第33話 右頬を撫でられたのなら、左頬も差し出しなさい
栄治は暫く、口元までお湯に浸かってブクブクと息を吐いていた。そんな彼の頭の中では、先ほどの優奈の言葉が繰り返し反芻されている。
「私……栄治さんの事が好きです!」その言葉が延々と栄治の頭の中で繰り返されていた。
「はぁ〜、なんで俺はあの時すぐに返事しなかったんだよ……」
今度は浴槽の縁に頭を乗せ、天井を見上げ大きなため息を吐く。
今の栄治なら、幾らでも言葉が思い浮かぶ。しかし、優奈に告白された瞬間は本当に何も言葉が思い浮かばなかった。「あ」や「う」などの短い、もはや言葉とは言えない単語すらも発する事ができなかった。
「俺がここまでのヘタレだったとはな、82年間独身を貫いた実力はさすがだぜ……マジ俺クズだな」
告白した後、なかなか返事をしない栄治に、徐々に不安そうになる優奈の表情を思い出して、栄治は罪悪感に苛まれる。
きっと優奈は勇気を振り絞って告白してくれたはずだ。自分も若かりし頃に告白した時は、前日から緊張で眠れなくなり、告白した瞬間の前後の記憶はないくらいである。
彼女がそれ程の思いをしたのかどうかは、栄治が知る術はないが、告白というものが簡単ではないのは確かだ。
「答えなんて決まり切ってるのにな……」
彼の気持ちは既に答えが出ていた。というよりも、優奈が告白してくる前から、栄治は彼女に好意を寄せていた。それはもう、告白寸前までしてしまうほどに。
「でもまさか優奈から告白されるとはなぁ」
その時のことを思い出して、思わず口元を緩めてしまう栄治。
自分の意中の相手、しかも美少女が告白をしてきたら、それは誰しもがニヤケ顔にもなってしまうだろう。しかも、ここは風呂場で相手はタオル一枚と言う、なんとも際どいシチュエーションであった。
「そうなんだよな、ここが風呂場じゃなかったら! 優奈があんな格好じゃなかったら!」
優奈のような、プロポーション抜群の女の子が頬を染めながら、好きですと言い寄ってきたら、しかも格好はタオル一枚纏っただけ、少し前かがみに言う彼女の姿勢は、タオルに隠しきれない谷間を殊更に強調させていた。
そんな事をされては、言語能力を失っても男としては仕方がないことではないだろうか。
「きっと普通に告白されてたら、すぐに返事ができた……と思うんだけどなぁ……」
栄治は自信なさげに一人呟いた後、湯浴み場から上がった。
栄治は、湯浴み場の隅に用意されていた新しい服に着替えると、メイドさんに言って食堂まで案内してもらう。
そこには大きな長テーブルに色とりどりの料理が所狭しと並べられていた。
優奈の告白で気が動転していた栄治も、この時だけは目の前に並ぶ料理に心奪われて唾を飲み込んだ。
あらかじめ食堂にいたメイドが、栄治を案内して席に着かせると、大皿から少しずつ小皿に取り分けて、栄治の前に持ってきてくれた。
「ふむ、これは絶景」
自分の前に並べられた料理に笑みを浮かべる栄治は、ふとある事に気付き、斜め後ろに立つメイドに尋ねる。
「そう言えば優奈は食堂に来ていないのですか?」
「ユウナ様は疲れで食欲がないとの事でしたので、今は部屋にお戻りになって休んでおられます」
「そう……ですか」
メイドの話を聞いた栄治は、ウキウキしながら両手に持っていたナイフとフォークを静かにテーブルの上に置いた。
再び栄治の心の中に、罪悪感が湧き上がってくる。
もしあの時、優奈の告白を瞬時に受け入れる事ができたなら、今頃は二人で美味しい食事を楽しんでいたのだろうか? 優奈と二人で「これ美味しいね」とか言って笑い合っていたのだろうか?
