八時頃――少女が目を覚ました。
予想通りと言うべきか言葉を話すことが出来ず、端的で且つ一文字程の発音しか出来ていない。
赤子と違う点はすぐに立てるという点と先程メアルと創造神が会話していた通りある程度の成長をしていることくらいで、教養はこれから。
天井、壁、部屋の中に置かれている玩具などをきょろきょろと見渡しては触ったりしており、その行動自体は赤ん坊そのものだ。天使三人はそんな彼女の可愛らしくも愛らしい様子にさっそく「可愛い」と声を揃え、創造神は鼻を高くした。
「名前は決まっているんですか?」
ノアがそう聞くと、創造神は首を横に振る。
創造神としては少女自身に決めさせたいというのが真意で、その方が彼女にとっても良い事なのではないかと言うが――メアルが不意に「名付けの感性に自信が無いんですか?」と創造神の心に棘を刺し、彼女は崩れ落ちた。
「しょうがないだろう? 私、ほとんど名前とか付けたこと無いんだよ……生きている者に名付けをするのもファリエル以来だし……」
言い訳をする創造神に、天使三人冷たい視線を送った。
だがしかし言われてみれば、自分たちが作った木彫りの人形なんかに名前を付けてくれと願った時には「ゴロタロー」「ボブスケ」「ハマッチョ」などとお世辞にもその感性は理解できないことが多かったと共々思い出す。
もし、あの少女に「ボブスケ」等と付けられたら……。
――『ボブスケさん。ご飯が出来ましたよ』『は~い』
――『私の名前はボブスケです! よろしくお願いします!』『聞いたかよお前ら……ボブスケだって。女の子なのにすげえ屈強そうな名前だし、何だか親の感性を疑うよな……』『だな……ボブスケちゃん可哀想だよな……』
――『結婚しよう――――ボブスケ』
――『愛しているよ――――ボブスケ』
想像した途端、少女への同情が天使三人の心を染める。
創造神は良からぬことを考えられていると今回ばかりは察しの良さを見せた。
しかし、感性の低さを自覚している以上創造神は物語などに触れて、気に入った名前を自分自身に付けて欲しいと思ったのである。少なくとも「ゴロタロー」「ボブスケ」「ハマッチョ」は目の前の美しい少女には似合わない事は紛れもない事実である。
それを考慮してみれば、天使三人全員が創造神の考えにも納得をした。
「どうやって決めさせるのですか?」
「別の世界で、人間が物語の登場人物の名前から取って子供の名前を決めていたところを見た事がある。それに倣ってみようと思うんだ――ほら、ニゲラ程ではないが私の書斎というか書庫にも結構な数の物語がある」
それらに触れさせ、自分の名前がこんな感じの名前が良いなという物があれば自由に決めさせたいと創造神は言う。
ついでに、自分も名前が無いから少女に付けて貰ってもいいかなと続けて言った。
「創造神様の御名前……ですか。確かに今まで「創造神様」としか呼んでいませんでしたし、周りの方々もそう呼称しておられましたね。ファリエル様も「主」呼称、ゼロフル様に関しては「母ちゃん」ですから……」
メアルが顎に手を当てて、考える素振りをする。
「まあ、「母さん」とか「母」とか「母ちゃん」とかは神々から呼ばれることが殆どだけど。私が腹を痛めて産んだわけでは無いというのに……全く」
「イヤだったのですか?」
「……そんな事はない」
どうやら、悪くない気分らしかった。
そして、玩具で遊ぶ少女のお腹からくるると可愛らしい腹の虫が鳴き、ここでようやく少女の朝食の時間が始まった。
――最初は、創造神が食べさせていた。赤ん坊に離乳食を与えるみたいに、匙で米を掬って少女が開けた口の中へと入れ、匙ごと噛んだ彼女に「これは食べ物じゃないよ」とやり取りをする中でノアが箸を取りだす。
二本の棒を片手で器用に使うというのは、使い慣れるまでに時間が掛かる。
少女にご飯をあげていたシュアとメアル、そして創造神がノアに視線を向けた。
彼女が何をしたかったのかをすぐに察する。ノアは生まれたばかりの――否、目覚めたばかりの少女に対して優位性を主張したかったのだと。
何で急にそんな事を? と創造神はポカンと口を開け、何も知らない少女が彼女の手より匙を取って米を掬い、その匙を口へ……。
「え……あ、はむ……あひがほ……」
嫉妬――今まで娘同然の状態だったノアは、生まれてこの方三十億と数億という年齢……いい歳をして、情けないにも程はあるが嫉妬したのだ。
だが……驚くべきことはそれだけでは無かった。
今度はノアの手元――箸を自在に操るその手を見た後に、料理の横に置かれた使われていない箸を持ち、真似をした。
「え?」
「うぇ?」
「あらまっ」
シュア、メアル、創造神の順で驚きの声を発する。
ある程度の練習をしなければ使いこなせる者は少ないであろう箸を、少女は他人の使っている様子を見ただけで自在に操り始めた。
一番驚いていたのはノアである。優位性を主張し三人の注目を集めようとした結果、少女の学習能力の凄さを暴いてしまった……口角は引き攣り、目的とは裏腹に三人が「手本を見せていたのか……」と全く異なる解釈を抱きつつ感嘆の声を漏らす。
元人形少女――彼女の学習能力は創造神が驚愕する程に凄まじいものだった。
** *
好奇心旺盛、少女の様子を見ていて創造神が抱いた最初の印象はそれだった。
しかし、好奇心旺盛な赤ん坊は発達が早いと聞いたことがある。思い返せばファリエルも亜kん坊時代は好奇心旺盛であったし、ノアに関してもそうだった気がする。
