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死想  作者: 針山
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社会不適合者

 終電前の駅のホームには、疎らとは言えないくらいの人混みがあった。

 男が呟く。

「生きたいかなぁ」

 返答ではなく、問いかけ。

 期待した答えを待つのではなく、答えがないのを知りながら口にする、戯言の類。

 独り言……ではあるのだが、男の周囲には幾人かがスマホを覗いて個人の世界を作り出している。

 人がいるのに、人はいない。

 別に洒落た言い回しでもかっこいい文言でもない。事実であり、また男も周囲に何の期待もしていない。返事が来るなんて、期待を、微塵も持っていない。

「ふぅ……」

 ため息が世界に溶け込む。

 影のある、影がある目元。落ちる肩は重そうに、立つ脚は頼りない。

 纏う空気は澱み、振り撒く酸素は薄い。

「ああ、嫌だなぁ……」

 零れる言葉は、ただただ重い。

 単純だった。簡単な話だった。

 男は世界を股にかける企業戦士でも、何か重要な商談を控えたエリートでも、誰かのために戦うスポーツ選手でもなく。

 くたびれスーツにシワくちゃのシャツ。ズボンはまだマシでも、その下の靴はボロボロの半壊状態。

 生気が薄く、覇気がない。

 疲労困憊の、サラリーマンだった。

「行きたくねぇな……」

 呟く、呟く。

 恨み言にも届かない情けない言葉は、隣で立つ駅員さえ拾ってくれない。駅のホームで帰宅の電車を待つ男は、意味のない単語を漏らしては世界に消されていた。

 だから、か。

 だったから、か。

 終電の時間になったこの時、昨日までは駅員も大変なのかとちょっとばかりの同情と嘆きを内包した感情を胸に抱いていたのだが、今日は違った。違ってしまった。

 男が、かもしれないが、一番は駅員が。

「よう、お疲れ」

 もう一人駅員が現れ、気さくな会話を始める。

 楽しそうに、疲労を見せながらも笑顔で。

 周囲に乗客がいても関係なく、別に会話が悪いことではないので問題ないのだろうが、雑談が始まった。

 特筆することのない、一般的な同僚同士の話。

 さすがに悪口といった単語は出てこないが、それでもちょっとした冗談が投げ交わされる。

 それを見て。

  それを聞いて。

   それを受けて。

 男は単純に――呪った。

 死ねばいいのに、客の前で喋るなよ、仕事としろ――と。

 口には出さず、顔には出して、不愉快な感情を生まれさせる。

 どろり、どろりと。胸の真ん中が重くなる、痒くなる、不快な気持ちを。

 けれど、それでも。

 男はそれ以上進まない。

 何かするとか、ネットに書き込むとか。

 そういった具体的な行動に移さず、ただ胸に仕舞う。溜める。

 思い浮かぶのは先ほどまでいた場所。

 生きるのにほぼ大多数が通う、しかも人生の大半を占める会社という場所。

 男は使えなかった。

 自分でもわかっている。要領が悪く、容量がない自分が迷惑をかけていることを。

 自分に合っていないんじゃないかと自問自答して、けれども未だ辞められずにいる状況を。

 知識もなく、経験もない。

 中途採用で入ったばかりの、まだ数か月しか経っていない会社で、男はただ不要な存在だった。

 いなくても良くて、いれば邪魔になる。

 任される仕事は少なく、任せられる仕事はほとんどない。

 生産はなく、消費しかない。

 だから、男は、考えていた。

 こんな世界から抜け出したいと。

 早く違うところへ行きたいと。

 そうやって日々をやり過ごし、誤魔化していた。

 本質を理解することなく。

 どうしてその発想に至ったのか、考えることなく。

 逃避の代弁。

 逃走の弁明。

 どの言葉で飾っても、意味は一つとなる。

 逃げ出したい。けれど、自分じゃ逃げ出せない。

 勇気の問題ではなかった。男の揺らぐ、端的に言えば優柔不断な感情からだ。

 会社では使えない部類の人間。確かにそれは事実で、同僚と呼べる先輩なども男を煙たく思っているだろうと想像はできたが……それでも、だ。