「恋人らしく『あ〜ん』とかやってたのかなぁ……はぁ〜」
栄治は、選択肢を変えていたら辿っていたであろう輝かしい運命を想像すると、ガックリと項垂れ特大の溜息を吐いた。
「……あの、エイジ様。何かお気に召さない事がありましたでしょうか?」
栄治の落胆っぷりを見たメイドが、恐る恐る尋ねてきた。
きっと彼女は、目の前の料理に栄治の気分を害するものがあったと勘違いしているのだろう。そんなメイドの誤解を解くために、栄治は努めて和かな表情を浮かべて言う。
「いえ、大丈夫です。ちょっと自分自身のことで不甲斐ないことがあったもので、それを思い出して落ち込んでしまっただけですので、心配無用です。大変美味しそうな料理を準備してくれて有難うございます」
「そうですか。何かご要望があればお申し付けください」
「はい、有難うございます」
栄治は和かな表情のまま、メイドに向かって頭を下げる。
しかし、その和やかな表情の裏では、今だに優奈の告白のことを悶々と悩んでいた。
もしあの時、スマートに返事を返せていたらどうなっていたんだろうか? 優奈が「好きです」と言ったときに「俺も君の笑顔に心を奪われてしまったよ。愛している」なんて返せていたら。いや、今のは少し気持ち悪いかもしれないが。それでも、何も言わずに瀕死の魚のように口をパクパクさせるだけよりはマシだろう。
なんであのときあんな反応しかできなかったのか……
そんな考えが延々と栄治の頭を巡っているとき、ふと彼は気が付いてしまった。
俯かせていた顔をハッと上げ、頭上にピッカンと豆電球を付けながら栄治は一人呟く。
「……別に今から優奈のところに行って返事しても遅くないんじゃね?」
栄治はパッと表情を明るくして椅子から立ち上がった。
「そうだよ! なんで告白されてんのに俺はこんなにもブルーな気持ちになってるんだ? 別に俺が告白して振られたわけじゃないんだから、今から優奈のところに行って話をすればいいじゃないか!」
「エイジ様? どうかなさいましたか?」
一人でブツブツと呟いていたかと思うと、急に椅子から立ち上がって大きな声を出す栄治に、心配になったメイドが声をかける。
そのメイドに、栄治はガバッと体ごと向きを変えて向かい合うと、鬼気迫る勢いで尋ねた。
「すみません! 急用を思い出しまして、今すぐ優奈のところに行かないといけないのですが、案内をお願いできますか?」
「え? あ、はい! 直ちに案内いたします!」
メイドは一瞬、栄治の気迫に気圧されてポカンとした表情を浮かべたが、すぐにそれを引き締めると「それではご案内させて頂きます」と一礼してから、栄治を食堂の外へと促した。
「急な要望申し訳ありません」
「いえ、お気になさらないでください」
栄治の詫びに、メイドは和かな笑みを浮かべる。そこには、嫌味や面倒臭さといったものは一切感じられず、ただ純粋な笑みにしか見えない。
「メイドの鑑だなぁ」と栄治は内心で感心しながら、食堂の長テーブルに置かれている豪勢な料理に目を向ける。
「あの、用事が済んだらまた食事に戻りますので、このままにして置いてもらってもいいですか?」
「畏まりました」
栄治の言葉に、再び礼をして答えるメイド。
優奈との一件が問題なく終わったら、2人で一緒にご飯を食べよう。そう心に誓う栄治の頭の中には、どうやったら自然と彼女に「あ〜ん」をして貰えるかの入念なシミュレーションが行われていた。
食堂を出て案内の為、先頭を歩くメイドの背中を見ながら、栄治の心には段々と不安が大きくなっていた。
風呂場での不甲斐ない自分を見て、優奈は心変わりしているかも知れない。そんな不安が栄治の頭の中で蔓延っていた。
冷静になって現実的に考えると、優奈の性格からしてその可能性は皆無にも等しいのだが、今の栄治には冷静な判断というのは、逆立ちしながら腕立てをするくらいに難しい事だった。
もしかしたら、風呂場で彼女が告白してきたのは、暴走した自分の妄想が生み出した幻だったんじゃないか。そもそも、風呂場に優奈が入ってきた事すらも夢だったんじゃないのか。そんな考えも栄治の頭に浮上し始めたとき、彼の耳にメイドの声が入ってきた。
「エイジ様、こちらがユウナ様のお部屋でございます」
そう言って、メイドは一枚の扉の前に立ちながら言うと、ノックをする為に軽く丸めた拳を自分の目線の位置まで持ち上げた。
それを見た栄治が、慌てて制止する。
「あ! ちょっと待ってもらっていいですか? その……自分のタイミングで入りたいのでノックは俺がします」
「……畏まりました」