それならば、目の前で色々なものに触って舐めたりするのも通常の行動と言えるだろう。
彼女の体には加護がある。
――加護がある以上切り傷擦り傷等全ての外傷を防ぐ機能。魔法攻撃などに対しても耐性がある故、物が当たったなどによる痛みはあるが、そうそう怪我はしない。本来、女神や一部の男神、精霊が持つ加護を彼女が持つ理由は少女の肉体が神や精霊に近いものである所以である。
そして、玩具で遊ぶ彼女に創造神が思うのは「言語を先に覚えさせた方が良いか」「基本的な生活行動を身に付けさせるべきか」どうかの二択。
肉体年齢、十六歳。
(私たちと同じく生理現象に排便等はないが……排尿はある)
全ての生物に共通する唯一の生理現象――排尿。
神、天使、悪魔、精霊、一部の人間――排便の無い種族は数いるが、排尿に関しては全ての生ける者にあるのがこの世の常。食物を体内で文字通りすべて吸収する我々ですら、水分だけは排出しないとならないと創造神は少女を見た。
食事に関しては先程、学習能力の高い彼女の事だから学んだだろうから教える必要は特に無いとして、入浴や尿排泄に関してはまだ教えていない。
「同時に教えれば良いではないですか」
背後より、ノアの声が掛かる。
先程まで優越感に浸っていた所を少女にあっという間に先越されちょっと悔しがっていた彼女の助言。創造神はここぞとばかりに「天才……!?」と褒めた。
ノアの株は今、創造神の中で急激な上昇をしている。
鼻を高くする彼女、そして褒めに褒めてにこやかな創造神、創造神の真似をして「すごい」「てんさい」と言葉を真似る少女。
だがしかし、問題が一つあった。
「どうやって、排尿を教えるんですか?」
――それは、致命的な問題だった。
人間の子育てを見る限り、赤ん坊は最初から御手洗場などは行かない。大体がそのまま履き物の中にじゃー、どばー、ぶりー等お漏らしの選択をする。
人間の使う道具におまるなどという物もあるが……それを使うのは大抵が二本足で立てるようになってからだ。
目の前の少女は――立っている! 二本足で。
御手洗場での排尿の仕方――――知らず。
今、直面した課題に創造神はゴクリと喉を鳴らした。その頭の中では「どうするどうすればいい」と額には汗が伝っていて――「いっそこのまま、床の上でジャバーッ……」という提案にはノアが即答で却下した。
如何に学習能力が優れていようと、排尿の感覚は自分で体験してみない事には分からない。
悩む、悩んでいるノアと創造神の横で――ぶるりと少女が体を震えさせた。
「え、ちょっと待って今のって――――」
創造神が制止しようとした次の瞬間――――少女の靴下が上より来た液体に沿って染みを作り、ノアと創造神が二人して「あぁ……」という声を漏らす。
「どうやって教えよっか……」
表情を消し、やっちまったなと立ち尽くす二人を横目に、少女は満足気な顔をしては濡れた靴下の感触に不快感を感じたのか不機嫌な顔を向ける。
「とりあえず……お風呂入れましょうか」
「そう……だね」
なんと完璧に調和のとれた美しい身体だろうか……と、創造神は唸る。
目の前にあるのは少女の一糸纏わぬ姿――シュアとメアルが「貴女も同等の身体持ってるでしょうに」と揃って口を出し、鼻血を垂らす。
ノアは少女が漏らした部屋の床を掃除中である。
「事情は分かりました。取りあえずお二人で入浴なさってください」
そう言って、シュアが浴室の扉を閉めた。
「うぉーーう!」
「あ、床滑りやすいから気を付け――――あ」
浴室というよりかは浴場とまで言える広さ。この場所に興奮したのか、少女が走り出し、創造神が忠告をするが案の定少女の足は滑り後ろから激しく着地した。
「うっ……うぇぇぇぇ……」
痛みに悶え、泣き出す少女に創造神が小走りで近寄り打った後頭部を撫で慰める。
「おぉ、痛かったね……次からは走らず歩こうね……」
泣き止み、立ちあがった少女は今度は走らず歩いて浴室の中を進んでいた。
――浴室の広さは人が百人以上入ってもまだ余りがある程で、湯船に至っては三つありそれぞれが水風呂、熱めの湯、そして丁度良い熱さの湯となっている。最初こそ「そんなにはいいだろ」とファリエルの設計提案をこだわりなく断ろうとしていたが、あの時断らなくて正解だったかもしれない。
壁から湯や水が放出されているのが不思議なのか、少女がじっと見て「おお……」と漏らし、触ろうとした。
「そこのは慣れるまではちょっと熱いよ」
「うやーーッ!?」
「あーあ……よしよし熱かったね……」
入浴中も骨の折れる感じになりそうだ、と創造神は想像した。
今度は泣かず湯の触れた指を咥える少女の手を引いて、洗い場へと案内し置いてある椅子に座らせる。
(私、頭から洗う派なんだが……この子はどっちだろう)
体から? それとも頭か。鏡越しにこちらを見る少女の顔をじっと見ながら創造神は考えた――どっちでも良いと思うのだが、正直な所この少女の体を触りたいという欲求を早くに発散したいと心が騒いでいたのだ。
――少女の胸の大きさはそれなりに大きく、形や良し、張り良し、色良しの最高中の最高水準。触りたいと心が叫んでいるんだ。
「うぉ~……う~? ほわ~~!」
体を揺らすと鏡に映る自分も揺れる現象に好奇心を隠せない少女の胸がその動きに合わせて揺れる。
(いかん……邪念が膨らむ……!!)
