狂える哲人
押しも押されぬ強国・帝国の皇帝嫡子であるアルブレヒトは遊学中の国で少し気になる噂を耳にした。
――――――この国には狂える哲人が暮らしている――――――
遊学しているこの小国は軍事力こそはそれ程でもないが、肥沃な土地柄と上層部の安定した外交力の下に豊かな治世が行われている。
その為か、国民の多くが学問を修める余力があり、高度な思索にふける有名な哲学者も少なくない。
そんな中で"狂える哲人"とまで呼ばれる者とはどのような人物なのだろう?
興味を惹かれたアルブレヒトは、ひとまず従者に命じて情報を集めさせた。
しかし、集まった情報を聞いた彼は、それが本当なのかという疑念を抑えきれないものだった。
――曰く、高名な大哲学者の高弟。
――曰く、前途有望な彼に支援を申し出た出資者全てに断りを入れ、乞食になった男。
――曰く、酒を飲み、「飲むだけで幸せになり、度が過ぎなければ他人に迷惑をかけることもない。願わくばみんな酒を飲むだけで腹が膨れて日々が過ごせるようになればいいのに!」と叫んだ。
――曰く、棲む家を持たず、酒場でもらった空き樽で天露を凌ぐ野良犬のような暮らしをしている。
――曰く、ズタ袋をかぶった粗末な姿で、己の思索を披露する高名な哲学者を片っ端から論破した。
曰く、曰く…………
アルブレヒトは有名な人物とは人のやっかみを受けるものであり、醜聞の一つや二つあるのが当然だと思っているが、狂える哲人の情報は格が違った。
というか、ほぼ醜聞だった。
しかし一方で国民からはなんだかんだ愛されているそうで、想定外の収入があった時は乞食仲間に酒食を奢るなど、ひとえに狂人とは言い切れない情報もある。
俄然興味を抱いたアルブレヒトは、彼に直接会って話をしてみたくなった。
そもそも遊学の目的はこの国の外交力を学ぶとともに多様な価値観に触れて成長することだったのだから、その男と会うことは何ら間違ってはいないのだ、と。
アルブレヒトがその男に会いに行ったとき、そいつは寝床にしている空の酒樽の横で、他人の家の軒先を借りて雨が降るのを眺めていた。
話には聞いていたが"狂える"と頭に付くものの哲人と号される者が、まさか本当に細かい論考を嫌うドワーフだとは我が目を疑う。
高度な思索に興じる哲学者はエルフのような頭でっかちな者たちだと思っていたが……
樽の横で膝を抱えて座るずんぐりとした男は、小さめの酒樽にも似ていた。
「お前が"狂える哲人"か?」
彼がそう尋ねると、その男は"生まれてこのかた子供に『狂える哲人』などと名付ける母親は見たことが無い"と答えた。
言葉尻をとった物言いに頭に血が昇るが、努めて冷静に続ける。
「私は帝国皇帝嫡子アルブレヒト。何か望みはないか? 叶えてやろう」
いきなり揚げ足を取ったのだ、器を測るぐらいはされても文句は言えないだろう。
まだ立太子はしていないといえど、これでも皇帝嫡子、叶えられない望みは限られる。
欲に駆られて過大な望みを言う様な器か、それとも現実的な現世利益を得るような輩か。
どちらにせよ哲学者としての器が見切れると言えよう。
そんな彼の問いに、その男はなんのてらいもなく答えた。
「そうだな、今日は日向で昼寝がしたい。雨を止ませてはくれまいか?」
「な……!」
天候を変えるなど彼には、いや、誰にもできはしない。
思わず言葉を失うアルブレヒトに、粗末な服を着た"狂える哲人"は穏やかに笑んで言った。
「そうだな、この小さな望みは誰にも叶えられん。ヒトなど所詮その程度のものなのだ」
その言葉を聞いて、アルブレヒトは彼の器を測ろうとした自分を恥じた。
この男の器は底が抜けた穴あきの器だ。
誰よりも大きく、誰よりも小さい。
彼にとっては器を測ろうとしたこと自体、笑止な事でしかなかっただろう。
せめて、アルブレヒトは彼と別れを告げる際、出会った時と比べ物にならない程に敬意を込めた。
"狂える哲人"、彼の評判はこれ以上無く正しいのだろう。
己の分をわきまえ、充足する以上を求めない。
アルブレヒトにとって初めて見る種類の者だった。
もし、自分が皇帝嫡子ではないただのアルブレヒトだったなら彼に弟子入りしていたかもしれない。
しかし、それは自分には許されない。
未来の皇帝として、臣民を導くためには"今"に甘んじることなどできないのだから。