なぜか途轍もなく緊張した様子の栄治の言葉に、メイドは疑問符を頭の上に浮かべて首をかしげるが、すぐに頷いて、自身は数歩後ろに下がって、栄治に扉の前の位置を譲った。
「すみません有難うございます」
栄治はメイドに小さく頭を下げてから、扉の前に立つと、深呼吸を5回ほど行う。
「す〜は〜……よしっ! 代紋栄治、男を見せる時がきたぞ!」
気合いを入れて、自分自身を奮い立たせた栄治は、意を決して目の前の木製の扉をノックする。
コン、コン、コンと小気味よい音が三回廊下に響き渡る。緊張している栄治は、その音がやけに耳に響いて、頭の中が真っ白になりかけるが、どうにか扉越しに言葉をひねり出す。
「えっと……優奈? 俺……栄治だけど、ちょっと話がしたくて、中に入ってもいいかな?」
緊張で若干声が上擦ってしまったが、なんとか問題なく言い切れた栄治は、ひとまず一息付いて、優奈の反応を待つ。
その気になる反応はと言うと、栄治の言葉が終わると同時ぐらいに、ガタンッと少し大きな音がして、その後にドタドタドタッと何やら走り回る音が聴こえて、その後は一切物音がしなくなった。
その音を聞いて、栄治は若干心配になって扉のノブに手を掛けるが、女の子の部屋に返事を貰う前に入るのはどうなんだ? と思い、そこで動きを止める。
「優奈? 大丈夫かい?」
部屋に入る代わりに、声をかけることにした栄治。
その彼の呼びかけに、今度は優奈も声で反応してくれた。
「はは、ははは、はい! 何も問題ありません! 部屋に入ってきてもよろしいで御座いますよ!」
謎の敬語で入室の許可を得た栄治は、ゆっくりと扉を開いて、優奈の部屋に足を踏み入れた。
優奈の部屋は、栄治の部屋と全く同じ作りになっていて、大きく広い部屋に天蓋付きの巨大ベット、外に面している方の壁には、大きなガラス窓が取り入れられている。そして、高級感あふれる調度品が取り揃えられていた。
そんな部屋の真ん中で、なぜか直立不動の優奈。
背筋をビシッと伸ばして、真っ直ぐに伸ばした両腕をピシッと体の横に付けて固まっている優奈と、後ろ手に扉を閉めたまま、そんな彼女を見て固まる栄治の間に、数秒間の沈黙が流れる。
その沈黙を破る為に、栄治が口を開く。
「ヤ、ヤァ」
「ハ、ハァイ」
なぜかお互いに欧米風の挨拶を交わす。
お互いに緊張しすぎているせいか、なんとも微妙な雰囲気になってしまっている。
「…………え〜っと」
「………………はい」
「…………その、立ち話もなんだから、ちょっと座って話をしようか」
「は、はい! そうしましょう」
なんともぎこちない会話を交わす2人は、部屋に備え付けられているソファの方へと向かう。
先に優奈が座るように栄治が促し、彼女がソファに腰を下ろすと、栄治はすかさずその横に腰を落とす。
自分の隣に座ってきた栄治に、優奈は驚いたような表情をする。
この時、栄治は現世で読んだ、恋愛心理学の本の内容を思い出していた。
こう言うシチュエーションの時は、対面に座って話すよりも、側面に座って話した方がいい。そう本には書いてあった気がする。なんでも、人は対面の位置で会話すると、無意識のうちに緊張してしまって、なかなか素直に話ができないらしい。
と言うのを思い出した栄治は、とっさに優奈の隣に座ったのだが……
まずい! 距離が近すぎる! 一瞬の判断で座ったから距離を見誤ってしまった。こんな距離じゃ逆に緊張して話ができん!
と軽い混乱状態に陥ってしまっていた。
しかも、今の優奈の格好は、寝るための服装なのか、かなりの薄着でボディラインが薄っすらと見えている。さらに、風呂上がりの女性特有のいい香りが、至近距離で栄治の鼻腔を刺激している所為で、栄治の思考能力は段々と機能停止へと向かっている。
そんなカオスな状態になっている栄治に、優奈がおもむろに話しかける。
「……あの……お話というのは、やっぱりお風呂場でのこと……ですよね?」
不安そうな上目遣いで言う優奈を見て、栄治はコックリと頷く。
「そう……だね。その話だね。あの時は俺、気が動転しちゃってさ……返事ができなかったから……その返事をしに来…」
「あ、あのっ! 無理に返事をしなくても大丈夫です!」
栄治の言葉を優奈が上擦った声で遮った。
「あの時も言いましたけど、私はただ自分の気持ちを知って欲しかっただけですから。別にその……私の気持ちに応えて欲しいとか、そう言うのは無理に求めません。ただ……ただ、私の気持ちを知って欲しかっただけですから……」
優奈は話しているうちに段々と顔を俯かせていき、声も小さくなっていた。