――この浴室での出来事は、自分の邪念との闘いだった。
神であるはずの自分が、心の中に巣食う悪魔に支配されそうになる状況――天使三人どころか、ファリエルに知られれば冷たい目線を向けられるかもしれない。
「うおおおおおぉおぉぉおおおぉぉぉ……」
「……? お~~~~~~……」
自らに眠る邪神たる一面と戦いをする創造神と、不思議そうに彼女を見ては真似をする少女の姿。
「創造神様、私たちもご一緒させていただ――――え?」
「シュア、どうしました――――は?」
混沌たる光景がそこにはあった。
「次、少女に尿意が迫る前に少しでも言葉を覚えさせよう」
そう提案するのは他でも無い、創造神だ。
彼女の言葉に、批判をする者は三人の中に一人も居ない。お漏らしをし続けるとクセになって、御手洗場に行くことを中々覚えようとしない可能性があると踏んだからである。
少女は今や創造神の自室に居る――かつて彼女が眠っていた場所は寝台もなく、寝る場所に困るだろうというのが創造神の言葉だが「一緒に寝たい」というのが彼女の本音である事を天使三人共々察す。
創造神の自室に向かうと、寝台の上で少女が寝転んで天井をじっと見上げた状態で眠たそうにしている。
「んふ……」
その様子に、創造神がにやついた笑みを浮かべながら声を出す。
そのだらしない顔に、シュアとメアルが若干引いているが気にせず創造神は少女へと近付いていった。
そして、眠たそうな少女の頭を撫で、愛でる様子はまるで人間が猫を可愛がるかのような素振りである。邪魔してはいけないと天使三人は別の方へと移動していった。
――少女が目覚めたのは昼頃だった。昼食を済ませ、四人で少女の言葉を覚えさせる作業に入り、その努力も相まってか少女の口からは簡単な言葉ではあるものの一語一語話せるようにはなっていた。
「こんにちは。わたし、は、え……あー、わたし、です?」
四人が教えているのは神聖言語である。
人間からすれば超高難易度の言語の一つではあるが、創造神としては天界で神や天使、精霊が良く使っている言語、尚且つ表現力や様々な言い回しを出来る神聖言語を先に覚えさせた方が得なのではないかというのが創造神の口から出た計らいだ。
――超高難易度と言っても、それはただ単に最初から自分が使っていない言語を後天的に覚えようとした時に限るだろう。下界で人間が使う言語――総称して「人間語」は神聖言語に比べれば圧倒的に簡単の部類に入る。後から勉強する際に覚えさせるのも悪くない考えのはずだと創造神は言う。
神聖言語は発音の種類も多く、且つ同音異義語の多い言語――数字の数え方にも色々あったりと、少女の学習能力を以てしても多少時間は掛かるだろうが、言語を一つ覚えるに苦労するのはどの言語も一緒だ。
「しかし、やっぱり簡単な人間語を先に……」
シュアの言葉に、創造神がぴたりと動きを止めた。
その様子に、メアルがふと気づく。
「創造神様……貴女、建前を言ってらっしゃいますね?」
「うぐ……」
――数秒も保たず、創造神は白状した。人間語で書かれた本がこの住屋に一冊もない事を。
淡々とそれっぽい事を口々に並べておいて、それは建前だったのだ。
「人間語は分かるけど……「あーこんなんだっけ」とか「こういう感じか?」ってな程度で、私が普段使ってるの神聖言語だし……」
そして、そんな話を続けている間に少女が一言発した。
「――出る」
ばっと四人が振り返る――何を? と野暮なことは聞かなかった。
その言葉を待ってはいたが、問題はこれから――どうやって御手洗場での排尿の仕方を教えるかが肝心。
「ここで出しちゃいけないよ」
創造神が咄嗟にそう言って、少女のお漏らしを制止した。
すると少女はこくりと頷いて我慢をする。しかし「どこで出すの?」と言い、創造神は御手洗場の方へと彼女の手を引いて案内した。
個室の扉を開いて現れた陶器製の便器――水が常に流れを作っているそこにするんだと教えても少女は「どうやって?」と同じ言葉を繰り返し、創造神が「座ってするんだ」と言う。
「でも、穴空いてる……私、落ちる。水流れてる、私……流される?」
「流されないよ大丈夫。私たちもいつもここでしてるから」
「う……う~……」
証明して見せて、とでも言わんばかりの顔だ。
その顔に創造神は困った表情を見せた後、天使三人に「今……ある? 尿意」と聞くが彼女たちは首を横に振った。
「そっか……それじゃ教えられな――――」
「創造神様はどうなんですか?」
メアルの質問に、創造神はぴたりと動きを止めて冷や汗を流した。
それもそのはず――――彼女の膀胱は今、出そうという所にまで溜まっていたからだ。天使三人共々、朝食の後に行ってしまっていた為、尿意は無い。しかし創造神は不覚にも今日一度も御手洗場で出していない。
「いや……その……」
陶器製の便器が「来いよ。来いよ!!」と言っている気さえした。
少女の表情は怖がっている――座ってもその穴に嵌る事はない、落ちないという事を証明するのに今適しているのは他でも無く創造神一人だけ。
「やりましょう……創造神様……!!」
今がその時ですよとノアが発する。
創造神、意を決す。
「あまり……見られると、恥ずかしいから……」
「大丈夫です。誰にも言いません」
「シュアに同じく」
「これも教育の一環だと思ってください」
「教育の一環て。排尿の仕方を見せて教えましょうなんて教育方針聞いたことも見たこともないんだが? ノアさんや」
いいから早く、と急かす天使三人。羞恥心と少女のこれからの事で創造神の心には葛藤が生まれていた。
だが、もうやるしかない――というより正直なところ彼女の膀胱は便器を見た瞬間に尿意の限界が近くなっていたのである。
帯革の留め具を外し、顔を真っ赤にさせながら創造神は下を脱いだ。
寝間着であれば紐を解き履き物を下ろして下着を脱ぐだけなのに、昨日そのまま寝てしまったおかげで創造神は装飾着を脱ぐのに苦労をし、下半身のみ下着姿になる。
「水色……」
「ノア……」
高級そうな下着に、ノアがその色を呟きシュアが「言わなくていいから」と目線で訴え、その傍らで少女がまじまじと創造神の脱ぐ姿を見る。
(こ、こんな……こんな事は初めてだ……!!)
