自殺
ある日の昼下がり、自分は食パンとコーヒーという遅めの朝食を食べながらスマホでSNSを徘徊しているとこんな記事が目に入った。
「電車に飛び込もうとしていた少女を止めた16歳の少年に感謝状授与」
自殺しようとしている光景を実際見たとして、果たして自分はその少女を止める事が出来たであろうか?おそらく見て見ぬ振りをしてしまいそのまま行動に移った少女は命を落とすだろう。自分の薄情さに内心苛立ちつつもこれがどれだけ勇気の必要な行動だったかを思うと、その少年には敬服の念を抱かずにはいられない。
ただその記事には助けられた少女に関することは一切書かれていなかった。とするとだ、これを美談で終わらせるには少々早計ではないだろうか。
自殺もまた、勇気が必要な行動である。何を言ってるんだという人もいるかもしれないがこれに関しては自信を持って言えるだろう。生きている上で死ぬということに恐怖を感じるのは言うまでもないことだ。だが自殺というのは死への恐怖を膨大な勇気で乗り越えることで初めて出来る行動なのだ。つまり、見方を変えれば少年は少女の勇気ある行動を無理矢理止めたとも言えてしまうのだ。
少女が何故自殺をしようとしたのかは分からないが、家族関係や友人関係など少女の取り巻く環境に大きな問題があったことはまず間違いない。自殺によってその環境からやっと解放されると思っていたのに少年の手によって邪魔をされてしまった。それどころか大きな問題がある環境にまた戻されてしまった。そんな風に少女は考えてしまってもおかしくはないだろう。そうだとすると少女は一度死への恐怖を乗り越えてしまったが為、近いうち再び自殺しようとしてしまうのではないだろうか。
世間では少女を救ったと歓喜の声をあげるだろうが、一度救っただけで終わるほど自殺というのは単純なものではない。個人の感想ではあるが世間には自殺に関して、些か軽視されている部分があるのではないかと勘繰ってしまう。少女の取り巻く環境にどのような対策をとっているのか。例えば学校で同級生達に虐められているのであれば、学校から離れて生活させる(悪い言い方をすれば不登校にさせる)などの対策だ。二度と少女が自殺を考えないようにする為、アフターケアは万全にする必要があるだろう。
無論、記事に書いていないだけであって少女へのアフターケアはちゃんとしているのかもしれない。憶測で色々書いてきたのだが実際には少女は止められたがっており、少年が助けたことによって少女は完全に救われたのかもしれない。結局何が真実なのかなんてものは当事者にしかわからないだろう。
ここで言いたいのは毎日のように自殺者の出たニュースなどを見て「自殺」自体が軽視されているのではないかということだ。自殺者に対して電車が止まっていい迷惑だなんて、たとえそれが正しいことだとしても言って欲しくないというのが自分の感想だ。「自殺」というものは決して迷惑の一言で片付けられるほど軽いものではないはずなのだ。