「なので、栄治さんと……えと、お付き合いしたいとか、そう言ったことは望みません……栄治さんは何も気にせずに今まで通りに私に接して下さい。だから、お願いです……………………これからも一緒にいて下さい!」
優奈は身体ごと栄治の方を向くと、ガバッと頭を下げてきた。
突然の彼女の行動に、栄治は驚いて若干身を引いてしまった。
優奈は頭を下げたまま、話を続ける。その表情は頭から垂れる髪で遮られて伺うことができない。
「私の言ってる事、矛盾してますよね? 意味……わかんないですよね? 本当は私、栄治さんに告白するつもりはなかったんです。成功すればそれはとても嬉しいですけど……でも、失敗したら今までの関係じゃいられないじゃないですか。もしかしたら、もう栄治さんと一緒にいられないかも知れないじゃないですか。そう考えると、怖くて……それなら、告白なんてしないで今の関係をずっと保った方がいいって思っていたんです……」
頭を下げたまま話す彼女の肩は、若干震えていた。
そんな優奈の様子を見ていた栄治は、さっきまでの緊張がスッと嘘のように晴れていた。
「私……栄治さんと一緒じゃないと、本当にダメなんです…………情けないですよね? こんな依存しちゃうような女性、栄治さんは……嫌いですよね……でも、でも私……この世界が怖いんです。人の命が簡単に奪われちゃうこの世界が……栄治さんがいなくなったら、私は、1人でどうすればいいのか分からないんです…………だからお願いです。こんな私ですけど、どうか……どうかこれからも一緒に……」
「好きだよ」
「…………えっ?」
栄治が発した言葉に、優奈が弾けるように顔を上げた。
「い、今、栄治さんは……なんて……」
優奈はその表情に、不安や疑い、歓喜や悲しみ等といった様々な感情を浮かべながら、恐る恐る栄治に聞き返す。
栄治はそれに、彼女の目を真っ直ぐに見て、湯浴み場での二の舞にならぬように、はっきりと答えた。
「俺は、優奈の事が、好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間に、優奈の瞳が驚きで、みるみる大きくなっていった。
「え……うそ……ほんとう……ですか?」
「あぁ、本当だとも。俺は優奈が好きだよ」
優奈は暫く、目を大きく見開いたまま固まっていたが、やがてその大きな瞳に、涙を浮かべ始めた。
「わ……私、栄治さんに嫌われたと……グスッ……思ってました」
「いやいや、優奈を好きになる事があっても、俺が優奈を嫌う要素なんてどこにもないよ!」
「でも……私が告白した時、栄治さん全くの無反応だったので……てっきり私の事なんてなんとも思ってないんじゃないかと……」
「うっ……それは、ごめん。あの時は、あまりにビックリしすぎちゃって、体が硬直しちゃったんだよ」
湯浴み場での事を言われ、言葉を詰まらせる栄治は、只々頭を下げて謝罪する。
「あの時は、本当に不甲斐なくて申し訳ありませんでした。この通り誠心誠意謝罪させていただきます。だからその、もう泣かないでよ」
そう言って栄治は、少し躊躇するように腕を動かした後に、意を決して優奈の顔へ手を伸ばし、彼女の目にかかった髪を優しく払うと、瞳から溢れそうになっていた涙をそっと指で拭ってあげる。さらに栄治は、手のひらで数回、優奈の頬を撫でてあげる。ここで彼の恥ずかしさがマックスに達して、腕をさっと引っ込めると、その手のやり場に困って、自分の頬を照れたように人差し指でポリポリとかく。
そんな栄治の行動に、優奈は驚いた表情のまま、じっと黙っていたが、やがて「エヘヘ」とその表情を緩めると、栄治がさっき撫でた右頬とは反対の左頬を僅かに前に出しながら言う。
「栄治さん……もう一回してください」
「うぇ⁉︎」
優奈のまさかのおかわり発言に、思わず変な声が出てしまう栄治。
そんな彼に、優奈は必殺技を繰り出す。
「だめ……ですか?」
少し涙で潤んだ上目遣い、これはもう反則技といっても過言ではない。
「全然ダメじゃないよ!」
栄治はそう言って、腕を伸ばし、今度は彼女の左頬を撫でる。
優奈は栄治の掌の感触を目を閉じて感じ、自らも顔を動かして、擦り寄ってくる。そんな彼女に、心を奪われていた栄治は、それでも時と共に恥ずかしさが勝って、暫く経つと手を引っ込めてしまった。
それに対して、少し唇と尖らせて、優奈は不満をアピールするが、すぐに表情を笑みに変える。
「栄治さん」
「ん?」
「大好きです」
優奈は、出会ってから今までで、一番の笑顔を浮かべながら言う。
彼女の眩しい笑顔と言葉に、今度こそ栄治は完全に心奪われ、思考停止に陥ってしまった。