脱がされた事一度もなし。脱衣所以外で、複数の人の前で脱ぐのも経験なし。
「もう、お嫁に行けない……」
しかも、排尿まで見せる羽目になるとは思いもよらなかった。
露わにされた創造神の穢れ知らぬ場所――目をかっ開き凝視し鼻血を出す天使三人。
そして――――水に水がぶつかる音が個室内に響いた。勢いはそこそこ、だがしかし圧は控えめで川のせせらぎのような音に風流を感じたと後に、目撃した天使三人は語る。
「わ、分かった? 落ちないし、大丈夫でしょ……?」
羞恥に身を震わせて、創造神が涙目で少女に言った。
「うん!」
対する少女の返事と笑顔が、その時ばかりは創造神にとっては悪魔の様な笑顔だったと言う。
普通に座って落ちないことを見せるだけで良かったのではないかと気付いた瞬間――創造神は泣いた。少女がお漏らしをしなくなるという利益に比例しない不利益を負ったと、後悔した。
――二日が経過した。
人間の子が意味のある言葉を言い出すにも、早くて九カ月から十カ月という歳月が掛かると言う。九割の子どもが一歳半年程で言葉と言葉の繋がれた意味を含めた言語を使いだすという記録を創造神は記憶していたが、少女の学習能力はそれとは比べ物にならない程早かった。
まだ文字を読むのには苦労しているが、話すという面で見れば明らかに成長を見せている。
「おはようございます」
普段、創造神に対して言葉の丁寧な天使を見ている為かその言葉使いも丁寧なものを使っている。
これからは恐らく、文字を書く読むという所に対する勉強が主となってくるであろう。一昨日のように生活習慣の所作等を教えることは無いのが、創造神にとっての安堵を生んでいた。
「創造神様、昨日と同じく寝間着のままだとだらしないと思います」
「ぐぁーーっ!!」
自分の意見をはっきりと言う様は天使三人にとっても頼もしかった。
恐らくこれからは「空気を読む」という所も学習していくのだろうが、経験の少ないうちはこれで良いだろう。
好奇心は依然と変わらず旺盛で、知識欲に関しては人並み以上で勤勉な性格だ。表情豊かで感受性も高く人の言うことやる事見る度にその価値観もどんどん変わっていくに違いない。
純粋で、いい子に育つのは間違いない。だが悪意のある者には良く利用されやすい質なのではないかと創造神は分析する。ずっと傍に居て付いて行かなくてはどちらにも転ぶ――誰かが支えなくては少女が絶望した時、大変なことになるだろう。
三日目、四日目はファリエルが住屋に来て少女に勉強を教えることになった。
神聖言語の件に関しては溜息を吐かれたが納得してくれて、見る度見る度女性と男性とで性別が異なっているのにも少女にとっては不思議なようで「どうなってるんですかそれ!?」と驚いた様子を見せていた。
先日の恥をファリエルにも味合わせてやろうと、女性の姿のファリエルを部屋に引きずり込んで脱がし、その体がどうなっているのかも見させたりした――創造神が紙で作った棒でファリエルに叩かれていた。
そして五日目――創造神とファリエル以外の少女含める四人が外へ散歩に行っている間、二人は話をしていた。
今回ファリエルは男性の姿だ。
「神聖言語の勉強の進捗は如何ですか?」
自室にて、創造神に声を掛けるファリエルに彼女は「滅茶苦茶早い」と誇張の無い評価を一言で述べた。
本来人間が数年掛けても尚、一つの文を解読出来るかどうか怪しい程の難しさを誇る神聖言語だ。それをわずか数日で簡単な読み書きを出来るまでに学習し、今も尚どんどん習熟度の上がっている少女の学習能力は彼の知恵神ニゲラに匹敵すると評価した。
「まあ、ニゲラの細胞情報も彼女から貰って少女の細胞情報の一つに組み込んでいるから、それが要因の一つかなと考えられるけど」
「他の神の細胞情報も貰っているのですか?」
「ああ、バースやチェイル……原初十二神のは全部貰ったよ。私のは……定着しなかったから加護だけ同じのを付けた」
もっともそれぞれの細胞情報が少女の体に表した特製はそれぞれ小さいものだったり大きかったり様々だが、と創造神は付け加えた。彼女が少女を創るに当たって色々苦労をしたのであろう事が窺える。
「……聞きますがよろしいですか?」
「なんだい?」
「下界に行ったら……シュアさんとメアルさん、ノアさんの事はどうするのです?」
静寂が生まれる。
今は少女を連れて住屋の外に散歩に行っている天使三人の事を聞かれて、寝台に座っていた創造神はファリエルと目を合わせた。
そして、口を開く。
「頼めないかな。彼女たちのこと」
「……そう言うと思っていましたよ」
分かり切った事だったが、とファリエルは溜息を一つ。
「どうせ、断ってもしつこく言ってくるのでしょう?」
「…………」
「私の妻が……彼女たちに色々な事をするかもしれません」
「はっ! 自分の嫁が暴力等振るかもって? 脅し文句のつもりなんだろうが……信頼しているよ彼女たちの事は。ファリエル、お前が自分の愛する嫁を悪く言うなんてらしくないぞ」
本当は断る理由がないから、適当な事を言っているだけだろう――創造神の言い分にファリエルは目を細める。
「――――先日、私の名前を「ボケカス君」等とあの少女に紹介した事、私は根に持っていますから」