 それでもイジメに発展するような蔑ろにはされず、それでも無理難題を押し付けられ自主退社を仕向けられるようなことをされてはいない。

 だから、悪者がいないのだ。

 ちゃんとした悪役が登場しないから、問題だった。

 男にとって倒すべき敵がいない。

 世界は優しく、それでも厳しく。成長という名の時間を望んで進んでいく。

 だから『今』は辛くとも、刻まれた将来はきっと多分おそらく、ちょっとは良いものになっている可能性はある。

 だが、男にそんなモノはいらなかった。

 理由が欲しい。

 逃げ出す正当な言い訳が欲しかった。

 誰に話してもしょうがない、頑張った方だ、そんなところが悪いと言ってくれるような、優しい抱擁となる言葉をかけられる、状況が欲しかった。

 もちろん、嘘を吐いて語りかけられる事態にしても良かったが、男はそこまで出来ていなかった。

 人が、というか、悪党が、というか。

 思考回路はクズみたいなモノだが、それでもそれ以上には成りきれなかった。

 いっそのこと、最低の人間まで行ければまだ違ったのかもしれないのに、中途半端に罪悪感を持ってしまうから、結局袋小路に行き着いてしまう。

 逃げることも努力することもない、ただ安易な道を望んで。

「死ねよ……」

 駅員に直接言うでもなく、さりとて口の中に収まりきらず出てくる言葉。

 簡単に言えてしまう単語。

 簡易に使える言葉。

 便利な台詞。

「死ね……」

 呟く、呟く、呟く。

 男にとって不運だったのは、不幸かはわからないが、なまじ普通の会社に就職してしまったことだった。

 都合よく生きてきたツケが、回ってきた。

 努力を嫌うでもなく考えずに生きてきた、世界は思ったよりも簡単に回っているなんてお門違いの思い違いを正さず生きてきた、ツケが回ってきた。

 悔しさはある。だが何をどうすればいいのか解らない。

 妬ましさはある。だが誰に何をすればいいのか解らない。

 そんなマイナスしかない感情を抱えて、持ってしまった。

 発展もなく、発想も生まれず。

 だから、そう。

 男にとって、世界はすでにどうでもいいものだった。

 明日になれば変わったかもしれない。

 昨日だったら違う考えがあった。

 けれど、男は『今』ここにいる。

 残酷なまでの現実を。

 救済のない幻想を。

 抱いて抱えて抱き締めて。

 幸福な周囲の無関係な人間を見て。

 男はふっと、魔が差した。

「……死ね」

 呟く。

 小さな、誰に向けた言葉を。

 一歩、進んでみた。

 後ろではなく前に。

 前といっても明日ではなく。


 一歩、白線の内側にお下がりくださいと、アナウンスされる境界線を。


 進めた。

 進んでしまった。

「……いきたくない」

 声は暗かっただろうか。

 声は重かっただろうか。

 電車が来るとアナウンスが流れる。

 だから、また一歩。

 白線から離れる。境界線を跨ぐ。

「……死ぬ」

 顔をあげる。

 男は前を見る。

 汽笛が鳴る。

 駅員が気づく。

 男が進む。

 そして――男の世界は、弾き飛ばされた。


 電車が急停止したかと思うと、接触事故があったと車掌がアナウンスする。電車内からは見えなかったが、ホームからは悲鳴が聞こえた。

 安全確認のためにしばらく停車すると流れる声を聞き、乗客は口々に戸惑いと悪態を吐いていた。

「最悪……」

 まだ若い一人の少女。

 少女もまた、他の乗客と同じように嫌そうな表情を浮かべながら帰宅が遅れることに悪態を吐いていた。

「はぁ、ついてないわ……」

 苛立ちながらスマホを起動させる。特に見るものはないが、暇つぶしに何となくネットを眺める。

 五分経ってもアナウンスは安全確認、現状確認をすると言って発車に関して説明はない。

 駅員が慌てて動くのが見える。人々から聞こえてくる会話からは、誰かが飛び込んだらしい。恐らく即死じゃないかと無責任な声も聞こえてくる。

「どっか他のとこで死ねよ……」

 少女もまた、無責任な呟きを残して。


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