「それは……ごめんなさい。調子に乗りました……ちょっと気分が高揚しちゃってて……」
「よろしい」
そして日が経ち、六日目――遂に少女が読み書きを出来るようになった。
これからは物語に触れ始めさせるべきだと創造神が朝食の場で言った――少女の方はと言うと、もっと違う本が読めるのかとワクワクしており、ここで創造神が打ち明け、疑問を向ける。
「今まで、その……名前が無かったから不便だったけど、自分の名前とか欲しいかな?」
創造神の言葉に、若干間を空けて少女は笑顔を作った。
確かに、今まで「君」とか「お嬢さん」だとかでしか呼ばれていなかったと少女にとっても自分の名前を持てるというのは嬉しかった。
「朝食が終わったら、書斎の方に行こう」
紙の匂いに、少女は気分を高揚させていた。
本棚から香る木の匂いにも興奮し、ぴょんぴょんと跳ねて喜びを行動で表していた――その書斎にあるすべての物語は神聖言語で書かれている為、自分にも読めるだろうと創造神の言葉に「わかりました」と少女は元気よく返事をした。
背表紙に書かれた題名――どんな事が描いてあるんだろうと少女の心は好奇心でいっぱいだった。
一冊手に取り、パラパラと捲っていく。
「全部、神器の魔力によって守られてるからどんなに乱暴に扱っても破れないし濡れても大丈夫」
「いえ、大切にします」
「そうかい? そう言ってくれると本たちも喜んでくれるだろうな」
「ここの他に本は無いんですか?」
「この住屋の地下が書庫になっているよ。でもそこには私が書いた資料紙やメモ書きしか保存されていなくてね……もっと本が見たいなら、ニゲラという女神の神殿を尋ねると良い。そこにはここにある本棚数架分じゃ一部の一部、一微数程度も納められないくらいの量の本が置いてある――近いうちに、行くだろうけど今は此処で我慢して、ね?」
「わかりました……楽しみにしてます」
「そこから、自分の名前を決めてみるのが一番いいんじゃないかな。私はその……以前にも言ったけど名付けの感性に乏しくてね。ついでになんだけど……私の名前も、付けて欲しいななんて……ははは」
もみあげを弄りながら、もじもじとして言う創造神に少女はこくんと頷く。
「私も、名付けの感性に自信があるかと言えば嘘になりますが……頑張ります!」
そう言って、少女は一冊の本を手に取った。
少女が本を読んでいる間、いつも食事を摂る場所で創造神は天使三人に今後の事を話すことにした。
自分が少女と下界に行くことはもう自分としては確定事項――その後の彼女たちの生活の事を話していた。
ファリエルの神殿で生活する事を自分の口から、その想いを伝える。
「――という事で、ファリエルの神殿でシュアたちは仕事をすることに、なると思う」
「それは構いませんが、ここに住むのは……駄目ですか?」
「ダメではないさ。勿論、好きにしてくれて構わない」
「創造神様の神殿では何のお仕事を」
シュアがこの住屋に継続して住むのは駄目なのかと疑問を出し、メアルが更なる疑問を創造神にぶつけた。
「天界に来た亡き者の魂の情報をあー……えっと……ファリエルから聞いて欲しい」
「何故、創造神様の神殿に?」
「や、別に私の神殿でなくても良いんだ。好きな神殿で働くと良いと思う。でも他の神殿は遠いだろう? 一番近いゼロフルの神殿に関しても数日は移動に掛かるし、もう飛んでない生活を送りすぎてるし羽も鈍ってるだろう」
「それは……確かに」
メアルが自分の羽を触りながら、図星を突かれた事を呟いた。
「ノアに関しては飛んだことなんて……」
「無いです。私、飛べたんですね」
この羽を飾りだと思っていたとノアは言った。
「まあ、一番飛ぶ機会の多い天使はゼロフルの所だし、私の神殿の天使はファリエル曰く飛んだことのある天使の割合は結構他と比べて少ないらしいから仕方ない」
そんな会話を四人はしていた。
空気は少しだけ重い。身の上話である以上それも仕方のない事なのかもしれないが、それを打破するように勢いよく扉が開く。
「創造神様! 私――――自分の名前、決めました!」
そう大きな声で言う少女の腕には一冊の本が抱かれている。
「ストィリーの冒険譚」――城住まいの王子が、外に出る事に憧れ、隠れて抜け出し出会いと冒険に夢に胸を膨らませ、紆余曲折を楽しみながら世界の全てを見て回る物語だ。
「私……この物語が一番好きです」
運命か――最初に取った本がこれだった。
見た時からその物語に一目惚れをしていた――王子という立場から冒険家になり、苦労することすら「冒険の醍醐味」とその新鮮さに笑顔を作り、女ったらしと欠点はあるが彼の言い訳は面白味のある内容で最終的に女性の方が言いくるめられるのも笑いを誘う、そんな物語。
「ストィリーさんの名前を少し変えて……私、名前をスティーと名乗ります」
その想いに意見を出すなど言語道断――創造神は、くすりと笑みを溢して言った。
「良いと思うよ――スティー、スティーか……良い名前だよ。スティー」
「ありがとうございます!」
「――重い雰囲気になってしまった。ごめん三人共、君たちのすることを私が決めるべきでは無かった。さっきまでの事は忘れて欲しい」
顔を見合わせ、天使は笑う。
そして、間に入るように少女は付け加える。
「それで、その……創造神様の事を、これからは「シエラ」と呼んでも構いませんか?」
「シエラ……? 私の名前かな?」
「はい。創造神シエラ様です」
シエラ――ストィリーの最初の恋人の名前だ。
主人公と同じく城住まいで退屈な日々を繰り返していたが、ある日城に忍び込んだストィリーに惚れ込み一緒になって冒険をする美しい女性。あまりの美しさに最終的に魔女に嫉妬され攫われるが、ストィリーに救われ愛を誓い合う。
創造神は目を閉じ、少女に「シエラ」と呼ばれて生活することを想像し、笑った。
「いいね……シエラ、シエラか」
ゼロフルにこの事を伝え、天界中に自分の名前が決まったと言わなくてはと最初に思った。
――少女の名は「スティー」。
――創造神の名は「シエラ」。
二人の名前が決まった。
そして、次に驚くべきは少女の発言だ。
「シエラ……様……?」
「どうしたんだい? スティー」
「私……この物語に感化されてしまいまして」
「うん、それで?」
「私……ここの下の、下界をシエラ様と――一緒に冒険をしたいです!!」
歯車が、動き出した。
創造神も、否シエラも夢見ていた事だ。こうしてしたい事が一致するのは感動的な事だと――大袈裟にもシエラはその言葉が永遠の愛の誓いにすら聞こえてしまった。
「おや、私たちとはしないのですか?」
「すみません……! いつかは一緒に暮らしたいと思うのですが……シエラ様と二人で冒険をしたいなって……駄目ですか?」
ダメじゃない、自分もそれをしたかった。
ダメじゃない、私たちも愛する人と冒険をする創造神シエラの姿を見たかった。
――嬉しい、涙が出てくる。
「冒険は……辛い事もあるかもしれないよ?」
「大丈夫です。覚悟は、これからですが少しずつでもします」
「別れがあるかもしれない……」
「出会いがそれ以上を埋め尽くしてくれると信じています」
「で、でもさ……」
表情を隠すため下を向きながら、シエラはスティーに声だけの演技で敢えて賛同しない振りをした。
――その決意の程を聞きたかったから。
「確かに……私はまだ『冒険』が何なのかを分かりません。辞書にはちゃんと意味が書いてありましたが、「危ないことを押し切って行うこと。成功のおぼつかないことをあえて行うこと」では私はあまり納得出来ません。ストイリ―さんは「楽しいもの」であると確信してしたんですよね? ストイリーさんにとっては「失敗」も「成功」も区別されないもので「危ない事」では無かったはずです……私は冒険という物がどういうものかを知りたいんです」
だから――自分は冒険をしたい、とスティーは想いの丈を言い放った。
それを聞いて、シエラは笑う。
「ふふ……先に言われちゃったよ。私から誘おうかと思っていたのに」
良い、笑顔だった。
ストィリーは教養はあった――身を護る術はあまりなかったが弁舌に秀でていた。
そう前置きして、寝台の上――スティーとシエラは二人して向き合った状態で座って会話をしていた。
「スティー、ストィリーの行動を見る限り下界に行くまでに必要な事って、なんだと思う?」
スティーに対してシエラが疑問をぶつけると、スティーは少し考えて「教養と、護衛術?」と正解を導き出す。
本当に賢い子に育ってくれたと言わんばかりのシエラの笑顔がスティーの喜びの感情を更に大きいものにした。
「下界では、実は神聖言語は共通語ではなくてね。実を言うと人間としては扱える人物の数もごく僅かと言える。まずは人間語を覚えないといけないし、他の言語を覚えることも大切だ」
つまりは、下界に行くまでの期間中に他の言語を覚えておくべきだとシエラは続けて言う。
こくんと頷くスティーに彼女はにこりと微笑んだ。
「まるで、この住屋の中では教えられないと言っているようですが……」
「察しが良いね、スティーは」
「確かに、シエラ様の書斎には人間語らしき文字で書かれた本などは見当たりませんでしたね……」
「悲しきかな。私はスティーの教養の為に他の女の所に君を預けなければいけなくなってしまったんだ」
他の女……? とスティーは首を傾げた。
一体、何を言っているのか分からない素振りで、更には寝台の上だというから余計に変な感じがする。
「ニゲラ、という女神の名前は先日さらりと会話の中でも言ったね」
もしかして、とスティーは記憶を蘇らせる。
「先日書斎で言っていた「近いうちに」というのは」
「そう……後日よりそのニゲラという女神の下で勉強をするんだ。知恵神ニゲラ――「知恵」と「知識」を司る女神で、ピュトリスという街の主神さ」
その彼女の下で勉強をすれば、凄まじい速度で色々な事を学べるはずだとシエラは語る。
シエラ曰く――彼女より賢い神は存在しないと言っても過言ではない。
「シエラ様よりも賢いのでしょうか」
「そうだね。知識量では既に負けているかも、今の下界の事に関しても文字通りすべてを知っているし、何より今の下界では学者全員ニゲラの信者。学の盛んな国もニゲラの象徴画を崇めているくらいさ」
「それは……凄い神様ですね……」
「凄い神様」――スティーの発した一言にシエラはもやっとしたものを心に感じた。
思い返せばその単語をスティーの口から聞けたことはなかった、言われた事は一度もない気がする。ファリエル、シュア、メアル、ノアには――ある! 料理の腕等をスティーより褒められていた時に「凄いです」「天才です」「こうなりたいです」「理想です」と言われていたことをすぐに思い出せる。
「そんなに、凄い神様だと思う?」
「それは勿論。シエラ様よりも賢いなんて、どんな神様なのか会ってみたい気分ですよ」
更に、もやもやとシエラは眉をピクリと動かす。
それは――嫉妬心。スティーからの褒め言葉を自分も受けたいと思い、そして何の成果すらも上げていない女神が簡単に得てしまった事を羨む心。
――私も、勉強しなくてはいけないかもしれない。
シエラはそう強く感じた。下界に行く前に今の下界の状況と情報、常識をニゲラ無しで学びあげ下界に降りた後の生活面でスティーの誉め言葉を頂く。
「シエラ様がそんなに褒めるくらいなんですから……きっと凄い神様なんでしょうね……」
「えっ」
「はい?」
気付いた――自分で自分の首を絞めていたにも等しい行為を自分は先程していたのだと。
ニゲラという女神をスティーよりも先に褒めていたのは自分の方ではないか、と自覚した瞬間――シエラは枕に顔を埋めて「やっちまった……」と声にならない声を上げた。
「もっと教えてくれませんか? ニゲラ様という方がどんな方なのか」
その質問に、枕から顔を上げたシエラは「それは自分で確かめた方が良いと思う」と言う。
「――兎にも角にも、ニゲラから知恵を得た後はバースという女神が護衛を教えてくれるだろう。パルバトという街の主神で、最強の神さ」
「シエラ様よりもお強いんですか?」
「体術面で見れば、私は一瞬で地に伏せられると思う。私の方が強いとバースは言うけれど、彼女とは戦った事が無いしその詳細は未だわからずって所だね」
どういう神なのか、とスティーが質問される事が当たり前であるかのように聞くとニゲラの事を聞いた時よりも誉め言葉がずらりずらりとシエラの口から出た。
聞く限りではシエラはバースという女神の事を気に言っているのだろうとスティーは印象付ける。
「人間からも物凄い好かれていてね……ファリエルの初恋の相手さ……」
急な暴露――自分の知っている冷静沈着であまり感情を顕わにしないファリエルの一面に、スティーは驚いた表情を包み隠さずにその旨を聞いた。
まだ彼――否、彼女に妻という存在が居なかった頃にバースという女神に出会い、そして彼女の在り方と姿に価値観全てに惚れて、数年に渡ってファリエルが想いをぶつけるに至った行為。
(あ――――)
その発言をする際中、静かに扉を開けたファリエルにスティーが気付いた。
――実を言えば、少女の名前が「スティー」と決まったと報せを受けた後にこの住屋に来ていたのだ。
今や彼女の顔は赤く染まり、シエラの背中を恨めしく睨み続けている。
「傑作なのが……この住屋にバースが来た時、ファリエルの奴――色仕掛けを仕掛ける暴挙に出たんだ。見物だったねえ、バースがそれに対して「女の子がそう簡単に肌を見せたらダメでしょ」って頭撫でた時のファリエルのあのとろんってした顔……ぷぷーっ!! おま……心が女に染まりすぎだろって――――――」
「シエラ様……」
「はっ――――!?」
ファリエルが呼ぶ声にばっとシエラが振り返る――目の前に居るのは、怒り顔で且つ羞恥に頭から湯気が出てくるのではないかと見紛う程、赤に染めた彼女の姿。
そして、次の瞬間に紙を折り畳み作ったのであろう張り扇がシエラの頭頂部へと振り下ろされる。
乾いた音が部屋に響いた。
「い、痛そう…………」
衝撃に耐えかね気絶する創造神シエラ――それを見てスティーは思った。
(ファリエル様がシエラ様より強いのは確実ですね……)
鼻を鳴らし、部屋の外へと出るファリエル。
「あのっ」
ちょっと続きが気になって、スティーは呼び止めていた。
「なんです?」
「その……嫌であれば答えずとも構わないんですが、続きが気になってしまって……」
「……振られました。私と相性の良い女性なら他に居るだろうから、とバース様に言われて」
「今でも、好きですか?」
「私は、妻帯者ですから――――と言いたいところですが、忘れられはしません。好き……なのでしょうね」
頬を再び赤に染め、ファリエルは答えた。
その時スティーが思ったのは――「好き」とは何だろうという疑問。
辞書を読むだけでは、本を読むだけでは分からない感情の動き。異性として好き、友として好きがそれぞれ異なるのは分かっている。
「私は――シエラ様の事をどう思っているのでしょうか」
「……ニゲラ様とバース様と接してから考えても良いかもしれませんよ? スティーさんはまだ生まれて十日にも満たないんですから、慌てる必要は無いかと存じます」
そう言って部屋の前から去るファリエルの言葉を聞いた後、スティーはシエラを正しい位置に寝かせて目を閉じ眠りについた。
朝になった――スティーが人形少女から元人形少女へと目覚めを経て九日目に当たる。
朝食の中、創造神が提案したのは「十日目丁度にここを出発する」というものだ。その本音たるや「あと一日くらいはスティーと一緒に居たい」。
「……どれくらいの期間を、ニゲラ様とバース様の所で学べば良いでしょうか」
純粋な疑問――スティー自身、自分の学習能力の高さには自覚がある上、自信もある。
だが、昨晩にシエラより聞いた限りではその勉学にもかなりの時間を有しそうだと考えた。月一つ二つは要するのではないかと感じ、不安気にもシエラへとその感情を隠さず言った。
「神聖言語を七日で習得したんだ。特異中の特異――それよりも圧倒的に簡単な言語を覚えたり、下界の常識を覚えるんだからそうそう掛からないんじゃないかな? でも、好きに過ごして来ると良い」
何か他に学びたい事があると見た――そう言ってシエラはスティーの心中を透かし読み取る。
「何か知りたい事があるんだろう? それは未だ会った事のない人に会わないと分からないようなこと、とか」
「わ、分かるんですか?」
私も、そういう考えを持ったことがある――シエラは片目のみ瞬きをして言った。
「ニゲラとバースがそれを教えてくれるかどうかは私にも分からないが、ピュトリスにパルバトと街に向かう過程の中で気付く事があるかも知れないからね――スティーが満足するまで、何かを得られるまで私は待てる。待てる女さ」
本音を言えば、早くに帰ってくる方が望ましいけれどとシエラは付け加える。
夜――シエラにとっては早くに来た。
「何を知りたいのか、やっぱり教えてくれないのかい?」
朝の事が気になって、シエラが何度目かの質問をする。
しつこい、とはスティーは言わなかった。それに対して調子に乗ったのか? 否、単純に心境の変化から気になって気になって仕方なかったのが実のところ。
「はぐらかされてばかりだと……益々気になってしまう。私はそういう女でもあるんだ」
「女性の自覚があるのですね……言葉遣いはどちらかと言うと男声寄りですのに」
「意地悪だな」
「――――「好き」という感情が、どういう物なのか、です」
「なっ――――私の事は好きじゃないのかい?」
「わかりません」
即答だった――衝撃を受け、シエラは落胆した表情を見せる。
「嘘だろう……? 振られた……?」
「それも、わかりません。シエラ様の事を……異性では無いですけど異性みたいな方として私は情を抱いているのか。それとも単なる同性として見ているのか……他の方と比較して、知りたいです」
知的好奇心と、これからの人生において大切なことと確信している。
「許してください、シエラ様。他の方と繋がりを持つかもしれないことを――――」
「だ、だったらっ――――お願いを聞いてくれる? スティー」
言葉の途中で、シエラが体勢を変えてスティの上に覆い被さった。
とくん、とスティーの中で鼓動が強く鳴る。
シエラの頬が紅潮し、いつもとは違う表情――何故か目が離せない。
「シエラ……様……?」
「す、好きだよスティー。私はスティーの事が好きなんだ……本当は独占したい――でも、スティーの気持ちを尊重したい、肯定していたい。だ、だけど……代わりと言ってはなんだけど……参考として、というか……」
「は、い?」
「許すよ、許すから……許すけど……私が、私が初めてになりたいって願望を、聞いてはくれないだろうか……」
「初めて」とは何だと聞くのは野暮である事をスティーは理解した。
緊張からかシエラの首筋辺りは汗ばんでおり、彼女の呼吸も先程と打って変わって早くなっている。
「天界においては、同性などという間柄は関係ないよ? 人間も天使も精霊も神もしていることだから、気にすることはないさ……人を好きになった者が、好きな人にしたくなることの一つさ。昨晩のファリエルの色仕掛けも、そういう事だ」
「なんだか……どきどきします」
「私はスティー以上にどきどきしているよ。凄く恥ずかしい、初めてする行為だからね――――良い、よね?」
「――――…………良い、ですよ」
スティーが了承すると同時――シエラは箍が外れたかのように、動いた。
「その髪飾りが、スティの身に危険が迫った時――近くに居る神に報せを送る。もしスティーが口を塞がれて声を出せない状況になったとしても、安全だ。他にも色々な効果を得られてはいるけど、それは多分天界じゃあまり必要無いし今は教えなくても良いか。気を付けていくんだよ、スティー」
「はい、シエラ様」
身なりを整え、肩に斜め掛けの鞄を掛ける。
早朝――時刻は六時に差し掛かろうという時間帯。大穴より下界に降りる天使たちの姿はなく、辺りは静寂に包まれていた。
「天使三人、私一人。ファリエルは今日忙しいらしくて、来れないらしい」
「それは仕方ないですよ」
ファリエル不在を詫びるシエラに、スティーが首を横に振って言った。
「適当に歩いていれば、馬車が通ったりしますから御者様に頼んで乗せて貰ってください」
「わかりました、シュアさん」
「ピュトリスは北に向かって馬車だと三日程度で着きます」
「結構遠いんですね……メアルさんは行った事ありますか?」
「ありません。私とシュアはこの場所と南に歩いて数日という距離のヴェルスルという街で以前住んでいたというくらいです」
そこにも行ってみたいですと言うスティーに、二人は良い思い出が無いあまり「あはは……」と乾いた笑みを溢した。
「ノアさんは?」
「私はこの住屋で生まれたので……あとはヴェルスルに最近ちょっとだけ行った程度です」
会話を続けていくうち、南の方より天使が飛んでくる。それを見てはスティーが住屋から離れ、平原に足を踏み入れ手を振った。
「皆さん――――行って来ます!!」
下界を行くための一歩が今、始まった。